第31話 坂本龍馬は佐那と正式にお付き合いを始める
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佐那による地獄の特訓が終わった日の夕方、龍馬は重太郎から夕食に誘われた。
千葉家で膳を囲み、そのまま晩酌となった。
昼間散々打たれた身体に酒が染みる。
いい酒だ。
疲れた後の一杯は格別である。
もっとも、龍馬には一つだけ気になることがあった。
重太郎が妙に酒を勧めてくるのだ。
「坂本君、もう一杯どうだ」
「いただくぜよ」
「遠慮するな。今日は飲め」
「いや、まっこと景気がえいのう」
何かがおかしい。
重太郎は元々気のいい男だが、今日は妙に機嫌がいい。
嫌な予感がする。
だが、出された酒を断る龍馬ではなかった。
そして重太郎の方が先に酔った。
顔を赤くした重太郎が猪口を置き、突然龍馬を見た。
「ところで坂本君」
「なんぜよ?」
「君は佐那のことをどう思っているのかね」
「グボッ!」
龍馬は盛大にむせた。
直球すぎるわ!
酒が変なところへ入り、涙目になりながら咳き込む。
そんな龍馬を重太郎はじろりと睨んでいた。
「俺は佐那が可哀想だ」
「……いきなり重い話になったのう」
「佐那は君がすぐ江戸へ戻ってくると信じて待っていたのだぞ」
耳が痛い。
「それに、この二年間は花嫁修業もしていた」
「花嫁修業?」
「気づかなかったのか。以前より色っぽくなったであろう」
龍馬は思わず佐那の姿を思い浮かべた。
十九歳になった佐那は、確かに以前より大人びている。
道場で竹刀を構える凛々しさは昔のままだが、ふとした仕草には女らしい色気も出てきた。
しかも美人だ。
それは間違いない。
やっぱり可愛いよな。
あれを捨てるのは、かなりもったいない。
だが結婚となると話は別である。
龍馬の中では、そこだけ妙に腰が引けた。
「さ、か、も、と、君」
重太郎の顔がずいっと近づいてきた。
近い。
顔が近い。
そして酒臭い。
「わ、わしはまだ未熟者じゃし、佐那さまのような方にはおこがましいというか――」
「未熟だの、剣術が下手だの、ヘタレだの、インポだの、そんなことはどうでもいい!」
「待て! そこまでわしは言うてない! 最後のは特にどうでもようない!」
武士としてというより男として看過できない。
重太郎は机を叩いた。
「君が佐那をどう思っているのか! 問題はそれだけだ!」
いや、武士の世界では家格とか家同士の都合とか、他にも問題はかなりあると思う。
だが酔っぱらいに理屈は通じない。
「そりゃあ……好いてはおりますけんど」
「よっしゃ! 言ったな!」
重太郎が突然立ち上がった。
龍馬は嫌な予感が頂点に達した。
「佐那!」
へっ?
隣室の襖が、すっと開いた。
そこに佐那が正座していた。
龍馬の思考が止まった。
最初からいた。
全部聞いていた。
は、はかったなぁ!
「それじゃあ俺は野暮だから、もう寝る。後は二人でな」
重太郎は満足そうに言うと、ふらふらしながら部屋を出ていった。
待て。
逃げるな。
仕掛けた本人が真っ先に逃げるな。
だが戸は閉まった。
後には龍馬と佐那だけが残された。
静かだった。
非常に気まずい。
龍馬はとりあえず酒を飲んだ。
シラフでは耐えられない。
佐那が隣へ移り、徳利を手に取った。
「坂本さま、どうぞ」
「お、おう。すまんのう」
猪口に酒が注がれる。
近い。
佐那が近い。
二年前なら散々口説いていたくせに、改めて二人きりになると妙に緊張する。
横顔を盗み見る。
やっぱり綺麗だ。
以前より色気も増している。
それでいて道場では相変わらず凛としている。
性格もいい。
家柄もいい。
剣も強い。
自分を二年も待っていた。
そして何より、自分に惚れている。
龍馬は酒を飲みながら考えた。
あれ?
何で俺、逃げようとしているんだ?
こんな完璧な嫁候補、他にいるのか。
結婚したら一生女遊びができないと思っていたが、よく考えれば色町で飲むくらいは男同士の付き合いとして許されることもある。
少なくとも素人娘相手に面倒なことになるのは、もう懲りた。
だったら。
年貢の納め時というやつではないか。
酔いが回っているせいか、これまで複雑に考えていたことが急に単純に思えてきた。
「はぁ……」
思わずため息が出た。
佐那が不安そうに龍馬を見る。
「どうなされました?」
龍馬は少し考えた。
そして酒の勢いも借りて、口を開いた。
「佐那さまが可愛すぎて、ため息が出ました」
「な……!」
佐那の顔が一瞬で真っ赤になった。
龍馬はそれを見て思う。
やっぱり可愛い。
この女と一緒になる人生も、悪くない。
むしろ相当いいのではないか。
その夜、龍馬は一つの覚悟を決めた。
自分は剣術に生きる。
ならば江戸に残り、小千葉道場で剣を磨き続ける人生もある。
佐那と一緒になり、この道場で生きる。
そんな未来を初めて、逃げずに考えた。
数日後。
龍馬は、小千葉道場に異変が起きていることに気づいた。
門人たちの目が怖い。
明らかに怖い。
稽古で龍馬と当たる者が、全員いつもより強く打ち込んでくる。
「面ぇぇぇ!」
「痛っ!」
「胴ぉぉぉ!」
「ちょ、待て! 殺す気か!」
待ってくれない。
しかも聞こえてくる声がおかしい。
「死ねー!」
「腐れ野郎ー!」
「消えろー!」
剣術道場で使用してよい掛け声ではない。
イジメだ。
イジメがあります!
どうやら重太郎の一件以来、龍馬と佐那の仲は道場内で公然の秘密になってしまったらしい。
鬼小町は美人である。
当然、密かに憧れていた門人も多い。
そこへ二年ぶりに戻ってきた土佐の男が、何食わぬ顔で全部持っていった。
嫌われない理由がない。
「お、お前ら、これは稽古やぞ! 私怨を持ち込むな!」
「うるせぇぇぇ!」
「佐那さまを返せぇぇぇ!」
「まだもらってないわ!」
言ってから龍馬は気づいた。
墓穴を掘った。
殺気がさらに増した。
道場の端では佐那がその光景を眺めている。
しかも止めるどころか、どこか楽しそうに笑っていた。
「龍馬さま、最近は道場が活気に満ちていますね」
爽やかな笑顔だった。
龍馬は竹刀の雨を必死に受けながら確信した。
やっぱりだ。
Sだ。
佐那は絶対Sだろー!




