第33話 坂本龍馬は攘夷に目覚める
先日の御前試合以来、坂本龍馬は、桂小五郎と以前にも増して剣の話をするようになっていた。二本取ったところまではよかったが、最後の一本を桂に取られ、二対三で負けた。悔しいことは悔しい。それでも、一方的に打たれた以前とは違い、桂もこちらの工夫について話してくれるようになった。
武市半平太は、その試合には出場せず、審判側にいた。土佐でも指折りの剣士を他藩の者と勝負させ、負けでもすれば藩の体面に関わる。そんな話を耳にしたが、本当のところは分からない。龍馬としては、自分には負ける危険を引き受けさせておいて、ずいぶんな扱いだと思った。
武市は真面目な顔で試合を裁いていた。終わった後には、藩の役人から声をかけられている姿も見えた。上座の方で笑顔を見せる者もおり、土佐の剣士たちの善戦は喜ばれたらしい。名君と評判の殿様でも、身内の勝負となれば熱が入るのだろうか。そう考えると、遠い存在が少し身近に思えた。
武市は、江戸へ来てから剣だけを振っていたわけではなかった。士学館の門人をまとめながら、国事を論じる侍たちと会い、練兵館の桂とも親しくなっていた。会うたび、知らない藩士の名が話に出てくる。
剣が強く、人望もあり、難しい話にも熱心である。一日の長さは同じはずなのに、なぜそこまでできるのか。龍馬も最近は随分稽古をしているつもりだったが、武市の話を聞くと、昼寝をしているところまで見透かされたような気分になった。
龍馬自身は剣に熱中し、二人が顔を出す会合から少し足が遠のいていた。だが、御前試合を終えたところで、久しぶりに行ってみることにした。異国の動きには関心があるし、河田小龍に教わったことが、江戸でどのように語られているかも気になる。
政治の細かな話は、まだ得意ではない。分からないことまで言い切れば、土佐の武市道場で皆を感心させてしまった時の繰り返しになる。今度はまず聞こうと、龍馬は決めていた。
会合には、長州や土佐だけでなく、いくつもの藩から侍が集まっていた。挨拶で名を聞いても、すぐには覚えられない。龍馬は勧められた席へ座り、酒を受けながら話に耳を傾けた。
「幕府は、いずれ通商まで認めるのではありませんか」
「ハリスの求めに、そのまま従うわけにはいかん」
「断るにしても、備えが要る。戦になってから慌てても遅い」
同じ攘夷を語っていても、話の向きは少しずつ違った。とにかく強く拒めという者もいれば、今は時を稼いで海防を整えるべきだという者もいる。龍馬は猪口を置き、誰が何に反対しているのかを追った。
「坂本殿は、どうお考えです」
「異国の言いなりになるんは、わしも嫌じゃ。けんど、どう断ればえいかまでは、よう分からん」
「黒船をご覧になったのでしょう」
「見ました。刀だけで何とかなる相手には、見えんかったぜよ」
答えると、何人かがうなずいた。反論が来るかと身構えていたので、龍馬は少し拍子抜けした。分からないと言っても、それだけで席から追い出されるわけではないらしかった。
「龍馬は土佐で、小龍先生に異国の事情を教わっちょったがです」
武市が口を挟んだ。途端に視線が集まり、龍馬は居心地が悪くなった。小龍の名を出せば、今度は自分が説明する側になってしまう。何でも知っていると思われては困る。
「では、『漂巽紀略』もお読みになりましたか」
「はい。分からんところは、先生や先輩弟子に聞きながらじゃが」
龍馬が答えると、桂がこちらを向いた。
「万次郎殿の話は面白いじゃろう。わしも、ご本人に会うたことがある」
「本当か、桂さん!」
思わず身を乗り出した。小龍から何度も話を聞き、その体験を書き留めたものまで読んでいる。漂流してアメリカへ渡り、言葉を覚え、船に乗って帰ってきた本人に、桂は会っているという。
龍馬には尋ねたいことがいくらでもあった。船での暮らしも、異国の町も、人の雇い方や商売も、書物だけでは思い描けないところがある。その相手へ会える道が、急に目の前へ現れた気がした。
「龍馬は船や商売の話になると、よう食いつくきに」
武市が言い、桂が笑った。龍馬は笑っている場合ではないと思ったが、周囲の侍たちも話に加わってきた。
「異国の事情を知るのは大切ですな」
「ただ、珍しいと喜んでいるだけでは困る。備えに役立てねば」
「そこは分かっちょります。けんど、仕組みを知らんままでは、何が役立つかも分からんでしょう」
龍馬が言うと、向かいの男がうなずいた。薩摩から来たと挨拶していた侍だった。
「おいも、異国の人物について読むことがあります。ナポレオンという男には、なかなか興味を引かれます」
「わしはワシントンですな。どうやって国を興したのか、もっと知りたい」
別の侍が続けた。龍馬は二人の顔を見比べた。外国の勢力を退けようという集まりで、外国の人物を褒めてもよいのか。疑問が顔へ出たのか、年かさの男が笑った。
「相手から学ぶことまで捨てる必要はありません。異国の力を知り、日本が従わされぬよう備える。それも国を守るためでしょう」
「なら、船や大砲を習うんも、攘夷のためになるがですか」
「使い方次第ですな。ただ、どこまで交わるかは別の話です」
隣の男は、通商を広く認めれば異国へ付け入る隙を与えると言った。一方で、必要な物を手に入れるには取引も避けられないという声も出た。話は再び熱を帯び、龍馬は簡単に一つへまとめられないのだと感じた。
武市道場にも、異人を追い払えと勢いよく言う者はいた。それが攘夷の全てではなかったらしい。同じ言葉を使っていても、今すぐ何をするか、先に何を整えるかでは意見が違う。小龍から学んだことも、この席で役立てられるところはありそうだった。
横を見ると、武市は相手の話を聞き、時折問いを返していた。昔から真面目な男だったが、知らない相手ばかりの席でも物おじしない。龍馬は感心した。感心はしたが、昔馴染みだけに、少し置いていかれたようで面白くなかった。
とはいえ、武市と同じ話し方をする必要はない。自分には自分の気になることがある。龍馬は話が一段落するのを待ち、桂へ身を寄せた。
「それで桂さん。万次郎殿に、わしも会わせてもらえんじゃろうか」
「都合が合うか分からんが、機会があればな」
「聞きたいことが、ようけあるがじゃ」
「その顔を見れば分かる」
桂は笑った。確かな約束ではなかったが、龍馬には十分に楽しみな返事だった。次に会うまでに、質問をまとめておこうと思った。
ところが、桂と顔を合わせても、万次郎への紹介話はなかなか進まなかった。
次こそ何か知らせがあるかと期待するのは、いつも龍馬の方である。
「桂さん、万次郎殿のことじゃが」
「まだ機会がないんじゃ。少し待ってくれ」
「会うた話を聞かせるだけ聞かせて、待たせるんは酷じゃのう」
「必ず会わせるとは言うちょらんぞ」
言われてみれば、その通りだった。龍馬は返す言葉に困りながらも、簡単には諦められなかった。小龍の話の続きを、今度は旅をした本人から聞いてみたい。その願いは、桂に念を押されても変わらない。
もっとも、紹介を待つ間にも、会合で聞けることはある。異国を退けると言う者が、異国の何を知り、何を恐れているのか。自分の考えがまだまとまらないからこそ、もう少し聞いてみたかった。
龍馬は帰り際、次はいつ集まるのかと桂に尋ねた。万次郎の話だけを待っているのではないと、自分にも言い聞かせながら。




