第15話 俺と土佐藩士と品川を警備する
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浦賀から江戸へ戻ると、龍馬は真っ先に小千葉道場へ向かった。
四日ほど稽古を休んでいたのだ。それに、佐那子の顔も見たい。どちらが主目的かは、あえて考えない。
「佐那子さん、戻ったぜよ」
「坂本さまは、まず御旅行の垢を落としてから来たらいかがでしょうか」
佐那子は一歩下がり、そのまま逃げるように去った。
龍馬は自分の袖を嗅いだ。旅帰りである。汗。埃。海風。かなり混ざっている。
臭い。これは逃げられる。
せっかく会いに来たのに、第一声で退却された。どうしてこう裏目に出るのか。
代わりに寄ってきたのが千葉重太郎だった。
「坂本君、黒船はどうでした?」
「大きゅうて、まっこと凄かったぜよ。そうじゃ、土産もある」
龍馬は懐から包みを出した。
「黒船饅頭ぜよ」
「そんな物まで売っちゅうがか」
「昨日まで普通の饅頭じゃったらしい」
「それで売れるんですか」
「売れゆう。まあ、商売いうもんはそういうもんぜよ」
浦賀は黒船騒ぎで大勢の見物人が押しかけ、半ば祭りのような騒ぎになっていた。
黒船の名をつけた品まで売られている。幕府は頭を抱えているだろうが、商人には商機である。
毎年黒船が来れば景気が良くなるかもしれない。いや、国としては困る。かなり困る。
「しかし、まだ帰っていないようですね」
重太郎の顔が少し曇った。
黒船は浦賀沖に現れてから何日も留まり、幕府は対応に追われていた。
江戸城と浦賀の間を早馬が何度も往復し、沿岸の各藩にも警戒が命じられている。
町では、異国と戦になるのではないかという噂まで広がり始めていた。
龍馬が土佐藩中屋敷へ戻ると、溝渕広之丞が血相を変えて駆け寄ってきた。
「おい龍馬! どこへ行っちょったんじゃ。藩命じゃ、藩命!」
「なんですかの、溝渕さん」
「品川の海岸を警備するんじゃ。黒船と戦になるかもしれん!」
戦。その一言で、龍馬の背筋が伸びた。
桂小五郎の言っていたことは本当だったのか。
てっきり少し心配性な男だと思っていた。
すまない、桂。心の中で勝手に妄想癖扱いしていた。
だが、すぐに別の問題が浮かんだ。
戦支度をしろと言われても、何を持っていけばいい。
龍馬だけではなかった。
江戸詰めの土佐藩士たちの多くも、本格的な武具など常に持ち歩いてはいない。
慌てて質屋や古道具屋へ駆け込み、鎧や兜を買い集める者が続出した。
江戸中で同じことが起こっていた。
黒船一つで、眠っていた鎧兜が一斉に売れ始めたのである。
商人だけは動きが早い。戦より先に値段が上がった。
龍馬もどうにか装備を整え、土佐藩士たちと品川へ向かった。
品川へ着いた龍馬は、最初こそ興奮していた。
いよいよ黒船が来る。大砲を撃ち込まれるかもしれない。ここで自分が戦うことになるかもしれない。
ところが、一日経った。来ない。二日経った。やっぱり来ない。
浦賀方面を睨んでも、黒船など見えない。そもそも遠すぎる。龍馬はだんだん飽きてきた。
「龍馬、欠伸するなや」
「いや、退屈じゃき」
「警備中じゃぞ」
「黒船は四隻ばあじゃったぜよ。戦になっても浦賀で何とかするろう」
品川まで攻め込んでくるとは思えない。少なくとも龍馬にはそう見えた。
実際には、龍馬が浦賀から江戸へ戻る途中、黒船はさらに江戸湾内へ進み、測量まで始めていた。
それにより江戸中が緊張し、沿岸警備は一気に厳しくなっていた。
だが龍馬本人は、その一番騒がしいところを見ていない。
何とも間が悪い。珍しい黒船は見られた。だが江戸がひっくり返るような混乱は、ちょうど見逃した。
結局、品川でひたすら海を睨むだけの警備は数日で終わった。黒船の艦隊は去っていったらしい。
「なんや、取り越し苦労じゃったかの」
溝渕が肩を落とした。
幕府は久里浜でアメリカ側の国書を受け取り、ペリーは翌年に返答を求めると告げ、日本を離れたという。戦にはならなかった。
龍馬は少し拍子抜けした。あれだけ大騒ぎして、結局帰ったのか。
黒船は確かに大きく、強そうだった。だが日本中を相手に四隻で戦うというのも無茶に思える。
もっとも、幕府のやり方を大声で批判する気はない。
幕政を大声で批判すれば、下手をすると身を滅ぼす。その程度の分別は龍馬にもあった。
「この鎧兜も高かったのにのぉ」
「質屋とか大儲けしてたようじゃの」
溝渕の言葉に、龍馬は妙に納得した。
必要な時に必要な物は高く売れる。実に分かりやすい商売の道理である。
黒船が来ている間に鎧兜は値上がりし、黒船が去れば値も落ちる。
そこで龍馬の頭に、別の考えが浮かんだ。
桂は言っていた。これから異国との争いが始まるかもしれない、と。
もし本当にまた黒船が来るなら、今のうちに鎧兜を安く仕入れておけばいいのではないか。
権平兄貴に話してみようか。
坂本家は商家の血を引く。こういう時こそ腕の見せどころではないか。
国難の話を聞いて商売を考えるあたり、龍馬はやはりどこか武士らしくない。
そしてしばらく後、ペリーが翌年再び来航すると告げていたことが、土佐藩士たちにも伝わった。
どうやら今回の騒ぎは、終わりではなかった。
始まりだったのである。




