第21話 坂本龍馬は土佐に帰る
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「龍馬さま、土佐へお帰りになるのですか?」
佐那の問いに、龍馬はすぐには答えなかった。
帰りたいわけではない。むしろ今となっては、もう少し江戸にいたかった。
「……帰らんといかんと思うちょります」
「やはり……」
佐那の表情がわずかに曇り、龍馬の胸も少し痛んだ。
「もともと江戸へ出てきたんは、剣術修行のためじゃき。一年ほどという話で土佐を出ちょります。その期限が、もう来るがです」
「延ばすことはできないのですか?」
「わし一人で勝手に決められることでもないきに」
土佐藩士である以上、江戸に好きなだけ居続けるわけにはいかない。国元には家族もいるし、龍馬を送り出した日根野道場への義理もある。江戸での修行は期限を定めて許されたものだから、延長するなら改めて話を通す必要があった。
父の八平からも、そろそろ戻るようにとの便りが届いている。年老いた父にいつまでも家のことを任せ、自分だけ江戸で剣を振っているわけにもいかなかった。
少し前までなら、期限が来たのだから帰ればいいと思っていた。だが、今は違う。ここには佐那がいる。江戸へ来た時には、こんな未練ができる予定などなかった。人生とは、計画通りにならないものである。
「一つ、お願いがございます」
佐那が静かに言った。龍馬は少し身構えた。結婚以外なら何なりと。いや、結婚でも場合によっては考える。
「佐那さまのお願いであれば、何なりと」
「出立の前に、私と剣の勝負をしてください」
そっちか。龍馬は少し安心し、少し残念に思った。
嘉永七年五月、ついに小千葉道場を発つ日が来た。
約束通り、龍馬と佐那は最後の立ち合いに臨んでいた。審判は重太郎。道場の門人たちも稽古を止め、二人の勝負を見守っている。
道場の中央で向かい合い、竹刀を構える。一年前、江戸へ来たばかりの頃なら、勝負にもならなかった。だが今は、佐那の足運びも間合い《まあい》も、以前ほど捉えられないものではなくなっている。普段の稽古でも、何度か攻撃をしのいで反撃に持ち込めるようになった。今日なら、初めて勝てるかもしれない。
「はじめ!」
重太郎の声が響くと同時に、佐那が踏み込んだ。
「やあっ!」
意外だった。佐那の得意は後の先。相手の攻撃に応じ、その動きを制して打つのが本来の剣である。それなのに今日は、最初から攻めてきた。
龍馬は足をさばいてかわした。一年前なら身体が固まっていただろう。
今は動ける。そのまま反撃に移ろうとしたが、構え直すより先に二撃目が来た。
竹刀で受けた直後には三撃目、さらに四撃目が迫る。
速い。強い。そして、腹立たしいほど美しい。
龍馬は必死に竹刀を合わせ、受けては流し、足を引いて間合いを取り直した。反撃する暇がない。
今日の佐那は、普段より明らかに強かった。手加減など少しも感じられない。
本気で龍馬を叩き潰しに来ている。最後だからといって、張り切りすぎではないか。
だが、負けたまま土佐へ帰るのも癪だった。
龍馬は守りに回っていた竹刀に力を込めた。技で追いつけないなら、体格と力で押すしかない。
佐那の竹刀を一度、二度と強引に跳ね返すと、攻撃の間隔がほんのわずかに開いた。
「ぜやあっ!」
今だ。龍馬は渾身の面を振り下ろした。
次の瞬間、ぱあん、と乾いた音が道場に響き、頭の芯まで衝撃が抜けた。
「それまで!」
重太郎の声に、龍馬は動きを止めた。自分の竹刀は届いていない。佐那の竹刀だけが、見事に龍馬の面を捉えていた。
完敗だった。ここまで頑張って、最後も負けるのか。締まらない。実に締まらない。
二人は姿勢を正して礼をした。顔を上げると、佐那は竹刀を下ろしたまま、龍馬を見つめていた。
「今日は、私の持っている技と力を、すべてお見せしました」
龍馬は黙って聞いた。
「以前、坂本さまは、柔の技を学べるのはここだけだとおっしゃいましたね」
「覚えちょったがですか」
「覚えています」
龍馬としては、佐那と話す口実半分、褒め言葉半分で言ったことだった。
それを、彼女は覚えていたらしい。
「私が坂本さまにお教えできることは、これで全てです」
佐那は一度息を整え、言葉を続けた。
「けれど、あなたはまだまだ未熟です。剣術を極めたいのであれば、再び江戸へ来て修行してください」
「佐那さま……」
「千葉道場は、あなたをお待ちしております」
龍馬には分かった。剣の話をしているが、それだけではない。戻ってきてほしいと、そう言っているのだ。
叩きのめしておけば、悔しくなって江戸へ戻ってくるとでも思ったのだろうか。実際、かなり悔しい。そして、それ以上にいじらしかった。やっぱり残ればよかったかもしれない。
「坂本」
上座から、定吉の声がした。
「君が望むなら、再びここで修行できるよう、日根野道場と父上へ手紙をしたためておいた。いずれまた会おう」
龍馬は思わず定吉を見た。その一言で、再び江戸へ来る道が現実味を帯びた。
「ありがとうございます。いったん土佐へ戻って、家や道場へ挨拶を済ませたら、もう一度、江戸修行を願い出てみますき」
今度の言葉には、龍馬なりの本気があった。ただ、顔を上げると、定吉が妙に鋭い目でこちらを見ている。気のせいだろうか。いや、たぶん気づいている。佐那への気持ちを、どこまで見抜かれているのだろう。
龍馬の背に冷たい汗が流れた。やっぱり、一度帰るのは正解かもしれない。
こうして龍馬は、小千葉道場を後にした。
江戸が嫌になったわけではない。定められた修行期間を終え、いったん土佐へ戻るだけだ。家族に顔を見せ、日根野道場へ修行の成果を報告し、その上で再び江戸へ出る許しを得る。龍馬自身は、そのつもりだった。
剣を極めたいし、佐那ともまた会いたい。だが、その願い通りに人生が進むかどうかは、まだ分からない。二十歳の龍馬にとって、数年先ですら遠い未来だった。
そして嘉永七年六月末、坂本龍馬は、およそ一年ぶりに土佐へ帰国した。
懐かしい山並みも、町も、家族も、龍馬を迎えてくれた。けれど、江戸へ出る前とは、どこか空気が違っていた。
黒船が来て、幕府が異国と条約を結んだ。海の向こうから迫る脅威を前に、武士たちは国の行く末を語り始めている。土佐にもまた、天皇を尊び、外国勢力を退けようとする尊皇攘夷の風が吹き始めていた。




