第23話 坂本龍馬はニートになる
それから坂本龍馬は、たびたび武市半平太の道場へ呼ばれるようになった。
江戸帰りで、黒船を見ており、桂小五郎を知っている。吉田松陰の密航話まで聞いているとなれば、皆が話を聞きたがるのも無理はなかった。
ただし、松陰とは顔を合わせていないと説明しても、密航計画を聞いたことへの感心は変わらない。
襖の外で聞いた話が、どうしてそこまで立派な経験になるのか、龍馬にはよく分からなかった。
今度は、分からないことまで言い切らぬよう気をつけた。
異国をどう追い払うかと問われれば、自分にも分からないと答える。それでも江戸で見聞きしたことを話すだけで、皆は真剣に耳を傾けてくれた。
感心され、礼まで言われると、龍馬もだんだん気分がよくなってくる。
望月亀弥太や池田寅之進らを連れて町へ出れば、江戸を知る兄貴分として扱われた。
どんな町だったか、何がうまかったかと聞かれる分には、難しい政治の話と違って困らない。
こちらなら自信を持って答えられるし、皆もよく笑う。江戸修行は、剣以外のところでも役に立つものだった。
剣の方でも、修行の成果は確かに出ていた。
小千葉道場で覚えた足運びや、相手の力を流して打つ技を使えば、以前なら押し合いになった相手からも一本取れる。
武市道場の門人たちとの立ち合いで勝ちを重ねるうち、龍馬は武市にも試してみたくなった。
「武市、おんしにも江戸仕込みの剣を見てもらおうか」
「おう。どれほど変わったか、楽しみじゃのう」
楽しみにしてくれるのはありがたかったが、立ち合いが始まると、武市は少しも遠慮しなかった。
打ち込みを流そうとすれば追われ、間合いを取り直す前に次の一撃が来る。こちらの工夫を見せるつもりが、どこでしくじったかを確かめる稽古になり、結局、龍馬の方が先に参った。
「……武市、おんし、何でそんなに強いがじゃ」
「剣術道場を開いちゅう男に何を言いゆう」
もっともだった。
江戸へ行っただけで道場主に勝てるなら、土佐に残った者はたまらない。
龍馬も理屈では納得したが、門人たちの前で負けたのが気になり、皆の視線まで少し冷たく感じられた。
その後は門人たちとの稽古で勝ちを重ね、どうにか威厳を取り戻した。
誰も龍馬を笑ってはいなかったのだが、本人としては、負けたまま帰るわけにはいかなかった。
江戸で身につけた技の使い方を確かめるためだと考えれば、少し意地になっていることにも説明がつく。
意外だったのは、岡田以蔵である。
以前から踏み込みの鋭い男だったが、今は構えも、打ち込んだあとの動きも整っていた。
龍馬が最初の一撃をかわしても、そこで止まらず追ってくる。武市のもとで、ずいぶん稽古を積んだらしかった。
「以蔵、おまん、ようなったのう」
「武市先生に、毎日見てもろうちょりますき」
以蔵は嬉しそうに答えた。自分が教えた頃より、ずっと剣士らしくなっている。
喜ばしいことなのに、武市の手柄だと思うと少し面白くなかった。
最初に剣を教え、飯まで食わせたのはこちらである。たまには龍馬さんのおかげですとも言ってくれてよさそうなものだが、さすがに自分から要求するのは見苦しい。
龍馬はもう一本やろうと竹刀を構え、今度は兄貴分らしく勝つことに専念した。
武市道場へ顔を出し始めて、一月ほどたつと、江戸の土産話も一巡した。
呼ばれる回数が減り、龍馬の日々には急に空きができた。
日根野道場や武市道場へ出かける日以外は、家でごろごろしている。最近では、五日に四日はそんな調子だった。
再び江戸へ出たい気持ちはある。千葉佐那にも会いたいし、まだ学びたい技も多い。
ただ、家や道場へ相談し、藩へ願い出る段取りを考え始めると、どこから手をつけるかが面倒になる。明日でもよいと思っているうちに、明日が何度も来ていた。
「龍馬。おんし、いつ来ても家におるなあ」
畳に寝転がっていた龍馬が目を開けると、坂本乙女が見下ろしていた。
姉は龍馬が江戸にいる間に、医者の家へ嫁いでいる。帰宅した日に立ち合いをする羽目になったのも、ちょうど嫁ぎ先から戻ってきていたためだった。
「姉ちゃんこそ、嫁に行ったくせに、何でしょっちゅう実家におるがじゃ」
「うるさい」
「医者の家へ嫁いだがじゃろ。嫁の仕事はどうしたがじゃ」
「若い男が昼間から寝転がって、何を偉そうに言いゆう!」
嫁ぎ先の話になると、乙女はいつも機嫌が悪くなる。
何やら折り合いが悪いのだろうと龍馬は思っていたが、詳しく尋ねたことはなかった。
聞けば長い話になりそうだし、下手に口を挟めば、最後には自分が叱られる気もする。
「わしは江戸帰りの剣士ぜよ。今は少し休んじゅうだけじゃ」
「休みすぎじゃ。飯代を稼いでから言え」
「剣の修行も仕事みたいなもんじゃろ」
「ほんなら、その修行に行ってこんか!」
どう言い返しても、寝ていることが不利になる。
龍馬は肘をついて身体を起こした。庭で姉に勝てるようになっても、家の中の口喧嘩まで勝てるようにはならないらしかった。
剣を振り、飯を食い、昼寝をする。
時には武市道場で江戸の話をし、帰ればまた飯が出てくる。
実にありがたい暮らしだった。土佐にいる間くらい、少しのんびりしてもよいではないか。
とはいえ、江戸へ戻る話まで寝かせておくわけにはいかない。
佐那には、再び修行に来るつもりだと伝えてある。自分が土佐で昼寝ばかりしていると知られたら、次の立ち合いは今まで以上に厳しくなりそうだった。
まずは日根野の師へ相談しよう。
そこまで決めた龍馬は、もう一度畳へ横になった。出かけるなら、少し休んでからでも遅くない。
「今、起きたばかりじゃろうが」
乙女はまだ見ていた。龍馬は目を閉じたが、姉が立ち去る気配はない。
江戸行きの段取りより先に、今日の昼寝の許しを得る方が難しそうだった。




