第28話 坂本龍馬の父・八平、没す
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坂本龍馬が砲術を本気で学び直そうと思ったのは、浦賀で見た黒船の仕組みを、河田小龍の話で少しずつ理解したからだった。あの巨大な船は、海に浮かんでいるだけで人を威圧した。だが、その力は大きさだけから生まれるものではない。
蒸気で船を動かし、大砲で遠くを狙い、それらを扱う人間が技術を積み重ねている。
江戸では佐久間象山の講義についていけず、途中で塾を辞めた。土佐へ戻ってから書物を調べても、文字だけでは分からないところが残る。今度は実際に砲を扱い、聞いた話と目の前の動きを結びつけてみたかった。
そう考えた龍馬は、徳弘孝蔵のもとで、西洋式の砲術を学び始めた。
もっとも、最初から景気よく大砲を撃たせてもらえたわけではない。
砲の各部の名称、火薬と砲弾、装填の手順、発射前の確認。覚えることは多く、龍馬は説明を聞きながら、目の前の砲を何度も眺めた。
「先生、わしはいつ大砲を撃てるがです?」
「手順も知らん者に撃たせられるか」
孝蔵に即答され、龍馬は少し口を尖らせた。
大事なのは分かるが、いつまでも名前を覚えているだけでは面白くない。つい、難しいところを省いて言ってみた。
「大筋は、火薬入れて玉入れて、火をつけるがでしょう?」
「おんし、その大筋だけでやったら、自分ごと吹き飛ぶぞ」
孝蔵の顔が険しくなり、龍馬は口を閉じた。
面白くないなどと言っている場合ではない。撃つ前に吹き飛んでは修行にならないので、素直に手順を覚えることにした。
さらに標的までの距離、砲身の角度、火薬の量まで考えなければならなかった。
見た目は豪快なのに、実際にはひどく理屈っぽい武器である。
大砲まで学問の側だったとは、少々裏切られた気分だった。
やがて仁井田浜での実地の稽古にも加わった。砲を扱う者たちとともに指導を受け、発射までの役割を順に経験する。自分の手順が遅れれば、ほかの者も待つことになる。大砲は、剣のように一人で構えて振れば済むものではなかった。
標的には、土を盛った場所に板が据えられていた。龍馬が照準を任された最初の一発は、大きく外れた。着弾した場所を確かめ、孝蔵の指示を受けて砲身の角度を直す。次も外れたが、今度は標的との隔たりが少し縮まった。
失敗したら、その理由を考えて直す。剣の稽古でも同じようなことはしていたが、遠くへ飛んだ砲弾の跡を見て考えるのは、また違った面白さがあった。龍馬はいつしか、撃つことだけでなく、どこへ落ちるかを見るのにも夢中になっていた。
「おおっ! 今のは惜しいぜよ!」
一発が標的の近くへ落ち、龍馬は声を上げた。孝蔵も着弾した場所を確かめ、小さくうなずいた。
「最初よりは、ましになったな」
「ましやなくて、才能があると言うてつかあさい」
「当ててから言え」
褒め方が渋い。もう少し若者を伸ばす気はないのかと思ったが、確かにまだ当たっていない。
龍馬はぶつぶつ言いながら、指導に従って砲身の角度を調整した。
次の発射で、轟音とともに白煙が広がった。龍馬が煙の向こうへ目を凝らすと、少し遅れて標的の板が砕け、背後の土が跳ね上がった。
「当たった!」
思わず声が出た。孝蔵の顔を見ようとしたが、まずは発射後の確認だと促される。
喜ぶにも順番があるらしい。龍馬は言われた手順を済ませ、それからもう一度、遠くの標的を見た。
浦賀で見た黒船は、ただ大きく珍しい船ではなかった。
蒸気で動き、遠くから砲撃し、その力を使うために人が学び、手順を守っている。
小龍から聞いた、強さを支える仕組みというものが、手を動かしてみて少し分かった気がした。
剣では届かない距離を、自分たちの扱った砲弾が飛んでいった。その事実を目で確かめると、刀だけでは軍艦に対処できないという話にも、以前よりはっきりした重みが生まれた。龍馬は標的を眺めながら、まだ知らなければならないことが多いと思った。
だが、その頃には、砲術どころではない日も増えていた。
父の坂本八平の具合が、目に見えて悪くなっていたからである。八平はすでに兄の坂本権平へ家督を譲り、家の采配からも少しずつ退いていた。
それでも龍馬は、どこかでまだ大丈夫だと思っていた。父はいつも家にいて、息子が馬鹿なことをすれば叱り、遊び歩けば小言を言う。それが当たり前で、これからも続くような気がしていた。
ところが、寝ている時間が増え、小言も少なくなった。家の中が静かになるほど、龍馬は落ち着かなくなった。休んでいるだけだと考えたいのに、顔を見るたび、その言い訳が難しくなっていった。
安政二年十二月四日、八平の容体が悪化し、家族が枕元へ集まった。龍馬も父のそばに座ったが、何を話せばよいのか分からなかった。江戸のことも、剣のことも、小龍の話も、砲術で標的へ当てたことも、聞いてもらいたいことはあった。だが、どれも長い話になりそうで、弱った父に聞かせてよいのか迷った。
「龍馬」
「……うん」
「権平の言うことを、よう聞け」
「分かっちゅう」
「家族に……あまり心配をかけるなよ」
こんな時まで、自分のことを心配している。
普段なら、もう子供ではないと言い返したかもしれない。今は、その言葉を受け取るだけで精いっぱいだった。
「分かったき」
龍馬が答えると、八平はわずかに笑った。龍馬はその顔を見つめ、ほかにも何か言おうとしたが、うまく言葉にならなかった。
それから間もなく、父は静かに息を引き取った。
龍馬は、父の顔から目を離せなかった。明日になれば、また小言を言われるような気がする。寝過ぎだ、遊び歩くな、権平の言うことを聞け。そんな声が、いつものように飛んできそうだった。
だが、父は何も言わなかった。
江戸へ行き、剣を学び、昔は苦手だった学問にも興味を持つようになった。
砲術まで学び直している。少しは成長した姿を見せられただろうか。少しくらいは安心してくれただろうか。
それだけは、もう父に聞くことができなかった。
葬儀を終えた後もしばらく、龍馬は家を離れなかった。
剣を振らず、砲術の稽古にも行かず、小龍のところにも顔を出さない。出かけようと思っても、父の部屋の前を通ると足が止まった。
家は、権平を中心に動いていた。もともと兄が取り仕切っていたことは多かったが、父へ確かめに行く姿は、もう見られない。食事も片付けも、必要なことは毎日続く。その中に父だけがいないことを、龍馬は少しずつ思い知らされた。
いずれは剣も握り、学問にも戻るつもりだった。聞きたいことも、試したいこともなくなったわけではない。だが今だけは、立ち止まっていたかった。
龍馬は静かな部屋へ座った。父に話せなかったことを思い返しながら、もう少しだけ喪に服していようと思った。
馬鹿息子なりに、父を送る時間が必要だった。




