第25話 坂本龍馬は河田小龍に弟子入りする
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「次はいつながじゃぁぁ!」
外へ出た坂本龍馬は、思わず空へ向かって叫んだ。聞きたいことが増えたところで、今日は終わりと言われてしまった。何という焦らし方だろう。千葉佐那との距離を縮めようとしていた頃より、先が見えない。
黒船の仕組みも、アメリカの政治も、カンパニーという商売の仕組みも、もっと聞きたい。一つ知るたびに、分からないことが三つ増える。暇つぶしに来たはずなのに、帰る頃には頭の中が忙しくなっていた。
「坂本さんも、小龍先生のすごさが分かったようですね」
隣の長次郎が、得意そうな顔をした。龍馬はその顔を見て、少しだけ面白くなくなる。教えてくれたのは先生なのに、なぜこの男まで偉そうなのか。
「おんしが自慢することでもなかろう」
「坂本さんより前から教わっていますき。先輩弟子です」
「学問に身分は関係ない言うたばかりじゃろ」
「教わった順番はあります」
都合のよい理屈だった。もっとも、知らない言葉を教えてもらうには、この先輩弟子を頼ることになりそうである。龍馬は反論を控え、別のことを尋ねた。
「小龍先生の話をまとめた本は、ないがか?」
「あります。万次郎どのから聞いた体験を、先生が書き留めたものです」
「それを読みたい。手に入らんかのう」
「写してもらうには、金がかかりますよ」
「金ならあるぜよ」
龍馬は胸を張った。自分で稼いだ金ではないが、今は勉強に使うのだから、家にも言い訳が立つ。花街で使う時よりは、ずっと立派な出費である。
「わしは、あの才谷屋の分家、坂本家の次男じゃ」
「……あの才谷屋ですか?」
長次郎の目が大きくなった。饅頭屋の息子なら、土佐の豪商の名を知っていても不思議ではない。効いたと思い、龍馬はさらに胸を張った。
「つまり、金持ちの親戚の息子ぜよ」
「さっきより、頼りなく聞こえますけど」
「細かいことは気にするな」
虎の威を借りるにもほどがあるが、使える家名は使っておく。
長次郎は苦笑しながら、一冊写してもらえるか先生に相談すると約束してくれた。龍馬は礼を言い、写しができるまでにもう一度話を聞けないものかと、小龍の家を振り返った。
後日、龍馬の手元に届いたのは、河田小龍がジョン万次郎から聞いた異国での体験をまとめた書の写しだった。
話で聞いた時には分かった気になったことも、文字で追うと、途中でつまずく。龍馬は何度も頁を戻り、分からないところを覚えておいて、小龍や長次郎に尋ねるようになった。
幼い頃、下田屋で地球儀や舶来品を眺めたことも楽しかった。商売や貿易の話を聞き、覚えたことを人へ話すのも好きだった。だが、自分から腰を据え、分からないところまで調べ続けたいと思うことは、これまであまりなかった。
小龍は難しい理屈から入らず、まず龍馬の気になるものを見せた。船はどう動くのか、大きな仕事の金はどう集めるのか。面白いと思って尋ねるうちに、仕組みの話まで聞いている。異国への好奇心が、いつの間にか勉強へつながっていた。
ところが、武市道場へ顔を出したある日、門人の一人が龍馬の前へ来た。
「龍馬、おんし、開国派になったがか?」
「誰がそがなことを言いゆう」
「河田先生のところへ、よう通いゆうじゃろ。異国のことも、えらい嬉しそうに話すき」
近くにいた者まで寄ってきた。小龍のところへ通うことが、道場で話題になっているらしい。
船や商売の話を喜んでしていれば、開国派と思われるのも無理はない。だが、学び始めたばかりなのに、もう旗を選べと言われても困る。
龍馬は少し考え、胸を張った。こういう時には、聞き覚えのある立派な言葉が役に立つ。
「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず、じゃ」
「急に何じゃ」
「異国のことを知らんで、どうやって追い払うがぜよ」
相手が黙ったので、龍馬は言葉を続けた。船がどう動くのか、大砲がどれほど遠くへ届くのか、どんな仕組みで国を治めているのか。
そこを知らずに攘夷を語るのは、目隠しして喧嘩するようなものではないか。
「それに、吉田松陰先生も、異国を知ろうとして海の向こうへ渡ろうとしたろう。わしも、その志を継いで学びゆうがぜよ」
言ってから、少し大きく出すぎたと思った。
松陰の志を継ぐなどと、襖の外で話を聞いて逃げた男が言うことではない。
ただ、異国を知ろうという部分だけなら、まるきり嘘でもなかった。
「まあ、知らんままでは戦えんのう」
「そういうことじゃ」
門人たちはうなずき、稽古へ戻っていった。龍馬は息をついた。
尊皇攘夷のためと言えば、ひとまず話は通るらしい。便利な方便だったが、これでまた松陰の後継ぎのように扱われては困る。次からは、もう少し控えめに説明しよう。
武市半平太と二人きりになると、龍馬は先に白状した。
近くで話を聞いていたこの男に、同じ言い訳が通じるとは思っていなかった。
「武市。さっきの話じゃけんど、全部が全部、本気いうわけじゃないき」
「分かっちゅう」
「やっぱり?」
「おんしが急に松陰先生の志を継ぐと言い出す方が、わしは心配じゃ」
ひどい言い方だったが、反論はできない。龍馬は頭をかき、今度は飾らずに話した。
「けんど、異国を知らんで異国を語るのは、おかしいと思う。そこは本気ぜよ」
「それでえい。小龍の考えに、全部染まる必要はない。わしの考えにもな」
龍馬は武市の顔を見た。小龍を嫌っていることは、本人の口から聞いている。それでも、龍馬が教わることを止めようとはしなかった。
「おんしには、おんしの気づくことがあるろう。それを学んでこい」
「えいがか?」
「やる気になっただけでも進歩じゃ。家で蟻を見よった頃より、百倍ましぜよ」
「そこまで言わんでもえいろう」
「言う」
龍馬は苦笑した。
こちらを思い通りに動かすより、まず自分で考えさせようとしてくれているようだった。こういうところが、武市の懐の深さなのだろう。同じことを桂小五郎に言われたら、妙に腹が立つ気もするが、それはたぶん、あの男が何でもできそうな顔をしているせいである。
それから龍馬は、小龍の話を聞くだけでなく、書物を開く時間も増やした。
蒸気船、測量、航海術、海外貿易、会社や議会の仕組み。
分からない言葉を書き留めては、長次郎にも尋ねる。分かったつもりで先へ進むと、あとで話がつながらなくなることを、少しずつ覚えてきた。
異国の書物を読むには、その言葉も必要だった。
本当は、アメリカの船で使われる英語を学びたかったが、教えてくれる者を探すのは簡単ではない。まずは学べるところから始めようと、オランダ語の手ほどきを受けることにした。蘭学の書を読めるようになれば、西洋の技術へ近づけるという。
いざ始めると、字を覚えるだけでも骨が折れた。昨日覚えたはずのものを忘れ、同じところを何度も確かめる。小龍の面白い話を聞くのとは、ずいぶん勝手が違った。だが、ここでやめれば、いつまでも誰かに読んでもらわねばならない。龍馬はため息をつきながら、もう一度筆を取った。
砲術についても、まずは手に入る書物を調べ、分からないところを小龍に尋ね直した。
以前、佐久間象山の塾で聞いた話には、ほとんどついていけなかった。今も急に分かるようになったわけではないが、何を知りたいのかは、以前よりはっきりしている。
大砲の射程は何で変わるのか。火薬の量や砲身の長さは、どう関わるのか。揺れる船の上で、どう照準を合わせるのか。考え始めれば、鉄の筒を並べるだけでは済まないことばかりだった。
刀では軍艦に対処できないと、武市には以前から言われていた。その時は理屈として聞いていたが、今は少しずつ実感が伴ってくる。剣一本では届かない距離から相手を倒せる武器があり、それを運ぶ船まである。剣を学ぶことが無駄になるわけではないが、それだけでは分からないことが多すぎた。
上士の子にいじめられ、塾を辞めた自分が、今は誰にも言われず本を開いている。乙女に追い立てられるわけでもなく、父に褒められるためでもない。分からないままにしておくのが、どうにも気になるのだ。自分でも、不思議な変わりようだった。
剣は今も面白い。佐那にも会いたい。だが、船や商売や異国の仕組みを知る楽しさは、それとはまた違っていた。小龍の話を聞いたあとには、いつも次の質問が残る。
龍馬は読みかけの本へ戻り、分からない言葉を一つずつ書き留めた。明日、長次郎に会ったら尋ねてみよう。先輩弟子だと威張るのなら、こちらの質問にも少しは付き合ってもらうつもりだった。




