第30話 坂本龍馬は千葉佐那子と再会する
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安政三年九月。坂本龍馬は、二年あまりを経て再び江戸へ戻ってきた。長い道のりを越え、懐かしい町並みを眺めていると、旅の疲れよりも、これからの修行への期待が湧いてくる。
今度こそ、もっと強くなる。岡田以蔵にも負けてはいられない。土佐で再び稽古を重ねてきたとはいえ、江戸には、まだ一度も勝てていない相手が待っていた。
千葉佐那である。会いたいと思っていたはずなのに、小千葉道場の門が近づくにつれ、何と声をかけるかばかりが気になってきた。
「坂本龍馬、ただいま戻りました!」
迷った末、龍馬はひとまず元気よく名乗った。門人たちが振り返り、その中から千葉重太郎が歩み寄ってくる。
「坂本君! ようやく来たか」
「また、お世話になりますき」
頭を下げてから道場を見回すと、知らない顔がずいぶん増えていた。重太郎の話では、千葉定吉は鳥取藩へ仕えることになり、今は重太郎が道場を取り仕切っているという。
そして佐那も、そこにいた。門人と話していたが、龍馬に気づくと、こちらを向いた。目が合い、龍馬は慌てて頭を下げた。
「……佐那さま。ご無沙汰しちょります」
「お帰りなさいませ、坂本さま」
落ち着いた声だった。待っていたとも、遅かったとも言わない。それだけに、何を考えているのか分からなかった。
二年前には好きだと言い、ただならぬ仲にもなった。再び来ると伝えて土佐へ戻り、そのまま二年あまりである。歓迎されたい気持ちはあるが、何のためらいもなく以前のように話しかけられるほど、龍馬も図太くはなかった。
龍馬とほぼ同じ頃、武市半平太も江戸へ出てきていた。入門先は、桃井春蔵の士学館である。以蔵も、そのもとで修行を始めていた。
武市は稽古だけでなく、江戸で国事を論じる侍たちとも会っているらしかった。練兵館の桂小五郎とも話が合ったという。土佐にいた頃から真面目な男だったが、江戸へ来ても少しも変わらない。龍馬など、道場へ戻って挨拶をするだけで、別の心配事まで抱えているというのに。
龍馬も桂を訪ねた。以前のように迎えてくれるだろうかと少し気になったが、顔を見た桂は、すぐに笑った。
「坂本君、久しぶりじゃのう」
「桂さんも、変わりないようで」
「武市君にも会うた。土佐には、まだまだ人物がおるんじゃな」
旧友の名を褒められるのは嬉しい。嬉しいのだが、自分の話より先に武市の話が出ると、少し面白くなかった。あの男は剣も強ければ、人に感心されるのも早い。
桂もまた、以前と同じ道場仲間というだけでは済まない様子だった。話の途中にも人が訪ねてきて、藩の用向きらしい書状を渡していく。剣が強く、頭も切れ、そのうえ忙しく働いている。自分だけ二年前の続きを始めに来たような気がして、龍馬は少し落ち着かなくなった。
「また会合にも来てくれんか。下田にハリスというアメリカの役人が来ちょる。これから幕府へ何を求めてくるか、気になるところじゃ」
「わしにも分かる話なら、聞かせてもらいたいのう」
小龍から異国の話を聞いてきた今なら、以前よりは話についていけるかもしれない。何を求め、どう交渉するのかにも興味はあった。だが、その前に、自分には話しかけるだけでも気を遣う相手がいる。
天下の交渉を気にする前に、まず佐那と、まともに話せるようになりたかった。
小千葉道場へ戻ってからも、龍馬は佐那と話す機会をつかめずにいた。挨拶や稽古の話ならできるが、二人きりになると何から切り出せばよいか迷う。そうしているうちに、佐那の方から近づいてきた。
「坂本さま、稽古をいたしましょう」
「お、おう。望むところぜよ」
断る理由はなかった。そもそも、そのために江戸へ戻ってきたのである。龍馬は面を着け、道場の中央で佐那と向かい合った。
竹刀を構えた姿は、記憶の中と変わらない。肩に余計な力がなく、剣先も静かだった。龍馬は足を動かして距離を測り、面を狙って踏み込んだ。
佐那がわずかに身を外す。龍馬は追って胴へ打ち込もうとしたが、竹刀を返すより先に、相手の足が間合いを詰めた。
「面!」
頭へ衝撃が抜けた。龍馬の竹刀は届かず、佐那の一撃だけが決まっている。土佐で稽古をし直してきたつもりだったが、それでも、動き出したところを見事に捉えられてしまった。
「坂本さま。土佐では、どのような稽古をしておられたのです」
面の奥から問われ、龍馬は返事に詰まった。初めの頃は家でごろごろしていた。小龍の話が面白くなると本へ向かい、オランダ語や砲術にも手を出した。父の病と死があり、剣を置いていた時期もある。
「学問や砲術も習うてな。それに、父が亡くなって……しばらく、剣を握らん時もあったがじゃ」
「……それは、存じませんでした」
佐那は竹刀を下ろした。龍馬も構えを解き、父を送った頃のことを短く話した。佐那は途中で口を挟まず、静かに聞いていた。
「けんど、江戸へ戻ると決めてからは、また稽古しちょったぞ」
「それでしたら、今のうちに直しましょう。打ち直す時、上体が先に動いています」
「そこまで見えちょったがか」
「はい。もう一度、お願いいたします」
事情は聞いてくれたが、稽古を軽くする気はないらしい。龍馬は竹刀を持ち直した。慰められるより、その方がありがたいような気もした。
それから佐那は、稽古のたびに龍馬の動きを細かく確かめるようになった。踏み込む足、打ったあとの構え、相手を追う時の距離。土佐では通じた攻めも、佐那には途中を打たれた。
「腕に力が入りすぎています」
「これくらい入れんと、押し負けるぜよ」
「押そうとするから、次の動きが遅れるのです」
言われた通りにやってみると、確かに竹刀を返しやすくなった。なるほどと思った直後、その戻りを狙われて籠手を打たれる。分かったからといって、すぐ一本取れるわけではなかった。
「今のは、以前よりよくなりました」
「褒めるついでに、少しは手加減してくれんか」
「手加減をしたら、直すところが分からなくなります」
正しい。腹立たしいほど正しかった。龍馬は息を整えながら佐那を見た。厳しいことばかり言うくせに、こちらの動きがよくなると、声が少し明るくなる。
剣を教えるのが好きなのか。それとも、自分を打てるのが楽しいのか。できれば前者であってほしいと思っていると、佐那が竹刀を構え直した。
「坂本さま、まだ続けられますね」
「……続けますき」
戻ってこいと言われた場所へ、自分の足で戻ってきたのである。ここで弱音を吐いては、以蔵にも笑われる。龍馬は痛む腕を持ち上げ、今度こそ佐那の動きを捉えようと、剣先へ目を据えた。




