第26話 坂本龍馬はストーカーと婚約する
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安政二年のある日、坂本龍馬は城下をぶらぶら歩いていた。
小龍のところで聞いた異国の話を考えていたはずが、道端に立つ武家の娘を見つけた途端、考え事は止まった。
清楚で、なかなか可愛い。しかも困っている。助けない理由がない。
近づいてみると、草履の鼻緒が切れていた。娘は片足を浮かせたまま、どうしたものかと足元を見つめている。
「ちょっと見せてみい」
娘がうなずいたので、龍馬はしゃがみ、切れた鼻緒を手持ちの布で結び直した。丈夫とは言えないが、家までは持つだろう。こういう仕事なら、オランダ語と違って目の前で答えが出る。
「これで大丈夫ぜよ。気をつけて帰りや」
顔を上げると、娘の頬が赤くなっていた。やはり可愛い。だが、大人しい武家の娘に軽い気持ちで近づけば、遊びでは済まない。土佐で女たちから一斉に縁を切られたことも、まだ覚えている。
今日は親切な男として帰ろう。完璧な判断である。
「あ、ありがとうございます。龍馬さま」
立ち上がりかけた身体が止まった。名前を言った覚えはない。
「加尾は感激でございます。これは運命なのでしょうか」
運命。鼻緒を結んだだけで、ずいぶん大きな話になった。
「覚えていらっしゃいませんか。平井加尾でございます」
平井と聞いて、龍馬は記憶を探った。平井収二郎という、幼い頃の嫌なガキ大将が浮かぶ。
上士の家の子なのに下士の子供とも交わり、十歳頃の龍馬へよく絡んできた。その傍らに、大人しい少女がいた。
「……ああ、収二郎の妹か!」
「はい」
「覚えちゅうぜよ。懐かしいのう、加尾」
面影はあるが、ずいぶん綺麗になっていた。兄の方も少しは愛想よくなっていればよいが、そちらには期待できそうにない。
「江戸で剣を学ばれたり、河田小龍先生のところへ通われたり、随分お励みのようですね」
「まあ、ぼちぼちじゃ」
「昨日はオランダ語で苦労なさったそうですね。一昨日は日根野道場で、大層ご活躍だったとか」
龍馬の笑顔が固まった。江戸帰りという話なら誰でも知っている。だが、昨日の苦労まで知られているのはおかしい。
「わしが昨日どこにおったか、何で知っちゅうがじゃ」
「龍馬さまのことですから」
答えになっていない。加尾は潤んだ目で、真っすぐ龍馬を見た。
「加尾は、ずっと龍馬さまをお慕い申し上げておりました」
嬉しい。だが、まずい。
ここで喜んだ顔をすれば、鼻緒どころではないものまで結ばれそうだった。深入りせず、期待を持たせず、速やかに立ち去る。龍馬は一歩下がった。
「ほんなら、わしはこれで――」
「龍馬さま。もう少し、お話しできませんか」
袖をつかまれ、足が止まった。これだけ慕われているのに、いきなり振りほどくのも気の毒である。
そう考えた時点で、完璧な判断は崩れ始めていた。
それから龍馬は、加尾と幾度か会った。
加尾はよく話を聞き、龍馬が冗談を言えば笑ってくれる。小龍の話をしても、剣の話をしても感心してくれるので、こちらもつい口が滑らかになった。
深入りするなとは思っていた。だが、今日は話すだけ、次も顔を見るだけと、自分に許す範囲を少しずつ広げた。やがて二人は、ただの昔馴染みでは済まない仲になった。
そして、龍馬は失敗を悟った。
「龍馬さま、輿入れはいつにいたしましょう」
早い。話が早すぎる。
加尾は武家の娘で、しかも平井家は上士格だった。
その中では低い位置にあるとはいえ、郷士の坂本家より家格は上である。一方、坂本家は裕福で、暮らし向きに大きな隔たりがあるわけではない。
つまり、身分が違うから無理だという言い訳も、簡単には使えなかった。こうなることを考えなかったのかと問われれば、考えた。
考えた上で、考えないことにしたのである。実に悪い。
ほどなく、兄の坂本権平に呼び出された。加尾が家族へ話し、平井家から問い合わせが来たのだという。龍馬は座敷へ正座し、兄の顔を見た。
ため息が深い。
「龍馬。お前は、平井家の加尾様を嫁にもらう気があるがか」
「あるような、ないような……嫌いじゃないがです。ただ、結婚いうものに縛られるのは、坂本龍馬という男にとって、ちくと難しいというか」
「何を言いゆう」
「わしも困っちゅうというか……どうしましょう」
最後には半分泣いていた。助けを求める相手が、自分を問い詰めている兄しかいない。情けないが、本人は真剣だった。
「龍馬さん。そろそろ覚悟を決めなさい」
父の後妻、坂本伊与まで口を挟んだ。兄だけでも勝ち目がないのに、味方が増えるどころか相手が増えた。
「平井家なら悪い縁談ではありません。それに、お父様も身体が弱っておられます」
龍馬は黙った。父の坂本八平は、年が明けてから体調を崩していた。家族が龍馬の身の落ち着くことを望むのも分かる。だが、分かることと覚悟が決まることは、別だった。
江戸では千葉佐那との先の話を避けるため、家の事情を持ち出したこともあった。その方便が、今は本当に自分を縛ろうとしている。父のことを軽く言い訳にした報いかと思うと、口をつぐむしかなかった。
ところが数日後、権平から意外な話を聞かされた。収二郎が婚姻に激しく反対し、平井家の話し合いもまとまらないのだという。
「坂本へ妹をやるくらいなら、お前を斬って自分も切腹するとまで言うちゅう」
「ちょっと待ったぁぁぁ!」
龍馬は身を乗り出した。斬られるのは困る。しかし、反対してくれること自体は大いにありがたい。
収二郎、今だけは正しい。
龍馬の女癖が城下で知られるようになったのは、わずか二年ほど前だった。
そんな男に可愛い妹を嫁がせたくないというなら、実にもっともである。全面的に支持したいが、その信用できない男が自分なのだから、少しへこんだ。
「何を嬉しそうにしゆう」
「いや、収二郎にも道理があると思いまして」
「自分の話じゃぞ」
兄は少しも感心してくれなかった。
結局、正式な婚姻の話がまとまる前に、縁談は立ち消えとなった。
平井家で加尾を説得したと権平から聞き、龍馬はようやく息をついた。期待を持たせた後ろめたさはあったが、結婚の覚悟がないまま話が進むよりはよい。
今回だけは感謝しよう、収二郎。
そう思いながら武市道場を訪ねたのは、家にいると誰かが説教を始めそうだったからである。
剣を振れば気も晴れるし、武市なら愚痴くらい聞いてくれるだろう。
「いやあ、酷い目にあったぜよ、武市」
「酷い目にあったのはこっちじゃ、龍馬!」
聞き覚えのある怒声に振り向くと、収二郎がいた。
避難先にいるな。
「げえ、お義兄さん!」
「誰がお義兄さんじゃ! 丸めて転がすぞ!」
龍馬は即座に武市半平太の後ろへ回った。感謝していたはずなのに、顔を見ると余計なことを言ってしまう。これも昔馴染みの悪いところだった。
「武市、助けてくれ」
「自分で蒔いた種じゃろう」
冷たい。子供の頃も、乙女から逃げ込めば引き渡された。避難先を選ぶ才能が、自分にはないらしい。
「平井殿は近頃、うちへよう来て、時勢について語り合いゆうがじゃ」
「そのお陰でな」
収二郎が龍馬を睨んだ。
「お前の話がよう聞けた。それを加尾にも伝えて、ようやく説得できたがじゃ。まっこと危ないところやった」
「それは、おめでとうございます」
「他人事みたいに言うな! 固めて埋めるぞ!」
龍馬は武市の反対側へ移った。丸められたり固められたり、今日は人の扱いがひどい。
だが、妹の兄として怒っている収二郎へ、これ以上言い返すのもまずかった。
「……すまんかった。加尾にも、悪いことをしたと思うちゅう」
頭を下げると、収二郎はしばらく黙った。武市も何も言わず、二人を見ている。龍馬は顔を上げ、今度こそ冗談を控えた。
武市道場には、また一人、厄介な男が増えたらしい。
剣の相手には困らないが、口を滑らせる相手にも困らなくなった。
龍馬は隅へ座り、今日は黙って稽古を見ようと決めた。自分の口にも、鼻緒のような結び目を作れたらよいのにと思いながら。




