第18話 坂本龍馬は桂小五郎と親友になる
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佐那の竹刀が、龍馬の打ち込みをするりと逃れた。
打ち込みが空を切り、腕を引くより早く小手を打たれる。小千葉道場へ来てから幾度も味わっている負け方だが、分かっていても腕が残るのだから始末が悪い。
「また力が入りましたね」
「今度こそ、と思うたがですけんど」
龍馬は手首を振り、向かいに立つ千葉佐那を見た。
こちらは息が上がっているのに、佐那の構えには乱れがない。涼しい顔をされると悔しいが、その顔を見るために稽古を頼んだところもあるので、あまり文句は言えなかった。
江戸には強い者が多すぎる。玄武館、練兵館、士学館という三大道場には国中の腕自慢が集まり、出稽古に行けば、次から次へと面倒な相手が出てくる。
とりわけ練兵館の桂小五郎には、動こうとする先をことごとく潰された。思い出すだけでも、もう一度挑みたくなるほど腹立たしい。
もっとも、龍馬が通う小千葉道場も負けてはいない。
玄武館を開いた千葉周作の弟、定吉の剣は剛柔を備え、その息子の重太郎も十分に強い。
ただ、桂を見たあとでは、つい比べてしまう。重太郎に落ち度はないのだが、あの男を物差しにすると、たいていの者が損をする。
佐那の剣で龍馬が学びたいのは、その柔らかさだった。
道場で最も強いわけではないし、力や体格、長い稽古での粘りでは男たちに及ばない。それでも、相手の竹刀を流し、身体をわずかにずらして打ち返す技は、時に定吉より鮮やかにさえ見えた。
「坂本さまは私の技ばかり真似ていては、女の剣だと言われてしまいますよ」
「剛の剣は土佐でも学べますけんど、佐那さまほどの柔の技は、ここでしか学べんきに」
「そうですか」
返事は短い。それでも、以前ならここで背を向けられていたのが、今日はまだ向かいに立っている。
龍馬としては、このわずかな違いを大いに評価したかった。
日根野弁治の道場で学んだ頃は、踏み込んで打つことばかり考えていた。
今は相手の動きを見て、流し、角度を変えることを覚えつつある。つまり、佐那との稽古は確かに役に立っているのだ。
美人と向き合えて剣も上達するのだから、これほど勤勉になれる修行はなかなかない。
「佐那さま。桂小五郎いう男をご存じですか」
「練兵館の桂殿ですか。幾度か伺った折に、お見かけしました」
「あの人の剣を、どう思われますろう」
「剣筋までは拝見していません。ただ、堂々とした好男子という印象でした」
龍馬は竹刀を握り直した。剣の話をしたつもりが、顔の話になっている。
強くて、頭もよくて、そのうえ佐那にまで好男子と覚えられているとは、桂も少しは遠慮すべきではないか。
「佐那さまも、ああいう男前がお好みですか。いやあ、悔しいのう」
「べ、別に、そういう目で殿方を見たことはありません。それに坂本さまが悔しがるのも筋違いです」
「いや、ちょっと聞いてみただけで」
「知りません」
佐那は顔を背け、道場の向こうへ歩いていった。
少し頬が赤かったように見えたが、怒らせたのだろうか。龍馬はその背中を見送りながら、いや、照れたとも考えられる、と都合のよい方へ考え直した。
もしかすると、自分を男として意識し始めたのかもしれない。
そう思えば、さっきの言葉にも別の意味がありそうだった。確かめる手立てはないが、確かめなければ、しばらくはよい気分でいられる。
「坂本君。何を一人でにやにやしているのだね」
背後から重太郎の声がして、龍馬は慌てて口元を引き締めた。師の妹を眺めていたとは、さすがに言いにくい。
「先ほどの稽古を思い返しよったがです。技の工夫を少々」
「それは結構だ。最近は練兵館へよく行くと聞いたのでね。うちに飽きたのかと心配していた」
「とんでもありません。ここは江戸で一番の道場ですき」
勢いよく答えたあとで、龍馬は胸を張った。
少なくとも、自分にとっては間違いない。佐那がいることも道場の立派な長所であって、わざわざ分けて考える必要はなかった。
「練兵館へ通うとは、君も憂国の士というわけか」
「憂国の士、ですか」
「国の行く末を案じる者ということだよ。黒船以来、幕府も海防について広く意見を求めている。侍たちが盛んに政治を論じるようになったのも、そのためだ」
「国を心配する気持ちはありますけんど、難しいことはまだよう分かりません。練兵館へは、桂さんと親しゅうしておりますきに」
つい先ほど気に入らぬと思った男を、今度は親しい友として持ち出していた。
桂の了承を得たわけではないが、稽古をつけてもらう仲なのだから、まるきり嘘でもあるまい。重太郎はうなずき、それ以上は聞かなかった。
龍馬も、道場や茶屋で海防だの攘夷だのという言葉を耳にしていた。しかし、今日も稽古はできるし、腹が減れば飯も食える。黒船の騒ぎもいずれ収まるだろうという気分は抜けず、今は佐那の赤くなった頬の方が、よほど考えがいのある問題だった。
後日、その桂から異国問題を語り合う席へ誘われたとき、龍馬は一度断りかけた。
ところが、ぜひ皆に会ってほしいと勧められるうち、少し悪い考えが浮かんだ。
剣では散々な目に遭わされたのだから、難しい話の席で間の抜けたことを言い、こんな男を連れてきた桂にも恥をかかせてやればよい。
我ながら小さな仕返しだったが、勝ち目のない竹刀勝負を繰り返すよりは望みがある。
そう算段して連れられてきた料亭では、すでに長州、熊本、佐賀の藩士たちが膝を突き合わせていた。座敷へ入るなり砲台の話が聞こえ、龍馬は早くも帰りたくなった。
「こちらは土佐藩の坂本龍馬さんです。剣ばかりでなく、国の行く末にも関心を持たれておる」
桂の紹介に、龍馬は思わず隣を見た。国の行く末が心配でないわけではないが、人前で紹介されるほど立派な心配ではない。
そこで訂正しては話が長くなりそうなので、ひとまず頭を下げた。
「坂本龍馬と申します。どうぞ、よろしゅうお願いいたします」
席に着くと、すぐに議論が再開された。
異国船をどこで防ぐか、砲台をどう備えるか、幕府は何をするべきか。龍馬はしばらく真面目な顔で聞いていたが、知らない言葉を一つ考えている間に、話が二つ先へ進んでしまう。
これなら無理に馬鹿なふりをする必要もなさそうだった。
適当に相槌を打ち、話の切れ目を待って口を挟む。桂を困らせるつもりで来たのだから、黙って帰るのも惜しい。
「つまり、異国船が来たら、全部追い返せばえいがでしょう」
「そのための砲台と軍備を、いかに整えるかという話です」
「ほんなら、大砲をようけ並べたらえい」
言ってから、龍馬はそっと桂の顔をうかがった。
いくら何でも今のはひどい。話を聞いていなかったのが丸分かりで、連れてきた方も困るはずだった。
ところが、向かいの藩士は顎に手を当てたまま、うなずいた。
「単純ではあるが、まず数をそろえよというのは本質ですな」
「坂本君のように、話を大きく捉え直す発想も必要だ」
龍馬は曖昧に笑って茶を飲んだ。何も考えずに言ったことへ、勝手に考えを足されている。
ひょっとしてこの座敷には物事を難しく考えすぎる者ばかり集まっているのではないかと思ったが、そういう者に限って、こちらよりずっと学がありそうなのが困る。
このままでは桂に恥をかかせるどころか、自分まで仲間に入れられかねない。
龍馬は飛び交う言葉の中から砲術を拾い、ようやく知っている話へ持ち込んだ。政治の話より馬鹿話を好む男だと分かれば、次からは誘われまい。
「砲術いうたら、藩邸で一緒に暮らしゆう溝渕広之丞いう人がおりましてな。これが、なかなか面白い御仁で」
龍馬は溝渕の失敗談を語り始めた。真面目な顔つきを真似、肝心なところで間を置き、手振りを添える。こちらは砲台の数と違って、誰がどこまで話についてきているか、顔を見ればおおよそ分かった。
最後を落とすと、座敷に笑いが広がった。龍馬も笑いながら、胸の内で溝渕に礼を言った。本人のいないところで随分働いてもらったが、これで政治談議には向かない男だと伝わっただろう。
「いや、坂本君は話がうまい」
熊本藩士の一人が膝を打った。龍馬が愛想よく頭を下げかけると、その男は真顔で言葉を続けた。
「国事を論ずるにも話術は要る。人を動かすには、まず話を聞いてもらわねばならん。君のような者がいると心強い」
頭を下げた姿勢のまま、龍馬は少し止まった。馬鹿話まで国の役に立つことにされては、もう何を話してよいのか分からない。
黙れば思慮深いと褒められそうで、それも落ち着かなかった。
「溝渕殿といえば、佐久間象山先生の塾で学んでおられるのでしょう」
今度は佐賀藩士が身を乗り出した。龍馬がうなずくと、ちょうど象山の話をしようとしていたところだという。
せっかく遠ざけたつもりの学問が、溝渕を連れて戻ってきてしまった。
象山の名なら龍馬も聞いていた。砲術や兵学に通じた、名高い学者だという。
ただし、名を知っていることと、その塾へ通いたいことの間には、かなりの隔たりがある。
「坂本さんも一度、先生の話を聞いてみてはどうですか」
「いや、わしは剣の修行がありますき」
「砲術を知れば、異国への備えも考えやすくなるでしょう。剣の修行と両方学べばええ」
「けんど、学問の方はどうにも」
「最初から知っておるなら、習う必要はありません。紹介できる者もいますけえ」
桂は穏やかな顔を崩さなかった。龍馬には親切なのか、からかわれているのか、さっぱり見分けがつかない。ただ、こちらが逃げようとする先を丁寧に塞ぐところだけは、あの剣とまったく同じだった。
父への手紙には、異国人の首を取るなどと威勢のよいことを書いた。その自分が、異国に備える勉強は嫌だと言うのも格好がつかない。誰も手紙のことなど持ち出していないのに、自分で自分の退路まで狭めている。
「……まずは、お話を伺うだけなら」
ようやくそう答えると、桂はすぐに紹介の段取りを話し始めた。いつの間にか砲術を学ぶ話まで進み、龍馬は相槌を打ちながら、自分の失敗をようやく認めた。人をけむに巻くつもりで煙を焚いたら、自分だけ出口を見失ったらしい。
座敷では再び攘夷の議論が始まっていた。龍馬は茶碗を取り上げ、今度は少しだけ耳を傾けた。どうせ象山のところへ行かされるのなら、大砲を並べれば済む話なのか、そこくらいは聞いてみてもよい。
しかし、桂への仕返しを思いついた時点では、勉強が増える予定などなかった。次にこの男から誘われたら、まず行き先を確かめよう。龍馬はそう決めてから、もう決まってしまった塾への道順を、おとなしく尋ねた。




