第32話 坂本龍馬は御前試合に出る
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江戸へ戻ってから、半年ほどが過ぎていた。坂本龍馬は剣術修行を続けるため、滞在期間をさらに一年延ばしたいと願い出ていた。この先も江戸で暮らすのか、いずれ土佐へ戻るのか、まだ決めてはいない。だが、今はもう少し剣を学びたかった。
つい先頃、北辰一刀流の目録も授けられた。修行の成果を認められたのは嬉しいが、それで一流を名乗れるほど、龍馬も図々しくはない。いや、普段はかなり図々しい方だが、身近な剣士の顔を思い浮かべると、さすがに遠慮が生じた。
桂小五郎に、武市半平太。最近では、弟分の岡田以蔵にまで一本取られた。自分の腕を確かめる相手としては申し分ないが、気持ちよく自信を持たせてくれる者がいない。
それでも、小千葉道場で稽古を続けるうちに、自分なりの手応えは生まれていた。相手の目や肩、足を見ると、打ち込もうとする気配が以前より分かる。面を狙う素振りで守りを上げさせ、胴へ打つ。小手を攻めると見せて相手を動かし、崩れたところへ踏み込む。以前は打たれてから気づいたことに、打たれる前に気づくようになっていた。
もしかすると、自分にはかなり才能があるのではないか。そんな気にもなるが、桂の剣を思い出すと、浮きかけた気分が落ち着いてしまう。あの男の先読みも、こうした観察をもっと深く積み重ねたものなのだろうか。せっかく上達を喜んでいる時くらい、頭の中へ出てこないでほしかった。
「近頃の坂本君の上達ぶりは目覚ましいな」
「ようやく、わしの才能に気づいてくださいましたか」
「その口の軽さがなければ、もっと褒めてもいいのだがね」
「そこも長所として、見てつかあさい」
千葉重太郎は呆れたように笑った。龍馬も軽口を返したが、褒められたことは素直に嬉しかった。毎日打たれている甲斐は、確かにあったらしい。
稽古が厳しい理由には、少しばかり複雑な事情もある。千葉佐那と話していると、こちらを見ていた門人が、その後で立ち合いを申し出てくることがあった。たまたまかもしれないが、龍馬としては偶然ばかりとも思えなかった。
佐那は力任せの打ち込みを見れば注意する。それでも門人たちの熱心さは変わらず、龍馬も次々と相手をすることになる。佐那が近づいてきて技の直し方を教えてくれるのはありがたいが、その直後には、また別の門人から声がかかった。教わって喜ぶ暇まで稽古に使われているようだった。
もっとも、そうして竹刀を合わせた分だけ、相手の動きを見る機会も増えた。強くなりたいと言ったのは自分である。文句を言いながらも、龍馬は道場へ通い続けた。
重太郎と酒を酌み交わす機会も増えていた。いずれ本当に義理の兄になるのだろうかと思うこともある。家への相談など、考えるべきことは残っていたが、佐那と暮らす未来を想像しても、以前のように逃げ出したくはならなかった。
一方、武市は士学館の塾頭になったという。入門からまだ間もないのに、腕だけでなく、門人をまとめる働きまで認められたらしかった。規律を整え、荒っぽい者にも言うべきことを言う。土佐での武市を知っている龍馬には、なるほどと思える話だった。
同時に、少しばかり自慢したくもなった。江戸で評判になっているその男は、自分の昔馴染みで、親戚でもある。誰かに武市のことを尋ねられたら、頼まれもしない話までしてしまいそうだった。
安政四年三月一日。江戸の鍛冶橋にある土佐藩上屋敷で、諸流の剣士を招いた御前試合が催された。
龍馬も出場することになっていた。江戸で鍛え直した成果を試すには、願ってもない機会である。ところが、三本を先に取った者が勝ちだと説明を受け、対戦相手の名を聞いた途端、龍馬は思わず聞き返した。
「斎藤門人、桂小五郎」
「……桂さんか」
よりにもよって、その男だった。以前、練兵館で立ち合った時には、何をしようとしても先を取られた。技を試すどころか、どう打たれたのかを考えるだけで終わった覚えがある。
だが、今はあの頃とは違う。佐那に足運びや力の抜き方を直され、門人たちとの稽古で相手を見ることも覚えた。桂の剣も、何度となく思い返してきた。龍馬は竹刀を握り直し、試合場へ進んだ。
「今日は桂さんが相手か。勝たせてもらうぜよ」
「それは困るのう。わしも負ける気はない」
「少しくらい、困ってくれてもええがに」
桂は笑って構えた。龍馬も口を閉じ、相手の剣先へ目を据える。涼しい顔を崩してやりたかったが、焦って打てば、また以前と同じことになる。
合図とともに、龍馬は面を狙う動きを見せた。桂の竹刀が上がるのに合わせて小手へ変えたが、相手は退いてかわす。追おうとしたところへ、今度は桂の竹刀が面へ迫ってきた。
龍馬は足をさばいて身を外した。危うかったが、相手の竹刀は自分を捉えていない。以前ならそこで動きを止めていたところを、今度は桂の横へ踏み込み、胴へ振り抜いた。
「胴!」
一本の声がかかった。龍馬は間合いを離し、構え直したところで、ようやく喜びが湧いてきた。桂から取った。あれほど届かなかった相手へ、今の一撃は確かに届いたのである。
だが、まだ勝ったわけではない。笑いそうになるのをこらえていると、桂がこちらの足元から剣先まで、静かに目を動かした。
「ようなったのう、坂本君」
「今さら気づいたがか」
「こちらも、攻め方を変えんといけんな」
その言葉を聞き、龍馬は気を引き締めた。次も同じ誘いが通じるとは思えない。桂が間合いへ入るのを見て応じようとしたが、竹刀を動かす前に小手へ衝撃が来た。
これで一対一だった。龍馬は息を吐き、握りへ余計な力が入っていないか確かめた。桂は、こちらが動こうとするところを狙ってくる。ならば、動くと見せて待たせることもできるはずだった。
すぐに踏み込まず、剣先で攻める。一度引き、桂が距離を詰めたところで、今度はこちらから打った。思い切って伸ばした竹刀が決まり、二本目を取った。
あと一本。そう考えた途端、勝ちたい気持ちが強くなった。桂の動きを待つつもりが、自分から仕掛けたくなる。打ち込んだところを返され、二対二に並ばれた。
最後の一本では、焦るまいと思うあまり、踏み出すのが遅れた。桂の攻めに構えを動かされ、立て直す前に打ち込まれる。止めの声を聞き、龍馬は竹刀を下ろした。
二対三。あと一つだったのに、その一つが取れなかった。肩で息をしながら、最後の攻めにどう応じればよかったかを考えたが、すぐには答えが出てこない。
礼を終えると、桂が少し笑った。
「くそっ。あと少しじゃったがに」
「前より、ずっと手ごわうなった」
「次は勝つき」
「それは困るのう」
「困れ。もっと困れ」
桂が声を立てて笑ったので、龍馬も少しだけ笑ってしまった。負けた悔しさはある。それでも、以前のように何もできなかったわけではない。工夫した技で二本を取り、桂にも攻め方を変えさせた。その手応えだけは、誰に遠慮することもなく喜べた。
試合を終えて藩邸を出る頃には、龍馬の機嫌はかなり戻っていた。二対三なら惜敗である。ほとんど互角と言っても、それほど大げさではないのではないか。歩きながら勝負を思い返すうち、負けた事実に添える説明が、少しずつ都合よくなっていった。
もちろん、次も同じ結果になるとは限らない。桂もこちらの剣を覚えただろうし、自分には直すべきところがある。だが、稽古を重ねれば、その先へ行けるかもしれない。そう思うと、早く竹刀を握りたくなった。
帰ったら佐那にも、今日の試合を話そう。二本取ったことはきちんと伝え、最後に打たれたところは詳しく聞いてもらうつもりだった。褒められるか、また足運びを叱られるかは分からないが、今ならどちらでも構わなかった。
攘夷も開国も、船も商売も、知りたいことは残っている。それでも今日ばかりは、桂との次の勝負を考えていたかった。龍馬は歩調を速め、小千葉道場へ向かった。




