第19話 坂本龍馬は佐久間象山の塾で砲術を学ぶ
坂本龍馬は、江戸の宿で父の坂本八平へ手紙を書いていた。
黒船が現れて以来、町では異国の話ばかり聞こえてくる。せっかく剣術修行に送り出してもらったのだ。ここで怖い、帰りたいと書いては、何のために江戸まで来たのか分からない。
もし戦になれば、自分も加わり、異国人の首を取って土佐へ帰る。
そう書くと、なかなか立派な武士になった気がした。実際に大砲を向けられても同じことが言えるかは別として、手紙の上なら少々勇ましくても困らない。
異国を追い払わねばならないという気持ちはある。
ただ、剣を磨けばいいのか、大砲を覚えればいいのか、それが分からない。
そもそもアメリカがどこにあるのかも怪しかったが、そこは父へ知らせずにおいた。
嘉永六年十二月、龍馬は佐久間象山の塾へ通っていた。
長州、熊本、佐賀の藩士たちが攘夷、つまり異国勢力を退ける方策を論じた会合で、桂小五郎から砲術を勧められたのだ。
他の者まで賛成するので断りそびれ、父へ勇ましい手紙を書いた手前、知らぬままでよいとも言いにくかった。
「おまんが砲術の勉強とはのう。雪でも降るんじゃないか」
「十二月に雪が降って、何がおかしいぜよ」
帰り道で笑う溝渕広之丞に、龍馬は言い返した。
同じ土佐藩士でも、溝渕は砲術を学ぶために江戸へ来ている。
火薬や弾道の話になると先輩面をするのが腹立たしいが、ちゃんと詳しいので、なお腹立たしい。
象山の講義は、龍馬には難しすぎた。
説明の途中で分からなくなり、ようやく筆を動かす頃には答えが出ている。
剣なら打たれれば間違いに気づくが、学問では、どこで打たれたのかすら分からない。
その時、道の先に見覚えのある顔を見つけた。
「あ、佐那さまではないですか!」
千葉佐那だった。いつもの稽古着に袴という姿ではなく、今日は外出用の着物姿だった。
龍馬は声をかけたくせに、その先の言葉を忘れた。道場では凛々しい人なのに、こうして見ると、ひどく柔らかな顔立ちに見える。
「さ、坂本さま……どうしてこちらへ?」
「佐久間先生の塾で、勉学に励んだ帰りですき。こちらは同輩の溝渕広之丞。溝渕さん、千葉定吉先生のご息女、佐那子さまぜよ」
「ああ、あの鬼小町……いや、失礼しました」
龍馬は溝渕を睨んだ。本人を前にして言う奴があるか。
佐那が竹刀を持っていなくてよかった。もっとも、素手でも安心はできない人だった。
佐那は目を伏せ、歯切れの悪い挨拶を返した。頬も少し赤い。着物姿を見られて恥ずかしいのだろうと、龍馬は都合よく受け取った。
「普段のお姿もえいですけんど、今日はまっこと美しいですき。惚れ直してしまうぜよ」
「な、何をおっしゃるのです! 前々から口が軽すぎます。少しはご自重なさい!」
「美しいものを、美しいと言うただけじゃき」
「もう知りません!」
佐那は足早に立ち去った。
怒らせたかもしれないが、あの赤い頬には手応えがあった気もする。龍馬がその背を見送っていると、横から低い声がした。
「龍馬、おまんはいっぺん死ね」
「何でそうなるがじゃ」
溝渕は答えず、さっさと歩き出した。
ひがみだろう、と龍馬は決めた。自分は昔から女には妙にもてる。
理由は分からないが、分からぬままでも困らないことは、世の中にちゃんとある。
年が明けて嘉永七年一月になっても、象山の講義は分からなかった。
龍馬は書き損じた箇所だらけの紙を眺め、隣の溝渕を見た。
昔から格別利口そうには見えなかったのに、なぜこの男だけ涼しい顔をしているのか。
「おまん、今の話が全部分かったがか?」
「講義だけで分かるわけなかろう。帰って書物と照らし合わせて、分かるまで調べるがじゃ」
龍馬は口を閉じた。
講義を聞けば覚えられるものだと思っていたが、溝渕は帰ってからも勉強しているらしい。
自分が剣の型を繰り返すのと同じだと気づくと、さすがに相手を馬鹿にはできなかった。
とはいえ、自分の本業は剣術である。
砲術まで同じだけ励めなくても仕方ない。
そう納得しかけて、月謝のことを思い出した。
分からぬ講義に金を払い続けるのは、どう考えても惜しい。龍馬は退塾を決めた。
後日、龍馬は象山の自宅を訪ねた。
当面は剣術に専念したいと申し上げれば、角も立つまい。
案内された部屋の襖へ手をかけたところで、中から桂の声が響いた。
「松陰先生、考え直してください! 海外へ密航など、幕府に知られれば死罪です!」
龍馬の手が止まった。
密航とは、許しを得ず海の外へ渡ることだろう。退塾の
挨拶に来ただけなのに、なぜいきなり死罪の話になっているのか。
「僕にはアメリカへ渡り、海外の知識を日本へ持ち帰る使命があります。死は恐れません。死を恐れて何もできぬことこそ、恐れるのです!」
知らない男の声だった。桂が松陰と呼んだのは、この男らしい。
海の向こうを見たいという話には龍馬も興味を引かれたが、命まで差し出す相談となると、途端についていけなくなる。
「私は吉田君の意思を尊重するぞ。反対したところで、聞く男でもあるまい」
象山も、止めるつもりはないらしかった。桂がさらに声を張る。
「ですが、企てが知られれば、未遂でも死罪になりかねません!」
「計画を話したことは申し訳なく思います。聞いただけでも、共謀を疑われるかもしれん。ですが、僕の思いを分かってほしかったのです」
龍馬の顔から血の気が引いた。
聞いただけでも罪になるなら、襖の前にいる自分はどうなる。
そんな話は、せめて声を落としてもらいたい。こちらは聞きたいと頼んだ覚えさえない。
そっと手を離し、玄関へ戻った。
呼び止められぬよう足音を殺し、外へ出てから歩調を速める。
月謝も惜しいが、命はもっと惜しかった。
外国を知るにも、ずいぶん物騒な道があるらしい。
龍馬は父へ書いた勇ましい手紙を思い出した。
まずは生きて土佐へ帰らねば、首を取るどころではない。退塾の挨拶は手紙で済ませようと決め、角を曲がってから、ようやく息をついた。




