第36話 坂本龍馬は北辰一刀流目録を授かる
安政五年正月、坂本龍馬は、折よく道場へ戻っていた千葉定吉から、一巻の目録を授けられた。|北辰一刀流長刀兵法目録《ほくしんいっとうりゅうなぎなたへいほうもくろく》。以前に受け取った剣術の目録とは別に、今度は長刀の修行を認められたのである。
龍馬は剣の稽古と並行して、長刀も学んできた。長い得物を持てば、その分だけ有利になるという簡単なものではない。間合いを誤れば懐へ入られ、振り回せば次の動きが遅れる。足を動かし、相手の攻めを見て、届く距離を確かめる。その積み重ねが、目の前の一巻になった。
二度目の江戸修行を始めた頃には、千葉佐那に動きの隙を次々と指摘された。それが今では、門人を相手に稽古をつける役目も任されている。重太郎や佐那にはまだ打たれるが、ただ受けるだけで終わることは減っていた。
前年の春には、桂小五郎から二本取った。最後は負けたものの、あの桂へ自分の技が届いたのである。剣だけでなく長刀の目録まで授けられると、かなりのところまで来たのではないかという気にもなった。褒められた分を少し多めに受け取る癖は、修行を積んでも直らなかった。
龍馬は目録を広げ、記された名を目で追った。その途中で、思わず定吉へ顔を上げた。
「先生。佐那さまのお名前まであるがですね」
「佐那も、お前の稽古を見てきたからな」
「それは、ありがたいことですき」
思わず声が弾んだ。横にいた重太郎が、こちらの顔を見て笑っている。修行の証を喜んでいるのであって、好きな女の名前があることだけを喜んでいるわけではない。もちろん、その分まで嬉しいのは確かだった。
目録には佐那をはじめ、千葉家の娘たちの名も記されていた。龍馬はそれをしばらく眺め、折り目を傷めないよう慎重に巻いた。土佐へ持ち帰ったら、姉にも見せてやりたかった。
「坂本君」
定吉に呼ばれ、龍馬は姿勢を正した。
「剣の方も、引き続き励みなさい。まだ学ぶことはある」
「はい。いずれは、皆伝までいただきとうございます」
「ならば、これで満足しないことだ」
龍馬は深く頭を下げた。剣術の目録を得て、今度は長刀の目録も受け取った。だが、どちらも免許皆伝を授けられたという話ではない。喜ぶことと、修行を終えたつもりになることは別だった。
もっとも、乙女に見せれば、そこを真っ先に指摘されそうである。褒めるより先に、まだ上があるのだから稽古しろと言うだろう。龍馬は姉の顔を思い浮かべ、江戸でも土佐でも、安心して得意になれる時間は短いらしいと思った。
春が過ぎる頃には、龍馬は帰国の時期も考え始めていた。以前願い出た滞在延長は、その後認められ、江戸で修行を続けることができた。だが、いつまでも先のことを決めずにいられるわけではない。さらに延長を願うのか、いったん土佐へ戻るのか、家にも相談する必要があった。
剣の道に生きる。龍馬は、そう自分へ言い聞かせていた。武市半平太から土佐で共に働こうと誘われた時にも、約束はできないと答えた。
政治の世界では、何が正しいかだけで話が進まない。山本琢磨を助けようとした時も、金を集め、武市が頭を下げ、それでも藩の方針は変わらなかった。剣なら、少なくとも打たれたところを確かめ、次の稽古で直すことができる。国を動かす話より、自分の足元が見えた。
小千葉道場には佐那もいる。ここで修行を続け、いずれは正式に師範として道場を支え、彼女と暮らす。家や道場へ話を通さなければならないが、考えるだけなら十分に魅力的な未来だった。
それなのに、ふとした時に落ち着かなくなった。稽古を終えた後、武市は今頃何をしているだろうと思う。桂から異国の動きを聞けば、次も知りたくなる。剣を選んだはずなのに、それでほかのことが気にならなくなるわけではなかった。
「坂本さま、近頃は何か考え込んでおいでですね」
ある日、稽古の後で佐那に言われた。龍馬は竹刀を置き、少し笑ってごまかそうとした。
「佐那さまのことなら、いつも考えちょります」
「今は、そのお話ではありません」
「……分かっちょります」
佐那は笑わなかった。いつもならもう少し軽口を重ねるところだが、真面目に案じているらしい顔を見ると、龍馬も続けられなかった。
「修行は、よう進んじゅうと思います。先生から目録もいただいたし、まだ学びたいこともある」
「はい」
「けんど、この先もここにおるがかと思うと、何から決めたらえいか分からんなるがです」
口にしてみると、随分頼りない話だった。佐那には共に暮らす先のことを考えたいと伝えている。それなのに、江戸に残るかどうかさえ決められずにいるのである。
「ご家族とも、お話しにならなければいけませんね」
「そうですのう」
「剣の修行を続けたいお気持ちは、変わらないのですか」
「それは変わらんがです」
即座に答えられたのは、そこだけだった。佐那はしばらく龍馬を見ていたが、それ以上は問い詰めなかった。答えを急がせないことがありがたく、同時に、いつまでも待たせてよいわけではないとも思った。
六月末、会合へ顔を出した龍馬は、アメリカとの条約が結ばれたという話を聞いた。六月十九日、幕府が日米修好通商条約へ調印したというのである。大老の井伊直弼が、朝廷の勅許を得ないまま進めさせたのだと、集まった者たちは憤っていた。
誰から聞いた話なのか尋ねる声もあった。藩の役人からだという者も、別の会合で耳にしたという者もいる。龍馬はすべてを確かめられるわけではなかったが、幕府が朝廷の許しを求めていたことは、それまでにも聞いていた。許しが出ないまま結んだのなら、また大きく揉めるだろうと思った。
だが、その日、龍馬がとりわけ気になったのは、条約に伴う金銀の交換の話だった。日本と異国では、金と銀の値打ちが違うという。
「同じ重さで比べた金銀の値打ちですが、日本では金一に対して銀がおよそ五。異国では、それが十五ほどになるそうです」
「同じ金と銀で、そんなに違うがか」
「銀をこちらへ持ち込み、日本で金へ替える。その金を異国へ持ち帰れば、向こうでは多くの銀に替えられる」
龍馬は膝の上で指を動かした。同じ重さの金が、日本では銀五ほど、海の向こうでは銀十五ほどの値打ちになる。運ぶ手間や費用はあるにしても、銀を金へ替えて持ち帰るだけで、大きな差が残る計算だった。
「それなら、皆が同じことをやろうとするんやないか」
「だから、交換の仕方が問題になるのです」
実際の貨幣には重さや金銀の含まれる量にも違いがあり、何もかも単純な計算どおりではないらしい。それでも、値打ちの差を利用して利益を得られるなら、商人が目をつけることくらいは龍馬にも分かった。
河田小龍から商売の仕組みを聞いた時には、人と金を集めて船を動かす話が面白かった。だが今は、商売の面白さだけでは聞けなかった。海を渡る仕組みが整えば、日本の金を外へ運ぶ商売まで成り立つかもしれない。
「……それで、日本の金は足りるがか」
「流れ出すことを心配する声はあります。幕府も交換の扱いを考えているようですが、詳しいところまでは」
「まだ、よう分からんということか」
「はい。どれほどの取引になるかも、これからですから」
龍馬は黙った。まだ通商が本格的に始まった後の結果を見たわけではない。聞いた比率だけで何もかも決めつけることはできないが、備えが整っているとも言い切れないらしかった。
周囲では再び、勅許を得ずに条約を結んだことへの非難が始まった。龍馬も、幕府の進め方には疑問を持った。ただ、許しを得た条約であれば金銀の問題が消えるのかと考えると、それも違う気がした。
異国の言いなりにはなりたくない。かといって、条約を破棄しろと叫べば、軍艦が来なくなるわけでもない。知ることが増えるたびに、どちらを選べばよいか分からないことまで増えていった。
会合を終えて道場へ戻ると、門の向こうから竹刀の音が聞こえた。龍馬は足を止め、打ち合う音と門人たちの声に耳を澄ませた。ここへ入れば、今日も稽古ができる。剣を磨き、佐那と話し、いずれ自分の暮らしを決めていく。その一日一日を大切にしたい気持ちは変わらなかった。
それでも、その暮らしを包んでいる国のことだけ、考えずに済ませられるだろうか。龍馬はしばらく門前に立っていた。修行の先は少しずつ見えてきたのに、自分が進む先は、また分からなくなっていた。




