第14話 坂本龍馬は桂小五郎と黒船を見物する
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桂小五郎。その名を聞いた瞬間、坂本龍馬は思わず相手の顔を見直した。
長州藩士、桂小五郎。江戸三大道場の一つ、神道無念流の練兵館で若くして塾頭を務める剣士である。剣の腕は高く評価され、長州から江戸へ出て修行すると、若くして頭角を現した男だった。
龍馬も名前くらいは知っていた。いや、かなり知っていた。
剣術をやっている者なら、耳に入ってきてもおかしくない。
さっきまで変に真面目な男を捕まえたと思っていたが、話が変わってきた。同行者としては大当たりである。
龍馬は瞬時に考えを改めた。この男と仲良くなって損はない。むしろ得しかない。
剣の達人で、練兵館の塾頭。しかも年も近い。これは逃してはいけない。
さっきまで面倒そうだと思っていたことは忘れよう。人間、切り替えが大事である。
「桂さんは練兵館の塾頭ながか」
「ええ。まだまだ修行中の身ですが」
「いやいや、若うして塾頭いうたら大したもんぜよ」
「坂本君も小千葉道場へ通っているのでしょう」
「そうじゃ。北辰一刀流を学びゆう」
龍馬は自然に笑った。まずは相手の話を聞く。人付き合いというものは、話すより聞く方が大事だ。
龍馬は女相手にそれをかなり学んでいた。使い道は違うが、技術は同じである。
「それで桂さん。さっき言うちょった異国の話じゃけんど、先生から教わったがか?」
「ええ。私の師は、こういう日がいずれ来ると考えていました」
桂は歩きながら話し始めた。
「異国の船は数十年も前から日本近海へ姿を見せています。通商を求めたり、補給を求めたり、目的は様々でした」
「ほんなら、なんで今回はそんなに騒ぐがぜよ」
「今回は4隻の軍艦を並べて来たからです。交渉というより、その力を見せつけながら要求を通そうとしている」
「脅しか」
「そう考えた方がいいでしょう」
少しずつ分かってきた。これまでも外国船は通商を求めて来た。
だが今回は4隻の軍艦を並べ、その力を見せつけながら要求を通そうとしている。なるほど、それなら幕府も慌てる。
それにしても桂の話は分かりやすかった。難しい話を難しいまま話す男は多い。
武市も時々そうなる。だが桂は違った。話を順番に並べ、龍馬にも理解できる言葉へ直して話す。
頭がいい。しかも剣も強い。
よく見れば顔も整っている。
何だこいつ。全部持っているではないか。
少し腹が立ってきた。こういう男が一番いかん。世の男の敵である。
「それなら、いっそ開国した方がええがやないか?」
龍馬が何気なく言うと、桂の目が少し鋭くなった。
しまった。余計なことを言ったか。
異国との付き合い方は、幕府が長く厳しく定めてきた。
国を開くなど軽々しく口にする話ではない。幕府の対外政策を批判し、処罰された学者もいたと聞いた覚えがある。
坂本家には商家の気風が残っていた。
だから龍馬は、武士としては時々妙に現実的で、妙に口が軽い。
そこが長所になることもある。だが今は短所だった。
「佐久間象山先生などは、海防を固めるためにも西洋の技術を学ぶ必要があると説いています」
「お、おう」
「ただし、外国と付き合えばよいというほど単純ではありません。清国は異国との戦に敗れ、大きく国を乱されています」
あれ。意外と怒られない。
「じゃが坂本君」
「何ぜよ」
「武士が開国などと軽々しく言うのは感心しませんな。考えを柔軟に持つのは結構ですが、相手を選ばないと首が飛びますよ」
「気をつけるぜよ」
「今、本当に気をつける顔をしていましたか?」
「しちょった、しちょった」
やはり怒られた。刀を抜かれなくてよかった。桂、案外いい奴である。
二人はさらに歩き続け、ようやく浦賀へ着いた。
町は大騒ぎだった。海岸には人が集まり、あちこちで異国船の話をしている。
武士も町人も関係ない。皆、沖を見ようとして首を伸ばしていた。
「小船を出して黒船へ近づくこと、まかりならん!」
浦賀奉行所の役人が声を張り上げている。
龍馬は思わず目を丸くした。ということは、それまで小船で近づいて見物していた者がいたわけだ。
すごい。自分でさえ陸から見るだけのつもりだったのに、その上がいた。
江戸の物好き、恐るべし。
「坂本君。あれが黒船だ」
桂が海を指した。
龍馬はその先を見て、言葉を失った。
沖には巨大な黒い船が何隻も浮かんでいた。
そのうちの船からは煙が立ちのぼっている。土佐で見た船とも、下田屋で見た模型ともまるで違った。
でかい。何だこれは。
模型と全然違うではないか。
いや、模型が悪いわけではない。本物が大きすぎる。
「まっこと……でかいのう」
龍馬は思わず声を漏らした。
黒い船体、高い帆柱、太い煙突、そして砲門。面白い。すごい。どうやって造った。
龍馬の頭には、恐怖より先に疑問が浮かんだ。
あれはいくらする。一隻造るのにどれほど金がいる。大砲一本でいくらだ。
あの煙を吐く仕掛けはどれだけ複雑なのか。
千石船の何倍ある。
いや、比べること自体がおかしい。
商家の血が残っているせいか、つい値段まで考えてしまう。
「あれが黒船か……」
隣で桂が低くつぶやいた。
「勝てるだろうか」
龍馬は横目で桂を見た。
本気で戦う気だ。この男は黒船を見て、値段ではなく戦力を考えている。同じものを見ても、考えることが違いすぎる。
龍馬はもう一度黒船を見た。
確かに強そうではある。だが今の自分には、まだ遠い話だった。
幕府が何とかするだろう。偉い人間が考えるだろう。自分は剣術修行の途中である。そう思っていた。
一通り黒船を眺めたあと、龍馬は桂と別れることにした。帰り際、もちろん一つだけ忘れなかった。
「桂さん、今度練兵館へ遊びに行ってもええか?」
「構いませんよ。剣術の話なら私も歓迎します」
「約束ぜよ」
「ええ」
龍馬は満足した。
黒船も見た。桂小五郎とも知り合った。
しかも練兵館へ行く約束まで取りつけた。物見遊山としては大収穫である。
剣の達人との縁まで手に入った。
浦賀まで歩いた甲斐は十分あった。
この時の龍馬は、黒船よりむしろ桂との出会いの方を面白がっていた。
日本が大きく揺れ始めていることなど、まだどこか他人事だった。




