第41話 坂本龍馬は桜田門外の変の噂を聞く
安政六年は、龍馬にとって何とも歯がゆい一年だった。
世の中は騒がしい。尊王攘夷を唱える者は増え、幕府への不満も各地で膨らんでいる。それなのに、自分は土佐で竹刀を振り、酒を飲み、時折天下国家を論じるだけだ。
何かが起きそうで、何も起きない。
龍馬は焦れていた。
その空気が一変したのは、安政七年三月三日だった。
大老井伊直弼が江戸城桜田門外で襲われ、命を落としたのである。
世にいう桜田門外の変だった。
井伊は朝廷の勅許を得ぬまま通商条約締結を進め、その後は安政の大獄によって反対派を次々に処罰した。攘夷派だけではない。政争で敵に回った者まで容赦なく押さえ込んだ。
そのやり方を聞くたび、龍馬は危うさを感じていた。
あれだけ恨みを買えば、いつか誰かが刀を抜く。
そして本当にそうなった。
井伊暗殺の報は、志士たちを勢いづかせた。
幕府とて絶対ではない。
そう考える者が一気に増えたのである。
土佐も例外ではなかった。
龍馬も武市道場へ顔を出し、中岡慎太郎や望月慎平らと攘夷を語り合った。夜になれば望月亀弥太や池田寅之進と酒を飲む。
話題は決まって幕府、異国、朝廷、そして土佐藩だった。
だが、政局が動いても庶民の暮らしはよくならない。
幕府は海外への金流出を止めるため小判の質を落とした。金の流出そのものは抑えられたが、今度は物価が上がる。
米も酒も日用品も高くなる。
政治の失敗は、結局庶民の懐へ回ってくる。
龍馬にはそれが腹立たしかった。
やがて元号は万延へ変わった。
幕府は朝廷との結びつきを強める公武合体を進め始める。尊王攘夷派の勢いを抑え、幕府と朝廷を一体に見せようという狙いなのだろう。
その間にも龍馬の苛立ちは積もっていった。
そして万延二年。
年が明けたと思ったら、ほどなく文久元年へ改元された。
年号まで落ち着かない。
「ややこしいんじゃ……」
龍馬は本気でうんざりした。
安政、万延、文久。
世の中も年号も次々変わる。
なのに自分だけは何も変えられていない。
そのことが一番腹立たしかった。
文久元年三月。
ついに事件が起こった。
報せを聞いた龍馬は、すぐ池田寅之進の家へ駆けつけた。
家の中には十人を超える下士が集まり、張り詰めた空気が漂っている。
寅之進は青白い顔で座り込み、虚ろな目を畳へ落としていた。
事件は前夜に起きた。
祝いの席から帰る途中だった上士の山田と益永が、郷士の中平忠次郎と肩をぶつけた。
ただそれだけだった。
だが酒に酔っていた山田は激昂し、刀を抜いて忠次郎を斬り殺した。
忠次郎と一緒にいた宇賀喜久馬はその場を逃れ、兄である池田寅之進へ知らせた。
寅之進は現場へ走った。
そして山田と益永を斬り殺した。
弟の仇を討ったのである。
「寅之進は立派に仇を討ったぜよ!」
「武士の本懐じゃ!」
集まった仲間たちは声を上げていた。
多くが武市道場の者だった。
上士に日頃から鬱屈を抱えている者も少なくない。
「龍馬、寅之進がやったぜよ!」
望月亀弥太は涙を浮かべていた。
喜んでいる。
だが龍馬には、その声が無理に明るく響いた。
「ああ。けんど、少しまずいことになる」
その一言で、部屋が静まり返った。
皆も分かっていたのだ。
仇討ちとはいえ、寅之進が斬ったのは上士二人である。
土佐では身分の壁は厚い。
下士が上士を斬れば、事情など簡単には考慮されない。
切腹。
皆、その結末を頭のどこかで覚悟していた。
ただ、口に出したくなかっただけだ。
龍馬は寅之進を見た。
寅之進はまだ顔を上げない。
「寅之進」
ゆっくり呼ぶ。
「死ぬなや」
寅之進が顔を上げた。
目に驚きが浮かぶ。
周囲も息を止めた。
「龍馬……?」
龍馬は皆を見回した。
自分でも分かっていた。
ここで黙っていれば、寅之進は処分される。
そして皆も、それを仕方がないと飲み込むしかない。
もう、それが嫌だった。
「上士どもと喧嘩するぜよ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、部屋が揺れるほどの歓声が上がった。
「おお!」
「やるぜよ!」
「寅之進を死なせるな!」
皆、諦めきれなかったのだ。
龍馬なら止めると思っていた。
年長者らしく冷静になれと言うと思っていた。
だが龍馬は逆に火をつけた。
熱気が部屋を満たしていく。
その中心で、龍馬自身の胸にも長く溜め込んできたものが噴き出していた。
異国への不満。
幕府への不満。
藩への不満。
上士への不満。
そして、何より何もできずに過ごしてきた自分自身への不満。
土佐へ戻ってから二年足らず。
待っていた。
何かを始めるきっかけを。
ずっと待っていた。
寅之進には悪い。
だが、この騒ぎをただの仇討ちで終わらせる気はなかった。
龍馬は拳を握った。
胸の奥にあった苛立ちが、ようやく行き先を見つけた。
見ていろ。
今度こそ、動いてやる。




