第1話 坂本龍馬・誕生
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天保六年十一月十五日、土佐の郷士坂本家に一人の男児が生まれた。
名は坂本龍馬。父母と兄の坂本権平、それに坂本千鶴、坂本栄、坂本乙女という三人の姉に囲まれた末っ子である。
龍馬自身は生まれた日のことなど覚えていない。後に聞かされた話では、生まれた時、背中には馬のたてがみのような毛が生えており、その前夜、母の坂本幸は龍が空を駆ける夢を見たそうだ。それで龍と馬を合わせ、龍馬と名づけられたという。
ずいぶん出来すぎた話である。
もっとも龍馬としては、鹿の夢でなくてよかった。馬と鹿を合わせたら馬鹿である。生まれた瞬間からそんな名前を背負わされるのは、さすがに勘弁してほしい。
坂本家は武士の家だったが、古くから続く名門ではない。もとは才谷屋という商家の流れで、先祖が郷士株という郷士の身分を得るための権利を手に入れ、侍となった家である。土佐では城下で藩政を担う上士と郷士との身分差が大きく、同じ刀を差していても役目も待遇も違った。上士に目をつけられれば、郷士の側が頭を下げるしかないことも多い。
理不尽である。
だが坂本家そのものは裕福だった。商家の血筋だけあって金には困らず、しかも龍馬は次男で末っ子。兄の権平が家督を継ぐため、跡取りとしての責任まで背負わなくてよい。
金のある家の末っ子で、跡取りでもない。
かなりおいしい立場だった。
そんな環境で育った龍馬は、見事にのびのびと育った。いや、のびのびというのは少し聞こえが良すぎる。怖いものがあれば逃げ、嫌なことがあれば泣く。武士の子に期待される勇ましさとは、かなり遠い少年だった。
この頃の渾名は泣き虫龍馬。
本人としては、できれば後世には残してほしくない名前である。
学問の塾へ通ったこともあったが、そこで上士の子供たちに目をつけられた。相手は上士、こちらは郷士。子供同士だから身分など関係ない、とはならないのが土佐だった。やり返して騒ぎになれば、最後に困るのは坂本家である。
龍馬はほどなく塾を辞めた。
いじめ、ダメ、絶対。
当時の土佐にそんな便利な標語はなかったが、龍馬としては城下じゅうに貼って回りたいくらいだった。
それからは姉たちに読み書きを教わった。母の幸は、そんな龍馬を責めることもなく、いつも優しい声で言った。
「龍馬は優しい子じゃからね」
幼い頃は素直に喜んでいた。だが少し大きくなると、龍馬にも分かってくる。
優しい。
つまり、気が弱い。
ものは言いようである。
一方、三番目の姉である乙女は遠慮がなかった。
「龍馬はもう少し気張らんといかんぜよ」
乙女は龍馬より三歳上だったが、とにかく身体が大きかった。背も高く、腕力も強い。龍馬を苛める悪童がいれば真っ先に助けてくれたが、そもそも近所で一番恐れられている子供も乙女だった。
龍馬は時々思う。
これは助けてもらっているのだろうか。
それとも、もっと強大な勢力の庇護下に入っているだけなのだろうか。
まあ、守ってくれるのだから文句はなかった。
ところが、龍馬が十二歳になった頃、その穏やかな日々が終わる。
母の幸が床についた。病は労咳だった。当時としては珍しい病ではないが、確実に治す術もない。坂本家には医者を呼ぶ金も薬を買う金もあった。それでも病は止まらなかった。
日に日に痩せていく母を前に、龍馬には何もできない。
金があっても助からない。
子供だった龍馬には、それがどうにも納得できなかった。
やがて幸は亡くなった。昨日まで話していた人が、今日は呼んでも返事をしない。人の死とは、あまりにもあっけないものだった。
龍馬は泣いた。
泣き虫龍馬の名に恥じぬほど泣いた。こんなところで渾名どおりにならなくてもよかったが、それどころではない。
そして幸は、死ぬ間際まで末の息子を心配していたらしい。気が弱く、塾から逃げ帰り、武士らしい勇ましさとは縁遠い龍馬。この先どうなるのか、不安だったのだろう。
幸は乙女に言い残した。
龍馬を頼む。
普通なら、弟の面倒を見てやってほしい、くらいの意味である。
普通なら。
だが乙女は、その言葉を恐ろしいほど真正面から受け止めた。
弟を一人前にする。
弱虫を鍛え直す。
立派な武士にする。
どうも母の頼みは、乙女の中で三段階ほど勝手に増幅されたらしい。
「こらぁ、龍馬! 逃げるなぁ!」
それからしばらくして、坂本家の裏手に乙女の怒声が響いた。
龍馬は振り返らない。本気で逃げる。草履が脱げそうになろうが、着物の裾が邪魔になろうが構わない。捕まればろくなことにならないことだけは、すでに嫌というほど学習していた。
「待ってくれ、乙女姉ちゃん! 今日は腹が痛いがじゃ!」
「さっき飯を三杯食うちょったろう!」
「そ、それとこれとは別じゃき!」
「何が別ながじゃ! 待たんか!」
しまった。
見られていた。
こういう時だけ姉の記憶力は妙にいい。
「逃げ切れると思っちょったかぁ!」
声が一気に近づき、次の瞬間には襟首を掴まれていた。龍馬が恐る恐る振り返ると、そこには木刀を片手にした乙女が仁王立ちしている。
怖い。
完全に怖い。
少なくとも弟へ向ける顔ではない。
「い、命だけは助けてくれんかのう」
「何を言いゆうが。剣の稽古ぜよ」
「その顔で稽古言われても説得力がないき」
「亡くなった母上に、おんしを一人前にすると約束したがじゃ」
「母ちゃん、そこまで言うちょらんと思うぞ」
だが乙女は聞いていない。龍馬へ木刀を押しつけると、自分も構えた。
「いくぞ、龍馬!」
「ちょ、待――」
木刀が振り下ろされた。龍馬は慌てて受け止めたが、次の瞬間には腕ごと弾かれた。木刀が宙を舞い、龍馬は尻から地面へ落ちる。
「痛っ!」
「立て!」
「今、腰が大変なことになっちゅう!」
「武士がそれくらいで泣くな!」
「泣く前に身体が壊れるわ!」
無茶を言う。
龍馬は十二歳。乙女は十五歳。三歳差なら、まあ何とかなりそうに思える。
ならない。
乙女は同年代の少年より大柄で、近所でも真正面から喧嘩を挑む者はいなかった。
泣き虫龍馬対坂本のお仁王様。
どう考えても勝負が成立していない。
「もう一度!」
「まだやるがか!」
「当たり前じゃ!」
「一回で十分じゃろ!」
「一回で強うなるなら誰も苦労せん!」
正論っぽい。
腹立たしいことに正論っぽい。
乙女の木刀が再び飛んでくる。受ける。弾かれる。転ぶ。また立たされる。
龍馬には剣術の稽古というより、自分がどれだけ丈夫か試されているようにしか思えなかった。腕は痺れ、尻は痛み、ついには目に涙まで浮かんでくる。
乙女はそれを見逃さなかった。
「また泣きゆうがか!」
「これは涙やない! 目から汗が出ゆうだけじゃ!」
「そんな汗があるか!」
あることにしてほしい。
十二歳にも意地くらいはある。
泣き虫龍馬と呼ばれているからといって、本人まで喜んで泣いているわけではないのだ。
その時、乙女がふっと木刀を下ろした。
終わった。
龍馬は胸を撫で下ろす。
「今日はここまでにしちゃる」
助かった。
ようやく仁王様にも慈悲の心が芽生えたらしい。
龍馬が立ち上がろうとすると、乙女は庭の隅へ歩いていき、大きな石を一つ抱え上げた。
「明日からは体力も鍛えるき、これを背負って山を走るぞ」
龍馬の涙が、今度こそ本物になった。
「乙女姉ちゃん……剣の稽古だけでええじゃろ?」
「何を言いゆう。剣を振るにも足腰が要るき」
「俺、一人前の武士になる前に死なんか?」
「大丈夫じゃ。死なん程度に鍛えちゃる」
その言葉を聞いて、龍馬は泣きながら一つだけ確信した。
この姉にとって、死なないことと安全なことは、まったく別の意味らしい。




