第16話 坂本龍馬は鬼小町と剣の稽古をする
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嘉永六年八月。黒船騒動から二か月ほどが過ぎても、江戸のざわめきは収まらなかった。
坂本龍馬のもとへ話を運んでくるのは、小千葉道場へ通う諸藩の藩士たちだった。水戸、薩摩、長州――国元も役目も違う門人が集まれば、それぞれの藩邸で聞いた話が自然と道場へ流れ込んでくる。
さらに町へ出れば、日本橋や神田では瓦版が売られ、飯屋や茶屋では商人たちが黒船の噂をしゃべっている。土佐藩邸へ顔を出せば、幕府から伝わった話を江戸詰の藩士から聞くこともできた。江戸にいるだけで、龍馬の耳には天下の情報が勝手に飛び込んできた。
六月、浦賀沖へ現れたのは四隻の異国船だった。そのうち二隻は黒い船体から煙を吐き、風がなくとも進む蒸気船だった。見物人が海辺へ押しかけ、江戸中がひっくり返ったような騒ぎになったという。
率いていたのはペリーというアメリカ人である。幕府はアメリカ大統領から将軍へ宛てた国書を受け取った。
それだけでも十分なのに、今度は長崎へロシア船が来たという話を、道場の門人から聞いた。
次から次へと、よう来る。異国人には順番というものがないらしい。
六月には第十二代将軍徳川家慶が死去した。将軍が亡くなったところへ異国船が押し寄せる。幕府にとっては、泣きたくなるような夏である。
さらに藩邸では、幕府が黒船への対処について諸大名へ意見を求めているという話まで出ていた。町では学者や僧侶、商人、職人まで海防や異国について語っている。
少し前まで天下のことは幕府と大名が決めるものだった。それが今では飯屋の親父まで国を論じる。
まっこと妙な時代になった。
品川沖では台場の建造が始まり、幕府では海防強化の動きが急速に進んでいた。薩摩藩が早くも洋式の船造りへ動いているという話も、諸藩の門人から伝わってきた。
龍馬は聞けば聞くほど胸が騒いだ。黒船が四隻来ただけで、天下の決まりまで動き始めている。
剣の間合いどころではない。
どうやら今、日本そのものの間合いが変わろうとしていた。
龍馬はいろんな意味で、忙しかった。
江戸へ剣術修行に出てきた以上、遊んで帰るわけにはいかない。土佐の家族、とりわけ姉の乙女にそんなことが知れれば、帰国したその日に木刀で叩き直されるだろう。
だから剣術は本気でやる。これは当然である。
そして龍馬には、もう一つ大きな目標があった。
千葉佐那である。
こちらも本気だった。たぶん。
小千葉道場の板張りの床で、龍馬は竹刀を握り直した。向かいに立つ佐那は、涼しい顔をしている。対する龍馬は肩で息をしていた。
何度打ち込んでも届かない。こちらが面を狙えばかわされ、胴へ変えれば先に小手を取られる。しかも速い。
悔しいが、見事だった。
「いやー、佐那さまはお強い。全然かなわんぜよ」
「まだ足が止まっています。打つ前に相手へ教えているようなものです」
「そこまで分かるがか」
「分かります」
「恐ろしいのう」
「鬼小町ですから」
少し拗ねたような感じで答える。
以前なら、ここで会話は終わっていた。佐那は必要なことだけ言い、龍馬が余計なことを言えば、冷たい目が飛んできたものだ。
ところが最近は違う。
龍馬が兄の千葉重太郎と親しくなったこともあり、稽古の合間に他愛のない話をすることが増えていた。笑うこともある。本当に少しだけだが。
これは進歩である。剣術より進歩しているかもしれない。
いや、それはそれで困る。
「鬼小町いう名は、案外よう合うちょりますぜよ」
「褒めているのですか?」
「もちろんじゃ。剣は鬼ほど強うて、顔は小町ほど美しい。これほど見事な名もないぜよ」
佐那の眉が、わずかに寄った。
「そういう軽々しい言葉は慎んだ方が良いと思われます」
「軽々しゅうない。心からの言葉じゃが」
「なお悪いです」
「なんでじゃ」
龍馬には分からない。
女を褒めた。怒られた。どういう理屈だ。
姉の乙女なら、余計なことを考える前に木刀が飛んでくるので分かりやすい。佐那は言葉で斬ってくるから、かえって始末が悪かった。
重太郎の妹とは思えぬほど堅い。いや、兄が柔らかすぎるのかもしれない。
それでも以前のような本気の拒絶ではない。少し呆れ、少し怒り、それでも会話を続けてくれる。
龍馬には、それだけで十分だった。
少なくとも嫌われてはいない。たぶん。おそらく。そう信じたい。
もっとも、佐那の気を引くためだけに剣を振っているわけではなかった。
小千葉道場の稽古は本当に面白い。竹刀を交えれば、自分の未熟さが嫌でも見える。足運び一つ、間合い一つで勝負が変わる。力任せでは届かない相手へ、どうすれば一歩踏み込めるのか。
考え、試し、失敗する。そして時々、うまくいく。
その瞬間がたまらなかった。
「もう一本、頼むぜよ」
龍馬が構えると、佐那も静かに竹刀を上げた。
「今度は先ほどより長く持たせてください」
「目標が低すぎんか?」
「では一本取ってください」
「急に高すぎるぜよ!」
佐那の口元がわずかに緩んだ。
笑った。今、確かに笑った。
龍馬は見逃さなかった。
よし。今日の稽古はすでに半分勝ったようなものである。
剣ではまだ一度も勝っていないが。
龍馬は竹刀を肩へ担ぎながら考えた。
海の向こうから巨大な船が来て、国中が大騒ぎになっている。その一方で、自分は佐那から一本取ることに必死だ。
ずいぶん小さい話に思える。
だが龍馬には、妙に引っかかるものがあった。
剣も国も、相手を知らずに勝てるものではない。強い相手がいるなら、その強さを見なければならない。
そこで、一人の男が頭に浮かんだ。
桂小五郎。
長州藩士で、江戸でも名の知られた剣術家だ。練兵館で腕を磨き、その実力は相当なものだという。
以前から気になっていた。いったい、どんな剣を使うのか。どれほど強いのか。
直接見てみたい。
もちろん、佐那との稽古に不満があるわけではない。むしろ逆だ。佐那に勝つためにも、いろいろな剣を知りたかった。
ついでに桂という男にも興味がある。黒船で世の中が揺れている今、長州の若侍が何を考えているのかも聞いてみたい。
龍馬は一人でうなずいた。
よし。練兵館へ行こう。
他流を見るのも修行である。決して佐那に勝つための悪あがきではない。ましてや、練兵館に美人がおらんかなどとは考えていない。
少ししか。
龍馬は竹刀を抱え直した。
剣を極める。佐那を口説く。ついでに、この騒がしい天下がどこへ向かうのかも見ておく。
嘉永六年の夏。
坂本龍馬の予定は、ますます忙しくなりそうだった。




