第42話 坂本龍馬は上士とケンカする
池田寅之進の家には、張り詰めた熱気が満ちていた。上士二人を斬った寅之進を守る。その言葉に、集まった下士たちが次々とうなずく。坂本龍馬も、その輪の中心にいた。
何かを始めなければと思いながら、土佐へ戻って二年半ほどが過ぎていた。藩への不満も、自分への苛立ちもある。だが今は、それだけではなかった。目の前の仲間を、身分が低いから仕方がないという言葉で死なせたくなかった。
そこへ、戸を開けて平井収二郎が入ってきた。
「何を煽りゆうがじゃ、龍馬!」
「寅之進を死なせんように話しゆう」
「向こうは山田の家へ集まっちゅう。お前らが攻めてくると思うて、刀まで用意しゆうぞ」
龍馬は顔を上げた。こちらでは守るつもりでも、向こうには襲う支度と映るらしい。収二郎は部屋を見回し、声を落とした。
「ここで斬り合えば、寅之進一人の話では済まんなる。藩の中で始末がつかん騒ぎにする気か」
「ほんなら、黙って差し出せと言うがか」
「吉田様の方では、寅之進に腹を切らせて収める話が出ちゅう。これ以上、死人を増やすな」
「それを収めると言うがか」
収二郎の言い分が分からないわけではなかった。武市たちが重役へ話を通していることも知っている。だが、死人を増やすなと言いながら、そのために寅之進を死なせるという話には、うなずけなかった。
「向こうが攻めてきたら、防ぐぜよ。藩が兵を出しても同じじゃ」
「龍馬、何を言いゆう」
「仲間を守ることもできん藩なら、従うだけが道やないろう。幕府が出てくるなら、幕府にも逆らう」
口にすると、部屋が静まった。幕府を倒せばどうするかなど、何も決まってはいない。それでも、藩も幕府も守るために人を差し出せと言うなら、その順番自体を疑いたかった。
「頭を冷やせ。わしらまで敵に回して、誰が上役と話をするがじゃ」
「寅之進を助ける話なら聞く。死なせる話を納得させに来たがなら、帰ってくれ」
収二郎は唇を結んだ。しばらく龍馬を睨んでいたが、やがて戸口へ向かった。その背を見ながら、龍馬は自分が交渉の道まで狭めているのではないかと思った。だが、呼び止める言葉は出なかった。
しばらくして、外を見ていた望月亀弥太が戻ってきた。
「龍馬、山田の方から人が来た!」
庭へ出ると、道の向こうに三十人ほどの男がいた。刀を差し、こちらの家を見据えている。龍馬の後ろへ出てきた仲間は十五人ほどだった。寅之進と宇賀喜久馬は、まだ奥にいる。
「池田寅之進と宇賀喜久馬を出せ!」
代表らしい男が怒鳴った。龍馬は眉をひそめた。中平忠次郎が斬られたことを、兄の寅之進へ知らせた喜久馬まで、引き渡せというのである。
「二人を差し出せば、お前らにまで手は出さん」
「二人を渡すつもりはないぜよ」
向こうで刀へ手をかける者がいた。人数はこちらの倍ほどいる。それでも、岡田以蔵も自分もいるのだから、防げるのではないかと龍馬は考えた。稽古と斬り合いは違う。そのことまで、十分に考えられていたとは言えなかった。
龍馬も柄へ手を伸ばした。その時、道の向こうから聞き慣れた声がした。
「待て! ここで抜くな!」
武市半平太だった。上士たちへ頭を下げ、龍馬の前へ進んでくる。龍馬には、その顔を見るだけで、何を言われるか分かる気がした。
「武市さん、二人は渡さんきの」
「まず刀から手を離せ」
「まだ抜いちょらん」
「抜いてからでは遅いがじゃ」
武市は龍馬の手元を見たまま言った。
「寅之進に、武士として責任を取らせる道もある。ここで皆を巻き込めば、家族まで守れんなる」
「喜久馬もじゃ!」
上士の一人が横から声を上げた。龍馬はその男へ目を向けた。なぜ喜久馬まで死ななければならないのか。問い返すより先に、柄を握る手へ力が入った。
「邪魔するなら、武市さんでも斬るぜよ」
背後で誰かが息をのんだ。武市の目が細くなったが、龍馬はその顔を見返した。
「政治の話ばかりしゆう間に、腕が鈍ったがやないか。今なら、わしの方が上かもしれんぞ」
「……本気で言いゆうがか」
武市を斬るつもりはなかった。どいてほしかったのである。上役と話をつなぎ、この場を収められる男は、生きていなければならない。だが、横から喜久馬の死まで求めた男には、本当に刀を向けそうだった。
龍馬が足を動かした瞬間、背後から両腕を押さえられた。
「龍馬さん、いかん!」
以蔵だった。がっしりした身体で背へ取りつき、腕を絡めている。龍馬が振りほどこうとしても、握った柄を引き上げることさえできなかった。
「離せ、以蔵!」
「駄目じゃ! 武市先生に刀を向けるな!」
「そっちやない!」
「誰でもいかん!」
武市をどかすつもりの脅しが、味方にも通じてしまった。龍馬はなおも腕を動かそうとしたが、以蔵は離さない。その間に武市が振り返り、上士たちにも抜くなと声をかけた。
「龍馬! 武市さん!」
家の中から、悲鳴に近い声が上がった。振り返ると、奥から出てきた男が戸口へ手をつき、息を詰まらせていた。
「寅之進が……喜久馬を斬って、その後、自害した」
「……何じゃと」
「これ以上、皆に迷惑はかけられんと言うて……」
腕から力が抜けた。以蔵も手を緩めたが、龍馬はすぐには動けなかった。男がもう一度何か言った。だが、二人の名以外、うまく聞き取れなかった。
武市が家へ入り、龍馬もその後を追った。奥の様子を見て、戸口へ足を止めた。さっきまで、ここへ誰も通さなければ二人を守れると思っていた。その間に起きたことへ、何一つ手が届かなかった。
外から、もう引き揚げるぞという声が聞こえた。二人の死を確かめると、上士たちは立ち去っていった。龍馬は追いかけなかった。問いただしたいことも、怒鳴りたい言葉もあったはずなのに、口を開けなかった。
亀弥太が顔を覆っていた。以蔵も竹刀の稽古では見せない顔で、畳へ目を落としている。龍馬はそのそばへ座り、膝の上で拳を握った。
自分が騒いだから、寅之進は皆を巻き込むまいとしたのだろうか。黙っていれば助かったとも思えない。だが、刀を抜いて押し返すことばかり考え、二人が何を思っているか、確かめに戻らなかった。そのことだけは、何度考えても消えなかった。
事件の後、武市は藩へ事情を伝え、処分を軽くするよう働きかけた。だが、龍馬が聞いた沙汰は厳しかった。寅之進と喜久馬の家は、家名を存続させることを許されなかったという。
一方、山田と益永の家では、弔いが営まれたと聞いた。忠次郎を斬った側にも、仇を討った側にも死人が出た。それなのに、遺された家への扱いまで同じにはならなかった。
龍馬はもう、知らせを聞いて怒鳴ることはしなかった。剣を磨けば守れると思ったものが、目の前で失われた。理不尽に従いたくないという気持ちは変わらないが、こちらも刀を抜けば何とかなるという考えでは、二人を救えなかった。
井口村の永福寺門前で始まった争いは、家の中にも、仲間の間にも傷を残した。身分の壁を変える必要があるのなら、どう動けばよいのか。龍馬は答えを持てないまま、武市のもとへ通うようになった。




