第35話 坂本龍馬は琢磨を逃がす
失敗した。
十七両を受け取った藩の重役は、確かに琢磨の助命を働きかけてくれたらしい。だが上の沙汰は変わらなかった。
つまり琢磨は明日、腹を切る。
そして十七両も帰ってこない。
龍馬はしばらく黙った。
俺の十七両……。
失敗したなら返せよ、くそ上士。
人の命が懸かっているというのに、そんなことまで考えてしまう自分が少し嫌だった。
「もう駄目じゃ……わしは死ぬがじゃ……」
琢磨が真っ青な顔で座り込んでいる。
今回はさすがの龍馬も殴る気にはならなかった。
武市は腕を組み、眉間に深いしわを寄せている。
「残る手は……ある」
「まだあるがか?」
「脱藩じゃ」
武市は短く言い切った。
龍馬も一瞬、言葉を失う。
藩を捨てて逃げる。
侍にとって軽い話ではない。家族にも累が及ぶかもしれず、捕まれば重罪である。
だが切腹よりはましだった。
「琢磨を江戸から逃がす。それには金がいる。龍馬、もう用意できんか?」
「さっきの十七両で素寒貧ぜよ。三日ありゃ何とかするけんど、今は無理じゃ」
「おんし、しょっちゅう花街へ行きゆうと聞いたぞ」
「遊びゆうから金がないがじゃ! 武市さんこそ酒も女もやらんき、貯め込んじゅうろう」
「わしは富子から月の小遣いを決められちゅう」
「役に立たんのう!」
思わず本音が出た。
武市が睨んできたが、今は夫婦の財布事情を議論している場合ではない。
「手引きに五両。逃げた後の路銀として十両は持たせたい。最初から賄賂やのうて、逃がす方を選ぶべきじゃったか……」
武市も悔しそうだった。
龍馬は考える。
金。
今すぐ金になるもの。
他藩の知人には頼めない。事情を話せば、藩が必死に隠している事件が広がる。
坂本家から取り寄せる時間もない。
なら、江戸にある物を売るしかない。
そこで龍馬の頭に、一つの考えが浮かんだ。
かなり無茶である。
だが、無茶くらいしなければ人一人の命は拾えない。
「武市さん。中屋敷におる下士連中を集めてつかあさい」
「何をする気じゃ?」
「皆で琢磨の助命嘆願に行くぜよ」
武市が怪訝そうに龍馬を見た。
「今さら嘆願しても――」
「分かっちゅう。けんど大勢で刀を差して押しかけたら、騒ぎになるろう。武装解除して行く。皆の刀は、わしが預かるぜよ」
「……なるほど」
武市は頷いた。
いや、何も分かっていない。
そこが大事だった。
下士たちは武市に率いられ、土佐藩邸へ向かった。
留守番を任された龍馬の前には、何十本もの刀が残された。
武士の魂。
家によっては父や祖父から受け継いだ品もあるだろう。
龍馬は腕を組んだ。
三日くらい魂がなくても死なん。
そう結論を出すと、全部まとめて質屋へ運んだ。
夕方、武市たちは沈んだ顔で戻ってきた。
「やはり無駄じゃった。上役どもは沙汰を変えん」
「そうか」
「期限は明日じゃ。もう時間がない」
「なあに、その間にこっちは準備できたぜよ」
龍馬は包みを差し出した。
武市が開く。
三十両。
「これで琢磨を脱藩させるきに」
「……龍馬。この金、どうした?」
「皆の刀を質屋に預けた」
「はあ!?」
武市が目を見開いた。
珍しい。
あの武市半平太が完全に間抜けな顔をしている。
「三日もすりゃ金を作って請け戻すぜよ。それまでは適当にごまかせばえい」
「おんし、人の刀を勝手に質へ入れたがか!」
「琢磨の命と刀、どっちが大事じゃ?」
「そりゃ琢磨の命じゃが……」
「ほんなら問題ない」
「問題しかない!」
そこは龍馬も少しそう思う。
だが武市はしばらく頭を抱えた後、とうとう苦笑した。
「相変わらず無茶をするのう」
「褒められたと思うちょく」
「褒めてない。まあえい。琢磨を逃がす手配と後始末は、わしに任せろ」
「頼むぜよ」
「何とか全部、収めちゃる」
武市が薄く笑った。
その顔を見て、龍馬は思う。
だから、その笑い方は悪役っぽい。
翌朝、琢磨は武市が手配した者に連れられ、江戸を離れた。
「龍馬、恩に着るき」
「二度と拾ったもんを質に入れるなよ」
「分かっちゅう」
「あと、しばらく顔見せるな。腹立つき」
「最後くらい優しゅうせえや!」
「早う行け!」
琢磨は何度も振り返りながら朝靄の向こうへ消えた。
馬鹿な従兄弟だった。
それでも、生きている。
それでよかった。
翌日から龍馬は、今度は皆の刀を取り戻すために金策へ走り回る羽目になった。
結局、一番忙しいのは自分である。
世の中とは理不尽だった。
琢磨の脱藩は藩にとっても恥だったため、大きく追及されなかった。龍馬や武市が手を貸したことも明白だったが、罪に問われることはない。
武市が裏でうまく話をつけたのだろう。
そこはさすがだった。
だが龍馬の胸には、妙な重さが残った。
日本全体で異国へ立ち向かわねばならない。
志士たちはそう叫ぶ。
ところが土佐の中ですら、上士と下士がいがみ合っている。幕府は幕府で独自に通商条約を進め、幕府の中でも意見は割れ、志士たちも一枚岩ではない。
日本はまとまるどころか、あちこちで喧嘩している。
これで本当に皆そろって攘夷などできるのか。
龍馬には分からなくなっていた。
安政四年の秋、武市の土佐帰国が決まった。
「武市さん、気ぃつけて帰りや」
「ああ。龍馬、おんしも達者でな」
武市は少し黙ってから、龍馬を見た。
「龍馬。おんしは、これからどうする?」
「これから?」
「土佐にはおんしが必要じゃ。……いや、わしに必要ながかもしれん。一緒に土佐で攘夷の動きを大きゅうしてくれんか」
龍馬は答えられなかった。
国を動かす。
確かに面白い。
金もある。人脈も少しはできた。口も回る。
攘夷志士の中には、龍馬よりよほど無茶な連中も多い。
自分でも案外やれるかもしれない。
だが、それは現実なのか。
琢磨一人を救うだけで、あれほど苦労した。
土佐一藩すらまとまらない。
まして日本をまとめるなど、どう考えても話が大きすぎる。
一方、龍馬には剣がある。
午前の御前試合では桂小五郎と竹刀を交え、以前より自分が強くなったことも分かった。
小千葉道場は名門である。
佐那とのこともある。
このまま道場を支える立場になれば、暮らしにも困らない。
名門道場。
剣術師範。
美人の嫁。
どう考えても勝ち組である。
「悪いけんど、武市さん。約束はできんぜよ……」
「そうか」
武市は少し寂しそうに笑った。
「すまんな、龍馬」
「謝ることやないろう」
「気が変わったら、いつでも土佐へ来い」
「その時は頼むぜよ」
武市は江戸を去った。
すでに土佐の攘夷派を代表する男になりつつある。
こいつはいずれ大きなことをする。
龍馬には、それだけは分かった。
自分とは違う。
遠ざかる武市の背中を見ながら、龍馬はそう思った。
そして、自分自身へ言い聞かせる。
剣術こそが、自分の生きる道だ。




