第11話 坂本龍馬は馬を射て将を欲す
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小千葉道場へ入門した翌日から、坂本龍馬はほとんど毎日のように道場へ通った。実に真面目で、かなりの優等生だったと言っていい。もちろん、理由は剣術だけではない。
龍馬が初日に完敗した女剣士の名は、千葉佐那子。師匠である千葉定吉の娘で、千葉重太郎の妹だった。強くて可愛い上に師匠の娘。なかなか難易度が高い相手だが、龍馬は燃えていた。剣でも女でも、少し難しいくらいの方が面白い。そういうところだけ妙に前向きである。
「佐那子さま、今日も稽古をつけてください!」
「……またですか?」
「またぜよ」
「昨日も何度も面を打たれたでしょう」
「じゃき、今日は少し減らすぜよ」
「そういう問題でしょうか」
佐那子は困ったように眉を寄せたが、口元にはほんの少し笑みがあった。初日は土佐から来た妙に自信満々な男だと思ったのだろうが、負けても腐らず、翌日から何度も頭を下げてくる龍馬には少し興味を持ち始めたらしい。少なくとも本気で嫌われてはいない、と龍馬は判断した。たぶん、おそらく、そうだったらいい。
「お願いしますぜよ」
「仕方ありませんね。では構えてください」
それからも、佐那子は龍馬の稽古に付き合ってくれた。だが稽古となれば手加減はなく、龍馬が隙を見せれば容赦なく面が飛んでくる。
「痛っ!」
「余所見をするからです」
「佐那子さまを見よったがじゃ」
「なお悪いです!」
面越しでも怒ったのが分かった。だが、頬のあたりが少し赤くなったようにも見える。気のせいかもしれないが、ここは気のせいではないことにしておこう。龍馬に都合のいい解釈だった。
稽古後、龍馬が汗を拭いていると、重太郎が横へ座った。
「坂本君は変わった奴だな」
「どこがぜよ」
「普通の男なら、女にあそこまで負ければ気まずくなって、佐那とは稽古したがらんものだ」
「わしは女に負けるんには慣れちゅうき」
「慣れている?」
龍馬は大きくうなずいた。
「姉がおるがです。わしより背が高うて、力も強うて、子供の頃からよう叩きのめされましたき」
「ほう。それほど強いのか」
「坂本家の仁王様と呼ばれちょります」
「仁王様か」
重太郎が吹き出し、龍馬も笑った。乙女本人はその呼び名をわりと気に入っている。そこも少しおかしい。
「そういえば、佐那にも似たような呼び名がありましてね」
「ほう?」
「千葉の鬼小町です」
「鬼小町」
龍馬は思わず佐那子の方を見た。ちょうど別の門人と話していた佐那子も、その視線に気づいたらしい。一瞬だけ目が合うと、不思議そうな顔をしてから、ふっと視線を逸らした。
強い上に美人だから鬼小町、ということか。なるほど、実に分かりやすい。乙女が仁王で、佐那子が鬼。どうやら龍馬の人生は、そういう女に縁があるらしい。
「坂本君も大変ですな。仁王に鍛えられ、今度は鬼に鍛えられる」
「わしの人生、もっと普通の女はおらんがですかね」
「自分でそちらへ近づいているように見えるが」
「気のせいぜよ」
重太郎とは、いつの間にかすっかり打ち解けていた。裏表がなく、冗談も通じる。何より佐那子の兄である。
将を射んと欲すれば、先ず馬を射よ。ならば妹を射んとすれば、まず兄から仲良くなる。少し意味が違う気もするが、龍馬の中ではだいたい合っていた。
重太郎と仲良くなれば、佐那子の好みも聞ける。嫌いなものも分かるし、何をすれば怒るかも分かる。完璧な作戦ではないかと、龍馬はかなり満足していた。少なくとも、その時までは。
数日後、稽古を終えた佐那子へ、龍馬は何気ない調子で声をかけた。
「そういや佐那子さまは、鬼小町と呼ばれゆうそうじゃのう」
佐那子の表情が止まった。先ほどまで柔らかかった目が、わずかに険しくなる。
「……誰から聞いたんですか」
「重太郎先生からぜよ」
「兄上が?」
「強うて美人じゃき、ぴったりの名じゃと思うけんど」
褒めたつもりだった。だが佐那子は少し唇を結んだ。怒ったというより、一瞬傷ついたようにも龍馬には見えた。
「私は……鬼ではありません」
いつもの歯切れのいい声より少しだけ小さかった。龍馬が、あれ、と感じた直後、佐那子は頬を赤くして声を強めた。
「鬼ではありません!」
そのまま歩き去ってしまった。龍馬は一人その場に残され、完全に失敗したと悟った。ただ怒らせた時とは少し違う。もしかすると、あの呼び名を本当に嫌っているのかもしれない。
乙女なら仁王様と呼ばれても豪快に笑う。だから同じようなものだと思っていたが、そこが間違いだった。
だが、重太郎。教えるなら禁句だというところまで教えろ。大事な情報が抜けている。
その日の帰り際、龍馬は重太郎を見つけて詰め寄った。
「重太郎先生、佐那子さまに怒られたぜよ」
「何をしたんだ」
「鬼小町いうたら怒られました」
「ああ」
重太郎はあっさり納得した。
「ああ、じゃないぜよ!」
「佐那はその呼び名が好きではないからな。直接言ったらいかんよ」
「先に言え!」
「聞かれなかったのでな」
ひどい。実の兄というものは、妹に対して案外雑なのかもしれない。
「しかしまあ、佐那が怒ると確かに怖いぞ」
「それは分かる」
「鬼小町というより、本当の鬼になる」
「ははは、重太郎先生も言いますね」
「何が面白いのでしょうか、坂本さん」
龍馬の背筋が固まった。ゆっくり振り返ると、そこには佐那子が立っている。
怒っている。だが、それだけではない。少しむっとした顔の奥に、どこか拗ねたような色があった。
佐那子は龍馬をちらりと見ると、すぐに視線を逸らした。
「鬼で悪うございましたね」
そう言い捨てて歩き出す。その頬は、ほんの少し赤かった。
「ちょ、佐那子さま! わしはそういう意味で言うたがやない!」
「知りません!」
返事だけが飛んできた。龍馬は頭を抱えた。
重太郎とは仲良くなり、佐那子とも稽古を重ねるうちに、少しは距離が縮まったと思っていた。それなのに、口を開けば自分で台無しにしている。
馬は射た。将にも少し近づいた。なのに、自分で将を追い払ってどうする。




