第22話 坂本龍馬は武市道場へ行く
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土佐へ戻った坂本龍馬は、家族への挨拶を済ませると、江戸で剣の腕を上げた話を始めた。
父の坂本八平がうなずいてくれるので、つい調子がよくなる。強い相手が多かったことも、他流の剣を学んだことも本当だが、何度も転がされた話まで律儀に報告する必要はない。
「もう、出ていく前のわしとは違うぜよ」
「ほう。なら、立ち会うてみようか」
坂本乙女が立ち上がり、龍馬は口を閉じた。
姉は昔から、弟の自慢を聞いて褒めるより、確かめる方を好む。久しぶりの帰宅なのだから、今日くらいは言葉だけで喜んでくれてもよさそうなものだった。
庭へ出ると、乙女は竹刀を構えた。
龍馬の腕を試すつもりなのか、遠慮のない打ち込みが来る。以前なら力で受け止めて押し返したところだが、今はその剣の行き先が見えた。
竹刀を合わせ、押し合う前に身体をずらす。
乙女の打ち込みを流したまま、空いた小手へ一撃を入れた。
姉が構え直しても、次の勝負はほぼ同じだった。江戸で散々打たれた甲斐が、こんなところであったとは思わなかった。
「何じゃ、その気持ち悪い剣は」
「腕が上がったと言うてほしいのう」
「力任せに振り回すだけやなくなったがか」
乙女は手首を確かめながら、口元を緩めた。
文句の割に嬉しそうに見えるので、龍馬も胸を張った。|
佐那に教わった技が役に立ったと思うと、再び江戸へ行きたい気持ちが強くなる。
家、藩、親戚への挨拶を一通り終え、龍馬は武市半平太の道場を訪ねた。
江戸へ行っている間に、半平太は自分の道場を開いていた。
二十六歳で道場主、しかも妻もいる。同じ昔馴染みなのに、こちらは姉へ自慢して竹刀を向けられている。ずいぶん差がついたものだった。
もっとも、半平太には昔から世話になっている。長い顎まで立派に見えてくるのは少々面白くないが、妬んでばかりでは男が小さくなる。
龍馬は愛想よく挨拶し、集まっていた仲間の輪へ入った。
望月清平・亀弥太の兄弟、池田寅之進、吉村虎太郎、那須信吾。
懐かしい顔が次々と寄ってきて、最初に飛んできた問いはこれだった。
「それで、江戸の女はどうじゃった?」
「さすがに江戸の商売女は、土佐とは違うぜよ。競争が激しいきに、客を喜ばせる工夫がすごい」
「吉原へは行ったんか?」
「吉原は高い。もっと安う楽しめる穴場が、江戸にはようけあるき」
龍馬が声を落とすと、皆が身を寄せた。
剣の修行より熱心に聞いているのではないか。江戸帰りの威厳というものは、案外こういう話で保たれるらしい。
輪の向こうには岡田以蔵もいた。足軽の子で、以前は龍馬について回っていた男だ。
それが今は、何かあるたびに半平太の顔をうかがっている。自分の舎弟だったはずなのに、留守の間にすっかり飼い主を替えた犬を見るようで、少し悔しかった。
「おまんのことじゃ。素人娘にも手を出しちょったろう」
「いや、土佐で懲りたき、何もしてござらんでありんす」
「語尾がおかしいぞ、龍馬」
しまった。余計な言葉が出た。佐那のことまで探られ、師匠の娘に手を出して逃げ帰ったなどと言いふらされては、悪名ここに極まる。
龍馬は笑って手を振り、別の土産話を持ち出した。
「そんなことより、黒船を見たぜよ」
途端に、笑い声が途切れた。皆の後ろで困ったように笑っていた半平太まで、顔を引き締めている。
龍馬は軽く切り替えたつもりだったが、話題の選び方を間違えたらしい。
「龍馬、この道場では尊皇攘夷を掲げちょる」
半平太は静かに言った。天皇を尊び、異国勢力を退ける。そのために剣だけでなく学問も修め、国のために働く者を育てたいのだという。
龍馬は仲間の顔を見回した。つい先ほどまで江戸の女の話に食いついていた者たちが、揃って真剣な顔をしていた。
「江戸の様子を聞きたいと思うちょった。おんし、直接黒船を見たがか?」
「ああ。長州の桂小五郎と一緒に……」
「桂だと!」
龍馬は肩を跳ねさせた。普段物静かな男が叫ぶと、こちらの驚きまで倍になる。
半平太は膝を進め、龍馬の顔を覗き込んだ。
「尊皇攘夷を唱える、あの桂殿か。知り合いじゃったのか?」
「まあ、一応、親友というか。吉田松陰いう人にも会うたような……」
「松陰先生にまで!」
会った、は少し違う。
襖の向こうで声を聞いただけだったが、訂正する前に皆の目が集まった。
龍馬はその勢いに押され、つい続きを口にした。
「アメリカへ密航する計画の話を聞いたき」
「そこまで深い話を聞かされちょったがか。おんし、いつの間にそんな大物になったがじゃ」
背中に嫌な汗がにじんだ。仲間たちは感心したように見つめ、以蔵まで目を輝かせている。
こんなことで以蔵の尊敬を取り戻しても嬉しくない。事情を説明したいが、襖の外で盗み聞きして逃げたと白状するのも、今さら格好がつかなかった。
「頼む、龍馬。江戸で聞いた話を、わしらに聞かせてくれ」
半平太に頭を下げられ、龍馬は慌てて止めた。
この男の頼みを無下にはできない。だが、桂たちの会合で何度か耳にした話も、難しいところは聞き流している。皆が期待するほど立派な考えなど、どこを探しても出てこなかった。
「わしも詳しゅうはないぜよ」
「それでも、ここにおる者より江戸を知っちょる」
逃げ道が塞がれた。龍馬は上座へ押し出され、膝の上で手を握った。知っていることだけ話せばよい。そう決めて、記憶に残っている言葉を拾い始めた。
「異国は軍艦で幕府を脅して、無理やり国を開かせたきに。幕府は腰抜け揃いで、怖じ気づいて開国したぜよ」
皆がうなずくので、声に力が入った。江戸で聞いた誰かの言葉が、次々と自分の口から出てくる。
「けんど、帝は開国に反対しておられる。なら、帝のために異人を追い出さにゃならんぜよ!」
歓声が上がり、龍馬はようやく我に返った。言いすぎた。どう追い出すのかも分からないのに、勢いだけで話を締めてしまった。
「龍馬……ようそこまで考えてくれた」
半平太の目が潤んでいた。龍馬は笑顔を引っ込め、膝の上の手を見つめた。
自分は聞きかじりをつないだだけなのに、この男は本気で受け取っている。
女の話を大げさにするのとは、どうも勝手が違うらしかった。
質問が始まれば困る。だが今度こそ、分からないことは分からないと言わねばならない。
龍馬は茶を一口飲み、皆が静まるのを待った。江戸で覚えた柔らかな剣でも、この期待をするりと流すのは難しそうだった。




