第45話 坂本龍馬は岩崎弥太郎に尾行される
土佐勤王党が膨れ上がってからというもの、龍馬の周りにはいつも人がいた。
以前は十人近い仲間を連れて毎日のように飲み歩いていたが、さすがにやめた。理由は単純である。金がもたない。
攘夷の前に財布が滅びそうだった。
そこで人数を絞り、三日に一度くらいの付き合いに改めた。
最近よく一緒にいるのは中岡慎太郎だった。もっとも、最近仲良くなったわけではない。慎太郎とは子供の頃からの付き合いで、龍馬にとっては昔から気心の知れた友人である。
幼い頃から互いの性格を知っているだけに、天下国家の話をしていても遠慮がない。慎太郎は熱心な攘夷家だが、頭の中まで熱くなっているわけではなかった。現実をよく見ており、龍馬が考えている商売や海運を利用した攘夷にも理解を示してくれる。
一方、沢村惣之丞とは最近になって急に親しくなった。
勘が鋭く、口も回る。考えるより先に動くようなところもあり、付き合ってみるとなかなか面白い男だった。
昔からの慎太郎と、新しく親しくなった惣之丞。気質は違うが、どちらも龍馬とは妙に話が合った。
問題は岡田以蔵だった。
呼んでいないのに、なぜか毎回ついてくる。
「以蔵、おんし今日も来るがか」
「龍馬さんの用心棒じゃき」
「わしに用心棒はいらんぜよ」
「何があるか分からんろう」
本人は大真面目だった。
剣なら自分の方が上ではないか、と龍馬は少し思う。いっそ一度勝負して白黒つけてやろうか。
ただ、幼い頃の以蔵は龍馬の後をついて回る仔犬のようなものだったのに、今では立派な番犬である。
しかもかなり怖い。
刺客は寄らないだろうが、女も寄らない。
それでは困る。
「あ、龍馬おった。ちょうどよかった。飯でも食いながら話が――」
声を聞いた瞬間、龍馬は振り返った。
望月亀弥太だった。
嫌な予感がする。こいつは高確率で飯をねだる。
「今食うたばかりじゃ。またの」
「待て龍馬、まだ何も言うちょらん!」
「待たん」
「おい!」
龍馬は逃げた。
天下国家を論じる土佐勤王党も、日常はだいたいこんなものである。
ある日、龍馬はいつものように下田屋へ向かっていた。
継母伊与の実家であり、龍馬が商売や廻船について学んでいる場所でもある。
しばらく歩いたところで、背後に妙な気配を感じた。
振り返らずに様子を探る。
小汚い身なりの男が一人、一定の距離を保ちながらついてくる。
尾行か。
龍馬は角をいくつか曲がり、わざと足を速めた。そして男が慌てて追ってきたところで物陰へ入り、横を通り過ぎようとした首根っこをつかんだ。
「おい。なんでわしをつけ回しゆう」
できるだけ低い声を出すと、男は情けない声を上げた。
「つ、つけ回してなんかおらんですきに。たまたま同じ道を歩いちょっただけです、坂本さん」
「わしの名前を知っちゅうやないか」
言い逃れとしては零点である。
龍馬が手を離さず睨むと、男は観念したように肩を落とした。
「下横目の岩崎弥太郎ですきに」
「下横目?」
聞けば、藩のために探索や監視を行う役目だという。
要するに怪しい者を調べる役人である。
「なんで、その下横目がわしを調べるがじゃ」
「そりゃ怪しいきに」
「何がじゃ」
弥太郎によれば、勤王党の中心に近い龍馬が、藩の貿易にも関わる下田屋へ頻繁に出入りしている。それを藩側が警戒したらしい。
当時、土佐藩の政治を大きく動かしていたのが参政の吉田東洋だった。
身分にこだわらず有能な者を登用し、財政改革や産業振興、藩政の立て直しを進める切れ者である。一方で、武市ら勤王党が求める尊王攘夷とは距離があり、藩論を巡って両者の対立は深まりつつあった。
その吉田が貿易政策も握っている以上、勤王党の龍馬が下田屋へ通えば疑われるのも無理はない。
どうやら吉田東洋を狙うため、龍馬が貿易関係者へ近づいていると思われたらしい。
「わしは商売を習いに来ゆうだけじゃ」
「井口村であれだけ暴れちょって、今さら誤解も何もないぜよ」
弥太郎は急にふてぶてしくなった。
こちらが事情を説明した途端、態度が大きくなっている。
実に腹の立つ役人である。
「実家が才谷屋の分家じゃき、商売には昔から縁があるがよ」
「なるほど。金持ちのぼんぼんが、道楽で攘夷をやりゆうわけか」
「誰が道楽じゃ」
「わしがお前なら、攘夷なんぞせん。商売に専念して資産を何倍にも増やしちゃる」
龍馬は思わず弥太郎を見た。
大きく出たものだ。
着物はくたびれている。懐が豊かにも見えない。
それなのに口だけなら豪商も裸足で逃げそうである。
だが、ここまで臆面もなく言われると、腹が立つより面白くなってきた。
「ほんなら証明してみいや」
「何?」
「商売が得意ながじゃろ。来い」
龍馬は弥太郎を引っ張り、そのまま下田屋へ連れていった。
最初は恥をかかせるつもりだった。
番頭と商売の話をさせれば、大口を叩いた化けの皮が剥がれると思ったのである。
ところが剥がれたのは、龍馬の余裕の方だった。
弥太郎は商品の仕入れ値、運送費、売り時について次々と質問し、番頭の答えを聞けばすぐ別の案を出す。港ごとの値段の差を利用した売買や、船を空で戻さないための荷の組み方まで考えていた。
こいつ、本当に分かっている。
弥太郎は貧しい地下浪人の家に育ったが、幼い頃から学問だけは抜きん出ていたらしい。
その後、ある事件で牢へ入れられた際、同房の詐欺師から算術や商売の駆け引きを学んだという。
随分と変わった商売学校である。
出所後は吉田東洋に学問と才覚を認められ、下横目へ取り立てられた。それだけではなく、表立ってではないものの藩の貿易にも関わっているらしい。
ただし、藩の仕事と市井の商売では勝手が違う。
弥太郎は番頭の話へ食いつき、実地の商売を貪欲に吸収していた。
気がつけば、連れてきた龍馬の方が置いていかれている。
何だこれは。
わしが勉強しに来たはずではなかったか。
それでも龍馬は不思議と愉快だった。
商売の話だけなら、ここまで話の合う相手も珍しい。
「のう、弥太郎」
帰り際、龍馬は思いついて声をかけた。
「おんし、土佐勤王党に入らんか」
「は?」
「わしと一緒に商売で攘夷するぜよ。金を稼いで船を動かして、異国と渡り合う。面白いと思わんか」
弥太郎はしばらく龍馬を見つめた。
少しは心が動いたかと思った次の瞬間、露骨に顔をしかめた。
「吉田様に恩のあるわしに、ふざけたこと言うなや!」
即答だった。
どうやら商売の相性と政治の相性は、まったく別物らしい。
龍馬は怒鳴る弥太郎を眺めながら、少しだけ笑った。
面白い男を見つけた。
少なくとも、それだけは間違いなかった。




