第44話 坂本龍馬は土佐勤皇党に血判する
武市半平太が江戸から帰国すると、すぐに道場の門下生へ招集がかかった。
龍馬も呼び出された一人である。
久しぶりに道場へ顔を出すと、見慣れた顔がずらりと並んでいた。岡田以蔵、望月兄弟、中岡慎太郎、那須信吾。そのほかにも、武市を慕う若い郷士たちが道場を埋めている。
やがて武市が皆の前へ立った。
江戸へ出る前より、少し顔つきが変わったように龍馬には見えた。
何かを決めて帰ってきた男の顔だった。
「皆に話がある」
ざわめきが消えた。
「わしは江戸で同志と盟約を結んだ。尊王攘夷を掲げ、長州とも力を合わせ、朝廷へ働きかける。そのための組織を作る」
龍馬も黙って聞いた。
武市が以前から、単なる剣術仲間ではなく政治的な組織を欲しがっていたことは知っている。
藩へ働きかけるにしても、他藩と結ぶにしても、一人の郷士が声を上げるだけでは弱い。
数が必要なのだ。
武市は一呼吸置いた。
「土佐勤皇党、と名付けた。我らは尊王を超えた勤皇の志士である!」
道場がどっと沸いた。
勤皇。
天皇のために働く。
その言葉は、尊王より一歩踏み込んだ響きを持っていた。
武市は一本の巻物を広げた。
盟約書だった。
すでに江戸で血判した者たちの名が並んでいる。
「これより土佐でも同志を募る。龍馬」
いきなり名を呼ばれた。
「おう」
「土佐での一番手は、お前にやってもらいたい」
「もちろんぜよ」
龍馬は迷わなかった。
指先を傷つけ、血をつけ、盟約書へ判を押す。
周囲から歓声が上がった。
これが武市が江戸へ向かう前に言っていた、龍馬にやってもらいたいことだった。
龍馬自身、道場ではそれなりに顔が利く。剣も使え、面倒見も悪くない。しかも坂本家には多少の金もある。
井口村の一件で上士に啖呵を切ったことまで、なぜか若い連中の間では評判になっていた。
つまり、龍馬が最初に何の迷いもなく血判すれば、後へ続く者も出やすい。
武市らしい計算だった。
実際、その効果は大きかった。
「わしも入るぜよ!」
「俺もじゃ!」
「武市先生についていく!」
次々に声が上がった。
龍馬は少しだけ胸を張る。
どうやら役には立ったらしい。
翌日の夜、龍馬は武市の屋敷へ呼ばれていた。
二人の間には酒と肴が並んでいる。
もっとも、酒を飲んでいるのは龍馬だけで、下戸の武市の前にあるのは茶だった。
「勤皇党、順調じゃのう」
龍馬が杯を傾けながら言うと、武市は満足そうに頷いた。
「以前から政治のための組織は必要じゃと思うちょった。長州と連携するにも、藩へ圧力をかけるにもな」
「それにしても、よう集まったのう」
「一日で百人を超えた。龍馬、お前のおかげも大きいぜよ」
「今は下士を一つにまとめんといかんきな」
大勢の前では武市先生と呼ぶこともあるが、二人きりになれば昔からの調子に戻る。
武市も肩の力が抜けているようだった。
「龍馬は若い連中に人気がある。お前が勤皇党を引っ張ってくれると助かる」
「何を言いゆう。皆、この立派なアゴを尊敬して集まったがじゃ」
「アゴアゴ言うな。このアザ小僧が」
「立派じゃぞ。遠くからでも武市半平太と分かる」
「斬るぞ」
龍馬は笑った。
武市も口元を緩める。
江戸から戻って以来、政治だ組織だと張り詰めていたが、今夜は珍しく楽しそうだった。
そこへ妻の富が酒と肴を運んできた。
「まあ、この人がこれほど楽しそうなのは龍馬さんがおいでた時くらいですわ。これからも懇意にしてやってくださいね」
「何を言いゆう、富」
武市が少し照れた顔をする。
「いやいや、富さんとおる時が一番楽しそうじゃろ」
「そうでしょうか。家ではあまり笑いませんけれど」
「いかにムッツリアゴでも、富さんとの寝所では笑いますやろ?」
武市が茶を吹いた。
「おい、龍馬!」
「いえ、あの人は夜もムッツリでして」
「こら、富!」
今度は龍馬が吹き出した。
武市の愛妻家ぶりは仲間内でも有名だが、どうやら妻の方が一枚上手らしい。
こんな武市を見るのは久しぶりだった。
それから土佐勤皇党の勢力は日に日に大きくなっていった。
百人を超え、やがて百五十人を超える。
龍馬でも顔を知らない者が、土佐各地から次々に加わってきた。
その中でも龍馬がよくつるんでいたのは、岡田以蔵、望月清平、望月亀弥太、高松太郎、北添佶摩、中岡慎太郎、沢村惣之丞、那須信吾、それに吉村虎太郎や池内蔵太といった連中だった。
昔からの知り合いもいれば、勤皇党を通じて親しくなった者もいる。
集まれば天下国家を論じた。
幕府をどうする。
異国をどうする。
土佐藩をどう動かす。
若者たちは熱を帯びて語り、龍馬もその輪の中心にいることが多かった。
やはり自分には人望がある。
そんな気がしてきた。
何しろ毎日のように誰かが寄ってくる。
毎日のように、である。
「坂本さん、ご馳走になります!」
「龍馬さん、今日もありがとうございます!」
「まっこと旨かったぜよ!」
ある夜、勘定を払った龍馬は無言で財布の中を見た。
軽い。
恐ろしく軽い。
ようやく気づいた。
こいつら、龍馬本人ではなく飯に寄ってきている。
近年の物価高で、下士の暮らしは苦しい。勤皇党に集まる若者の中には、一日の食事にも困る者が珍しくなかった。
坂本家の懐事情を知れば、そりゃ寄ってくる。
「龍馬さん、明日はどこで飲みます?」
「明日も坂本さんのおごりですか?」
「次は魚が食いたいぜよ」
龍馬は笑顔のまま、一歩後ろへ下がった。
「明日からしばらく、勤皇党の集まりは自重するぜよ」
「なんでです?」
「修行じゃ」
「何の?」
「財布を守る修行ぜよ」
志士を育てるにも金がいる。
商売を学び始めた龍馬は、そのことを誰よりよく知っていた。
そして今、その大切な活動資金が酒と飯に消えている。
勤皇党の志は高い。
だが、龍馬の財布は日に日に薄くなっていった。




