第40話 坂本龍馬はヤンデレを説得する
「武市さん、わしにも何か仕事をくれんか」
武市道場で龍馬が頼むと、武市半平太は手元の書付から顔を上げた。坂本道場の看板を下ろしてからも、稽古は続けている。だが、人を集めようとした試みが身内一人で終わってしまうと、次に何をすればよいか分からなかった。
「京へ人を送りたいと思いよったところじゃ」
「おお。それなら、わしに――」
「そのことで、龍馬に頼みがある」
龍馬は姿勢を正した。京で人に会い、話を聞いてくる仕事だろうか。自分にもできることはありそうだったが、横から飛んできた言葉は、期待したものと少し違った。
「加尾を説得してこい」
「……加尾どのを?」
平井収二郎が、腕を組んでこちらを見ていた。龍馬は顔を見返し、何を言えば怒られずに済むか考えた。考えたところで、先に収二郎の声が大きくなった。
「お前が来ると聞けば、あれはまだ喜ぶがじゃ」
「前の話は、収まったがやなかったか」
「縁談は止めた。加尾の気持ちまで、わしが止められるか!」
もっともな話だった。以前、平井加尾の草履の鼻緒を直したことから、思いがけず婚約騒動になった。龍馬は収二郎に謝り、家同士で話が進むこともなくなった。それで全て終わったつもりだったのは、こちらだけだったらしい。
「何でまた、わしが行くがじゃ」
「兄の話なら聞かんのに、お前の話なら聞くかもしれんきじゃ。まっこと腹が立つ。伸ばして煮込むぞ」
「何で先に伸ばすがじゃ」
余計なことを言った。収二郎の目が鋭くなり、龍馬は武市へ視線を逃がした。助けを求める相手として、あまり当てにならない男だとは、昔から知っている。
「龍馬。加尾どのが嫌がるなら、無理には行かせられん。ただ、話を聞いてやってくれ」
「……分かったぜよ」
仕事をくれとは頼んだ。だが、最初の仕事が自分の過去の始末になるとは思っていなかった。
数日後、龍馬は平井家で加尾と向き合っていた。久しぶりに会うと、以前より少し大人びて見える。加尾は丁寧に頭を下げ、顔を上げると嬉しそうに微笑んだ。
「お久しゅうございます。龍馬さま」
「ご無沙汰しちょりました、加尾どの」
こちらまで妙にかしこまってしまう。龍馬は膝の上へ手を置き、まず京の話から始めることにした。
加尾には、縁を頼って京の公家方へ奉公に出る話があった。日々の勤めを果たしながら、差し支えない範囲で見聞きしたことを、家へ知らせてもらいたいという。武市たちにとっても、京で暮らす確かな相手がいるのは心強いらしかった。
ただし、加尾本人が行きたくないと言っている。役目の話だけをしても説得にはならず、収二郎も困っていた。
「兄上は、京で見聞を広めるのもよいと申します。けれど、私は土佐におりたいのです」
「慣れん土地へ行くがは、不安もあるでしょうのう」
「それもございます。でも……こうして龍馬さまにも、お会いできますから」
龍馬は返事に詰まった。迎えに来たつもりはなく、今日ここに来た理由も、加尾を京へ送り出す相談である。だが、その顔を見ていると、言葉を選ぶだけで時間がかかった。
「加尾どの。前の話では、ご迷惑をかけた」
「兄から、よく聞かされました」
「わしは、その……」
「縁談がなくなったことは、承知しております」
加尾は静かに言った。何も分かっていないわけではなかった。その上で、龍馬が会いに来たことを喜んでいるのである。
「それでも、お慕いする気持ちは変わりません。いけないことでしょうか」
龍馬は膝の上の指を動かした。江戸には佐那がいる。必ず戻ると約束し、兄にも将来を相談した。ここではっきり話すべきなのだと、頭では分かっていた。
だが、加尾の目が潤むと、口から出かけた言葉が止まった。泣かせたくないという気持ちもある。それ以上に、泣かれて困る自分を想像して、逃げ腰になっていた。
「京へ行けば、土佐では聞けん話もある。加尾どのにしか、できんこともあるかもしれん」
「龍馬さまも、そうお望みですか」
「武市さんも兄上も、頼りにしちゅう。わしも、国の様子を知りたいと思うちょります」
それは嘘ではなかった。だが、聞かれているのは役目の必要性だけではない。龍馬はそれを承知しながら、話を続けた。
「京で役目を果たして、また土佐へ戻ってきたら、その時にゆっくり話そう」
加尾が顔を上げた。その表情が明るくなるのを見て、龍馬は自分が何を言ったか、遅れて思い知った。
「私たちの先のことも、でございますか」
違う、と言うなら今だった。だが龍馬は、すぐに答えられなかった。その短い沈黙の後、曖昧にうなずいてしまった。
「まずは、お役目をしっかり務めてきてつかあさい」
「はい。加尾、京へ参ります」
嬉しそうな声だった。龍馬も笑顔を作ったが、胸の内は少しも晴れなかった。結婚を約束したわけではないと言い訳はできる。だが、加尾がどう受け取ったかは、目の前の顔を見れば分かった。
誤解を解かなかった。むしろ、その誤解を使って、行くと言わせてしまったのである。龍馬は帰り際まで、言い直す機会を探し、結局見つけたふりをしただけで平井家を出た。
加尾が京へ発つことになったと聞き、収二郎はようやく肩の力を抜いた。武市も、本人が納得したのならよかったと言った。二人から何を話したのか尋ねられ、龍馬は京で役に立ってほしいと頼んだのだと答えた。
「それだけで、よう承知したのう」
「まあ、わしも真面目に話したきに」
収二郎の顔を見ながら、龍馬は余計なことを言うまいと決めた。前の縁談を収めた時とは逆に、今度は自分が事情を隠している。そのことが、相手の感謝を聞くほど重くなった。
やがて京から、加尾が奉公先へ落ち着いたという便りが届いた。その後も、見聞きした人の出入りや町の様子が、家を通して武市へ伝わるようになった。詳しい内情までは分からなくても、京で何が話題になっているかを知る助けにはなるらしかった。
武市から礼を言われ、龍馬は曖昧に笑った。加尾が熱心に勤めていると聞けば喜ぶべきなのに、その先に自分との話し合いを待っているのではないかと思うと、素直にはうなずけなかった。
京で新しい暮らしを始めれば、気持ちも変わるかもしれない。そんな都合のよい期待が浮かび、龍馬は自分に呆れた。相手が忘れてくれることを願う前に、こちらから話さなければならないことがある。
江戸へ戻ると約束した相手がいて、京から帰る日を楽しみにさせた相手までいる。人を集める仕事はうまくいかなかったのに、人の期待だけは余計に増やしてしまった。
問題を解決したのではない。京へ送り、その間だけ見ないで済むようにしたのである。龍馬は武市の部屋を出てから、深く息を吐いた。仕事が一つ片づいた顔をするには、あまりに後味が悪かった。




