第43話 坂本龍馬は海と商売に活路を見いだす
池田寅之進の事件から数か月が過ぎた。
あれ以来、龍馬は妙に冷めていた。少し前までの自分を思い返すと、まるで熱病にでもかかっていたように思える。攘夷だ、倒幕だ、上士と戦だと、何かにつけて頭へ血を上らせていた。
だが、いくら国の行く末を憂えても、命を燃やして叫んでも、それだけでは世の中は動かない。
寅之進の死は、その現実を嫌というほど龍馬に教えた。
日本を守る。異国を追い払う。土佐を変える。どれも立派な話だが、今の自分一人にできることではない。
ならば、それは武市に任せればいい。
人任せと言われれば、その通りである。
武市、頑張れ。
もっとも、龍馬も何もかも投げ出したわけではなかった。
むしろ寅之進の一件を境に、自分にできることを考えるようになっていた。
その頃、龍馬は継母伊与の実家である下田屋へ足繁く通っていた。
商売の仕組みを聞き、船荷の扱いを眺め、廻船について学ぶ。剣術とはまるで違う世界だが、不思議と苦にならなかった。
もともと海は好きだった。
幼い頃から桂浜で太平洋を眺めて育ち、浦賀では黒船を目の当たりにした。河田小龍から聞いたジョン万次郎の漂流と海外の話にも胸を躍らせた。
海の向こうには、自分の知らない世界が広がっている。その感覚だけは昔から変わらない。
しかも坂本家は、もとをたどれば商人の家系である。
剣一本で生きるより、商売の方が案外自分に向いているかもしれない。
そう考えるうち、龍馬の中に一つの方向が見えてきた。
攘夷をするにも金がいる。志士を動かすにも、武器を買うにも、各地を行き来するにも金が必要だ。
ならば、その金を稼げる侍がいてもいい。
商人の感覚を持った武士。それなら自分にも役目があるかもしれない。
さらに先を考えれば、異国と戦うには海軍が必要になる。
まずは千石船を扱えるようになる。次に船を使って商売をする。その先で海上の戦い方を学び、いずれは海軍へつなげる。
かなり大きな話ではあるし、まだ絵に描いた餅に近い。
それでも、ただ攘夷と叫んで熱くなっていた頃より、ずっと龍馬らしい考え方だった。
剣で国を変えるのではなく、船と商売で国を動かす。
それも悪くない。
龍馬は少しずつ、そんな道へ気持ちを向け始めていた。
そんな折、武市半平太が藩の用事で江戸へ向かうことになった。
岡田以蔵、池内蔵太、吉村虎太郎らも同行すると聞き、龍馬はすぐさま食いついた。
「わしも行く! 千葉道場にも挨拶したいぜよ!」
表向きはそう言った。
本音は別にある。
佐那に会いたい。
だが武市はあっさり首を横に振った。
「龍馬には後でやってもらいたいことがある。今回は土佐に残ってくれ」
「なんでじゃ。以蔵も虎太郎も行くがじゃろ」
「今回は必要な者だけ連れていく」
「わしは必要ないがか」
「そうは言うちょらん」
そう言われると、余計に納得できない。
結局、武市たちは龍馬を残して江戸へ旅立っていった。
残された龍馬は、那須信吾らと顔を合わせるたびに愚痴をこぼした。
「絶対おかしいぜよ。なんで以蔵が行けて、わしが留守番ながじゃ」
「武市さんにも考えがあるがじゃろ」
「最近みんな、そればっかり言うのう」
「実際そうながじゃき、仕方ないろう」
まるで慰めになっていない。
江戸、千葉道場、佐那。その三つが頭に浮かぶたび、置いていかれたことが腹立たしくなる。
船と商売に新しい道を見つけたはずなのに、佐那のこととなると話は別だった。
「武市さん、わしを江戸のお供に連れて行ってくれてもえかったに」
その日の龍馬は、坂本家の奥座敷でもまだ愚痴っていた。
部屋には千鶴、栄、乙女の三人の姉もそろっている。久しぶりに姉弟四人が同じ場所に集まっていた。
「武市さんには武市さんの考えがあるぜよ」
乙女が呆れたように言った。
「そうかのう」
「そうじゃ」
「乙女姉ちゃんが旦那置いて実家へ帰ってきちゅうのも、深い考えがあってのことながか」
乙女の表情が変わった。
言った瞬間、龍馬は失敗したと悟った。
「龍馬」
「いや、今のは冗談――」
乙女の指が龍馬の目へ飛んできた。
「うわっ! やめろ乙女姉ちゃん! 目潰しはいかん!」
「口の悪い弟には薬じゃ」
「そんな薬があってたまるか!」
龍馬は慌てて千鶴の後ろへ逃げ込んだ。
「千鶴姉、助けてくれ!」
「龍馬が悪いきに。自分で何とかしや」
千鶴には助ける気がまるでない。
姉という生き物は、どうしてこう弟に厳しいのか。
そのやり取りを、布団に横たわった栄が楽しそうに眺めていた。
栄は重い病を患い、心も体も弱って嫁ぎ先から坂本家へ戻ってきている。記憶も混乱することがあり、自分や兄弟の年齢さえ曖昧になることがあった。
「龍馬と乙女は仲良しやねぇ。でも乙女、龍馬を泣かしたらいかんぜよ」
龍馬は思わず苦笑した。
栄の中では、今でも龍馬は幼い頃の泣き虫のままなのだろう。
「栄姉ちゃん、わしはもう泣き虫じゃないぜよ」
「そうなが?」
「そうじゃ。もう大人じゃき」
「ほんまに?」
「ほんまじゃ」
栄はしばらく龍馬の顔を眺め、それから柔らかく笑った。
「ほんなら、立派になったがやねぇ」
その言葉に、龍馬は少しだけ返事に詰まった。
自分が立派になったかどうかなど分からない。
国を変えると息巻いて、友を救えず、今は商売と船を学ぼうとしている。
それでも、以前よりは少しだけ自分の足元を見るようになった気がする。
栄がこうして笑っていられるなら、それでいい。
どこの家にもいろいろある。皆、それぞれ抱えながら生きているのだ。
そう思ったところで、龍馬は横にいる乙女を見た。
一か月前から嫁ぎ先を飛び出し、そのまま実家に居座っている。
どこの家にもいろいろある。
だが、これはそろそろ帰った方がいいのではないか。
龍馬が無言でじっと乙女を見ると、すぐに気づかれた。
「なんじゃ、その目は」
「いや、別に何も――」
次の瞬間、乙女の抜き手が龍馬の喉へ突き刺さった。
「ぐえっ!」
やはり余計なことは考えない方がいい。
龍馬は喉を押さえながら、身をもって学んだ。




