第29話 坂本龍馬は犬に負け江戸行を決める
父の葬儀を終えてから、坂本龍馬はしばらく喪に服した。八平には、ずいぶん心配をかけた。泣き虫で勉強嫌いだった幼い頃から、江戸での剣術修行、帰国してからの怠け暮らしまで、思い返せば安心させた覚えより、呆れられた覚えの方が多い。
それでも江戸では剣の腕を磨き、河田小龍と出会ってからは学問にも興味を持った。徳弘孝蔵のもとで砲術まで習い始めたのだから、馬鹿息子なりに前へ進んではいる。父にも、それが少しは伝わっていてほしかった。
安政三年に入ると、龍馬は少しずつ普段の生活へ戻った。剣を握り、小龍のもとへも通う。異国の船や商売の話は相変わらず面白く、聞けば次の疑問が湧いてきた。そうして数か月が過ぎた頃、今度は剣の方で、どうにも放っておけないことが起きた。
その日、龍馬は武市半平太の道場で、岡田以蔵と向かい合っていた。以前にも腕を上げたとは思ったが、こちらは江戸の小千葉道場で学んだ身である。まだまだ弟分に負けるつもりはなかった。
ところが、竹刀を合わせると勝手が違った。鋭い踏み込みは以前のままだが、打ったあとの隙が小さい。龍馬が攻撃をかわしても、以蔵は構えを崩さず、次の打ち込みができる距離を保ってくる。
面を狙うと見せ、胴へ変える。以蔵は誘いに乗らず、龍馬が打ち込もうと足を出した瞬間、先に間合いを詰めた。
「面!」
乾いた音とともに、頭へ衝撃が抜けた。龍馬の竹刀は届かず、以蔵の一本だけが見事に決まっていた。
龍馬は構えを解いたまま、相手を見つめた。負けた。最初に剣を教え、飯まで食わせた以蔵に、正面から一本取られたのである。弟分どころか、勝手についてくる犬のように扱っていた時期さえある。その犬に、堂々と噛みつかれた。
「以蔵は近頃、よう稽古しちゅう。龍馬も油断しちょったら、取られるぜよ」
武市の言葉が、妙に腹へ響いた。喪に服して剣を置いていた間にも、以蔵は稽古を続けていたのだろう。それ以前から、自分には寝転がっていた日がずいぶんある。言い返そうとしても、不利な材料ばかり浮かんできた。
「もう一本じゃ、以蔵」
「はい」
返事まで素直なのが腹立たしい。得意そうに笑ってくれれば、少しくらい文句も言えるのに。
今度は龍馬も慎重に構えた。だが、以前のように兄貴分の余裕を見せながら勝てる相手ではない。以蔵の足を見て、竹刀の先を見て、打ち込む隙を必死に探すことになった。
武市は強い。桂小五郎も強かった。そこまでは仕方がないと思っていたが、以蔵まで迫ってくるとなると話が違う。自分が江戸帰りを自慢している間に、土佐の道場でも剣士は育っていたらしい。考えてみれば当然だが、身をもって知ると、まったく面白くなかった。
それからは、小龍の話を聞いていても、ふと以蔵の踏み込みを思い出すようになった。蒸気船や海外貿易の話は面白い。学問をやめたいわけでもないのに、話が途切れると、あの一本をどう防げばよかったかと考えている。
剣にも、まだ未練がある。いや、未練どころではない。自分はもっと強くなりたかったのだと、龍馬はようやく認めた。佐那に負けて江戸を発ち、武市に負け、今度は以蔵にも一本取られた。このままでは、負けた相手が増えていくばかりである。
もう一度、江戸へ行こう。そう決めると、龍馬はしまってあった書状を取り出した。小千葉道場を離れる際、千葉定吉が再び修行できるよう、日根野道場と父へ書いてくれた手紙である。
帰国したら再修行を願い出る。あの時は本気でそう言った。それが延び延びになり、気づけば二年近い。龍馬は書状を眺め、今度こそ兄へ話を通そうと立ち上がった。
坂本権平は書状を読み直すと、弟へ目を向けた。
「ようやく、その気になったがか」
「江戸で、もう一度剣を学びたいがじゃ」
「定吉先生にここまで言うてもろうて、ずいぶん待たせたのう」
龍馬は返事に詰まった。もっともな話である。だが、今からでも行く気になったのだから、その点を少しは買ってほしい。
「江戸には、何ぞ戻りづらい事情でもあるがか」
「何でそうなる」
「お前のことじゃ。女のことで面倒を起こしちょらんろうな」
「剣術修行の話をしゆうがじゃ」
龍馬は書状を指さした。話を戻すには、師の推薦を盾にするのが一番である。権平は疑わしそうな顔をしていたが、それ以上は追及しなかった。
千葉佐那には、また来るつもりだと伝えてある。道場も待っていると言ってくれた。その言葉に甘え、二年近くも土佐にいたのだから、再会した時に何と言われるかは気にかかる。会いたいと思う一方で、最初の立ち合いだけは遠慮したかった。
「親父がおったら、何と言うじゃろうのう」
龍馬がつぶやくと、権平は書状へ目を落とした。
「行くなら、しっかり学んでこいと言うろう」
「……そうじゃのう」
「家や道場への話を済ませて、藩へ願い出るき。今度は途中で寝かせるなよ」
「分かっちゅう」
父が最後に、兄の言うことを聞けと言っていたのを思い出した。龍馬は今度こそ、素直にうなずいた。
再修行の段取りを進めていると、武市も江戸へ遊学することになったと聞いた。さらに、以蔵も同行するという。龍馬はその話を聞き、思わず武市の顔を見た。
「以蔵もか」
「江戸で、もっと学ばせたいきに」
「そうか。ほんなら、わしも稽古相手には困らんのう」
江戸なら、また腕の立つ剣士たちと竹刀を合わせられる。小千葉道場にも戻れるし、佐那にも会える。考え始めると楽しみは次々に増えたが、その前に、すぐそばで済ませておきたいことがあった。
龍馬は以蔵へ向き直った。
「次は負けんきのう」
「わしも負けませんき」
以前なら、そんな返事をする相手ではなかった。龍馬は少しむっとしたが、すぐに道場の壁へ立てかけた竹刀を取った。
江戸へ着くまで待ってやる理由もない。以蔵が相手なら、明日も明後日も勝負できる。そう思うと、久しぶりに稽古へ通う足が軽くなりそうだった。




