第12話 坂本龍馬は黒船の噂を聞く
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小千葉道場へ入門して、一月ほどが過ぎた。
「佐那子さま、今日も稽古をつけてください!」
「はい。構いませんけれど……」
返事はいつも通りだった。そして距離も、ほとんど縮まっていない。
おかしい。かなり頑張っているはずなのに、毎日のように道場へ通い、稽古では真面目に竹刀を振り、佐那子にも積極的に声をかけている。
それなのに仲は遅々として進まない。
策が悪いのか。それとも佐那子が堅物すぎるのか。
たぶん両方である。まあいい。気長にやろう。
それに、小千葉道場へ通う理由は佐那子だけではなかった。
半分くらいは佐那子である。いや、正直に言えば最初は七割くらい佐那子だった。だが今は剣術そのものが面白い。
日根野道場では身につかなかった技がある。
間合いの取り方、足さばき、相手の力を正面から受けずに外す考え方。そして何より、江戸には自分より強い剣士が山ほどいた。
負けて悔しい。翌日また行く。少しできるようになる。そしてまた負ける。
この繰り返しが、不思議と楽しかった。坂本龍馬は女の次くらいに剣が好きだった。
順番については武士としてどうなのかと思わなくもないが、好きなものは仕方がない。
道場の連中とも打ち解けてきた。
特に千葉重太郎とは気が合った。
若先生なのに妙に話しやすく、強いのに威圧感がない。
父の千葉定吉が威厳の塊のような男なので、なおさら差が激しい。
重太郎もあと二十年もすれば、ああいう渋い剣豪になるのだろうか。
龍馬は少し想像してみたが、無理な気がした。本人には言わない方がいい。
そんなある日、土佐藩中屋敷で妙な噂を聞いた。
「外国の軍艦が浦賀沖へ来ちゅうらしいぜよ」
最初はまた噂かと思った。外国船の話そのものは珍しくない。
龍馬も土佐にいた頃から何度も聞いていた。異国の船は以前から日本近海に姿を見せていたし、以前にも浦賀沖へ外国船が現れたことがあるという。そのたびに幕府は退去を求め、沿岸の警戒を強めてきた。
ただ、今回は少し様子が違うらしい。艦隊で来た。大砲を積んでいる。しかも黒く塗られた大きな船で、アメリカという国の軍艦らしいという話まで出ていた。
龍馬は武市半平太から聞いた話を思い出した。アメリカの使節が来るかもしれん。あの時は、来たら考えるぜよ、と笑っていた。
来た。本当に来た。龍馬は少しだけ背筋を伸ばした。
小千葉道場へ行くと、そこも異国船の話でもちきりだった。稽古の合間にも、門人たちが浦賀だ、軍艦だ、大砲だと騒いでいる。
「重太郎先生、ほんまに来ちゅうがか?」
「らしいですね。浦賀沖に数隻停泊しているとか」
重太郎も珍しく興味深そうな顔をしていた。
「鉄の船で、真っ黒に塗られちゅういう話も聞いたぜよ」
「鉄の船という噂もありますが、蒸気で動く船がいるのは確かなようですよ」
「蒸気?」
「帆がなくても動けるとか」
「まっことか」
龍馬の目が輝いた。子供の頃、下田屋で舶来品を見たことを思い出す。異国の道具、硝子、地図、船の模型。どれも妙に格好よかった。
未知のものには弱い。怖いより先に見たくなる。
「何年か前にも外国船が浦賀に来たそうです。その時は幕府が退去させたとか」
「ほんなら今回も追い返すがか?」
「どうでしょうね。今回は向こうも使節を乗せているらしいですし」
龍馬は顎に手を当てた。
使節、軍艦、大砲。言葉だけ聞けば大事である。
だが頭の中に浮かんだのは、もっと単純なことだった。
見たい。とにかく一度見たい。
「浦賀までは遠いがか?」
「江戸からなら行けない距離ではないですよ」
「見に行こうかな」
「行くんですか?」
重太郎が少し呆れた顔をした。
「せっかく江戸におるがじゃ。こんなもん、そう何度も見られんろう」
「前に来た外国船も、長くは留まらず帰ったそうです。行くなら早い方がいいでしょうね」
「早い方がええ?」
「ええ。明日にはいないかもしれません」
その一言で決まった。人間というものは、いつでも見られるものには興味を示さない。だが明日なくなると言われると、急に惜しくなる。龍馬も例外ではなかった。
「ほんなら今から行くぜよ」
「今から?」
「思い立ったが吉日じゃ」
「稽古は?」
「黒船は今日しか見られんかもしれん。稽古は明日もある」
重太郎が笑った。龍馬は急いで荷物をまとめ始めた。
大した準備ではない。着替えと金。あとは足があれば何とかなる。
幕府がどうするのか。異国が何を求めているのか。そんな難しいことは、まだよく分からない。
ただ、海の向こうから来たという巨大な軍艦を、この目で見てみたい。それだけだった。
この時の龍馬にとって黒船は、まだ国を揺るがす脅威というより、滅多に見られない異国の船だった。
だから彼は、ほとんど物見遊山の気分で浦賀へ向かった。




