第34話 坂本龍馬と武市半平太は琢磨を助ける策を練る
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剣術は上達していた。江戸にも馴染み、小千葉道場では腕の立つ方へ入り、桂小五郎との交流も続いている。異国の事情も、以前よりは分かるようになった。このまま剣を磨き、学問を覚えれば、いずれ何か大きなことができるのではないか。そんな根拠の薄い自信が、坂本龍馬の中にはあった。
ところが、その龍馬へ、身近な人間の命が危ういという知らせが届いた。山本琢磨が事件を起こしたというのである。龍馬の従兄弟であり、武市半平太の妻の従兄弟でもある男だった。
武市の借りている部屋を訪ねると、琢磨は青い顔で座っていた。話を聞けば、酒を飲んだ帰り道に拾った金時計を、酔った勢いで質屋へ持ち込み、金に換えてしまったらしい。
拾った物を勝手に売るとは、何を考えているのか。琢磨が悪いことに異論はなかった。だが、藩の上役が内々に切腹させる方針だと聞くと、龍馬は思わず武市へ聞き返した。
「切腹じゃと? 時計一個で腹を切らせるがか」
「明日、正式な沙汰が出る。それまでに何とかせにゃならん」
「琢磨が悪いことは悪い。けんど、謹慎とか減俸とかで済まんもんか」
「上役は、この事件を表沙汰にせず、本人に責任を取らせるつもりらしい」
武市の話では、時計は持ち主へ返され、見舞金も渡されたという。藩の名前が表へ出ないよう話を収めた上で、琢磨には私的な理由で腹を切らせる。少なくとも、武市が聞き出した方針はそういうものだった。
「事件はなかったことにして、琢磨には勝手に死んだことになれと言うがか」
「そう受け取るしかないのう」
龍馬は額を押さえた。琢磨の不始末は罰せられて当然だが、それと命を取ることは別の話である。藩の体面を整えるために人を死なせるなど、帳簿の書き損じを消すようにはいかないだろう。
「龍馬、頼む! 何とかしてくれ!」
横から琢磨が泣きついてきた。今、そのために話している。龍馬は騒ぐ親戚を睨み、もう一度武市へ向き直った。
「琢磨は、何ぞほかにも目をつけられることをしちょったがか。いくらなんでも厳しすぎるぜよ」
「琢磨だけの話ではないかもしれん」
「どういうことじゃ」
「攘夷を唱えるわしらを、目障りに思うちゅう者がおる。琢磨がわしの親戚筋ということも、不利に働いちゅうがじゃろう」
龍馬は黙った。武市を疎ましく思う者が、親戚の不始末まで厳しく扱うというのか。確かなことは分からないが、武市の険しい顔を見る限り、何の心当たりもなく言っているわけではなさそうだった。
「わしは死にとうないぞ、龍馬!」
「黙っちょれ、琢磨!」
「そんなこと言うたち、明日の沙汰で腹を切れと言われたら――」
「おんしが時計を売らんかったら、こんなことになってないがじゃ!」
腹が立ったので、龍馬は琢磨の腹へ拳を三発ほど入れておいた。顔を殴れば痕が残るから、腹にしたのである。我ながら配慮したつもりだったが、うずくまった琢磨の青い顔を見ると、それ以上怒鳴る気にはなれなかった。
馬鹿ではある。本当に馬鹿なことをした。だが、その馬鹿な親戚が明日の沙汰一つで死ぬかもしれないと思うと、怒りの向け先が分からなくなった。
「上士の中には、下士や郷士の命なんぞ、軽う考える者もおる」
「……じゃのう」
「土佐は変わらないかん」
武市の声は低かった。龍馬にも、身分の壁には覚えがある。幼い頃、上士の子にいじめられて塾を辞めた。相手に逆らえば家まで困ると知り、泣いて帰るしかなかった。
坂本家は裕福で、暮らしに困ることはほとんどなかった。それでも、金があることと、相手に言い返せることは違った。今度はその壁の向こう側から、親戚の命を取るという話が来ている。知っていたはずの理不尽が、以前よりずっと重く迫っていた。
「何とかならんもんですかの、武市さん」
「わしにも、上役へつながる道はある。上士いうても一枚岩やない。話を聞いてくれる者もおる」
「その人に頼むがか」
「ああ。それで龍馬、おんしにも頼みがある」
龍馬は身を乗り出した。頼れる道があるなら、何でも試してほしかった。
「金を用意してくれ」
「……金?」
「わしの手元の分だけでは足りん」
「まさか」
「賄賂で、沙汰を変えてもらう」
武市は龍馬の顔を見たまま言った。普段なら、もっとも嫌いそうな話である。それを自分から口にするほど、追い詰められているのだろう。龍馬は少し迷ったが、すぐにうなずいた。金で助かる可能性があるなら、今はその金を探す方が先だった。
龍馬は部屋へ戻って手持ちの金を集め、売れる道具を質へ入れた。翌日の沙汰まで時間がない。坂本家と付き合いのある江戸の商人へ頼めば、三日ほどで五十両くらいは工面できるかもしれなかったが、その三日がなかった。
他藩の知人の顔も浮かんだ。だが、事情を伏せたまま、一晩でまとまった金を借りるのは難しい。説明する相手を増やせば、武市が内密に進めている交渉へ差し障る恐れもあった。
武市の部屋へ戻り、集めた金を合わせて数える。二人で用意できたのは十七両だった。包みを前に、龍馬は腕を組んだ。
「十七両では半端じゃのう。足りんと思われんか」
「むしろ、半端な方がえい」
「そういうもんか」
「持てるだけ全部集めたいうことが伝わる。これで頼んでみる」
「……頼みます、武市さん」
金があれば、飯が食える。酒も飲めるし、道具も買える。これまで龍馬は、足りなくなれば家へ頼める立場にいた。だが今、目の前の十七両が足りるかどうかで、琢磨の行く末が変わるかもしれなかった。
賄賂で命を買うなど、おかしな話である。それでも、買えるなら買ってほしかった。足りない分は後から集めるから、今だけは間に合ってくれと、龍馬は包みを見つめた。
「待っちょれ、琢磨」
「武市さん……」
「まだ、覆せんと決まったわけやない」
武市は金を懐へ入れ、土佐藩邸へ向かった。龍馬はその背中が見えなくなるまで見送った。自分にできる金集めは済ませたが、それだけでは落ち着かなかった。戻ってくる足音を待ちながら、交渉さえ通ればと何度も考えた。
買収でも賄賂でも、今は構わない。琢磨が死ななければいい。龍馬はそう願い、武市の帰りを待った。
失敗した。




