第20話 坂本龍馬は佐那と結ばれる
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「龍馬さま……」
千葉佐那が坂本龍馬の胸へ顔を埋め、小さな声で名前を呼んだ。その瞬間、龍馬の頭の中で何かが弾けた。
来た。ついに来た。とうとう、この時が来た。
あの鬼小町、千葉佐那が自分の腕の中にいる。最初は軽口を叩くだけで睨まれ、褒めれば怒られ、近づけば距離を取られた。それを一年近くかけて、ようやくここまで来たのである。龍馬としては破格の長期戦だった。
江戸へ来てからは以前のように遊び歩くことも減り、佐那を口説くことに妙な情熱まで注いできた。剣術修行と恋愛修行。どちらが本業だったのかは、本人にも少し怪しい。
「佐那さま。わしは、もう気持ちを抑えられん。佐那さまが好きでたまらんきに」
「はい……私も覚悟できています」
佐那は顔を上げた。頬を赤くしながら、それでも龍馬から目をそらさない。
「私も……龍馬さまを好いております」
龍馬は息を呑んだ。あれほど冷たかった佐那が、何度も口が軽いと叱った佐那が、今、自分を好きだと言った。もう無理である。辛抱などできるはずがない。
その夜のことを、龍馬は後になっても細かく人に語ろうとはしなかった。珍しく、それくらいは大切に胸へしまっておきたかったのである。
嘉永七年三月。小千葉道場では、いつものように竹刀の音が響いていた。
龍馬は稽古の合間に面を外し、手拭いで汗をぬぐった。江戸の町は、再び黒船の話でもちきりだった。前年にいったん去ったペリーが約束通り戻り、今度はさらに多くの艦船を率いて江戸湾へ姿を現したのである。
幕府は交渉を重ね、ついにアメリカとの間で日米和親条約を結んだ。これによって、長く異国船を遠ざけてきた日本の方針は大きく変わることになる。
下田と箱館をアメリカ船の寄港地として開き、薪や水、食料などを供給する。漂流したアメリカ人を保護し、さらに、のちには下田へアメリカ領事を置くことも認めるという。
町でその話を聞いた時、龍馬にもさすがに意味は分かった。追い返したわけではない。龍馬には、日本の方が一歩譲ったように思えた。
瓦版を片手に幕府を罵る者もいれば、戦にならなかっただけましだと言う者もいた。攘夷を唱える侍たちは、異国に屈したと憤っているらしい。茶屋でも飯屋でも、今や誰もが天下国家を語っている。
ずいぶん大変なことになったものだ。とは思う。思うのだが――今の龍馬の頭の半分以上は佐那で占められていた。
天下は異国へ門を開き始めている。龍馬の頭はお花畑へ向かっている。実に平和である。本人だけは。
しかも騒ぎはそれだけではなかった。桂小五郎から、さらに驚く話を聞かされたばかりだった。
吉田松陰が、再び来航したアメリカ艦へ乗り込み、アメリカへ渡ろうとしたというのである。名前を聞いた瞬間、龍馬は思い出した。佐久間象山の屋敷で聞いてしまった、あの密航話だ。
松陰は弟子の金子重之輔とともに、夜陰に紛れて小舟を出したらしい。アメリカ艦へ直接乗り込み、アメリカへ連れていってくれと頼む。普通なら思いつくだけで終わる。この男は本当に実行した。
しかし、アメリカ側も幕府との交渉中に密航者を連れていくわけにはいかなかった。願いは拒まれ、松陰たちは岸へ戻ることになった。しかも密航を企てた以上、このまま逃げても仕方がないと考え、自ら役所へ出頭したという。
龍馬はその話を聞いた時、本気で頭を抱えた。あの男、本当にやったのか。桂があれだけ止めていたのに。しかも失敗して、自分から名乗り出たのか。
行動力があるにもほどがある。
そして何より恐ろしいのは、龍馬自身がその計画を事前に聞いてしまっていたことである。あの時、佐久間邸から逃げ帰った判断は正しかった。間違いなく正しかった。知らぬ存ぜぬが一番である。
「坂本君」
声をかけられ、龍馬は現実へ引き戻された。千葉重太郎である。
「近頃は佐那も坂本君と仲良くやっているようで、良かったよ」
龍馬の肩が跳ねた。
「ソ……ソンナコトハナイデスヨ、重太郎先生」
「どうしたんだ。急にしゃべり方がおかしいぞ」
「気のせいぜよ」
危ない。どこまで知っている。まさか全部知っているのではあるまいな。
「いやあ、あいつは昔から愛想がなくてね。このままでは嫁の行き手もないんじゃないかと心配していたんだ。近頃はずいぶん明るくなった。気さくな坂本君の影響だろう」
「ソ……ソレハドウモ」
まだしゃべり方がおかしい。落ち着け、龍馬。
「それに坂本君自身も、ずいぶん腕を上げた。そろそろ佐那にも勝てるんじゃないか?」
「いやあ、まだまだぜよ」
それは謙遜ではなかった。佐久間塾を退いてからは、再び剣術修行へ力を入れている。練兵館との縁もあるため桂とは時折会っていたが、生活の中心は小千葉道場だった。
確かに以前より強くなった自覚はある。一年近く稽古して強くなっていなければ、さすがに泣きたい。
「もうすぐ、わしの江戸修行の期限も終わりますきに……」
口にしてから、龍馬は少し寂しくなった。土佐へ帰る。それは最初から決まっていたことだ。だが今は、江戸に置いていくものが増えすぎた。
特に佐那である。
女好きの龍馬ともあろう者が、一人の女との別れを惜しんでいる。なんということだ。罪作りな女である。まあ、百人に聞けば、百人が百人とも龍馬の方が罪作りだと言うだろうが。
「修行期間を延ばしてもらうわけにはいかないのか?」
重太郎が何気なく言った。
「君なら、あと何年か修行すれば北辰一刀流の免許皆伝も狙えるかもしれない」
「延長、ですか……」
考えたことがないわけではなかった。もう少し江戸で剣を学びたい。佐那とも離れたくない。悪くない。いや、かなり魅力的だ。
「そうなれば、いずれ佐那と夫婦になって、この道場を任せるという話だって――」
「ぶほっ!」
龍馬は盛大にむせた。
「どうした?」
「い、いや、なんでもないぜよ!」
待て。今、何と言った。夫婦? 道場を任せる?
話が急に飛びすぎている。龍馬の頭の中では、まだ佐那との仲をどう隠すかという段階だった。兄の重太郎は、その先まで考えている。何だこれ。もしかして人生の退路を塞がれているのではないか。
「これは佐那本人には言ってないんだがね」
重太郎は声を少し落とした。
「佐那は間違いなく君に惚れている。兄としては、妹の恋路を応援したいんだよ。坂本君、私は君を見込んでいる」
龍馬は笑顔を固めた。
そこまでは知らないのか。妹さんの恋路なら、もうかなり先まで進んでおります。だから応援しなくていい。むしろ何もしないでくれ。
「い、いやあ、師匠のご息女など、わしには荷が重すぎますき。わしは田舎へ帰って、小さな道場でも開ければ万々歳という男ぜよ」
「残念だな。まあ、すぐに答えを出す必要はない。考えておいてくれたまえ」
重太郎は機嫌よく去っていった。
残された龍馬は、その背中を黙って見送った。汗が一筋、頬を流れる。
稽古の汗なのか、冷や汗なのか分からない。
黒船。和親条約。松陰の密航。帰国。佐那。結婚。道場。いろいろ一度に来すぎである。
龍馬は深く息を吐いた。天下も大変らしいが、自分の人生もなかなか大変だった。




