――『つまらぬ』――
「あの男……。エド君が『トール』と呼んでいた男ね?」
――あの男に、私は何も感じることができなかった。存在するのに、何の気配も感じない。まるで『無』。どんな人間にもあるはずの感情を読み取らせなかった。そう。まるで何を考えているのかわからないやつなのだ。やつに揺さぶりをかけてみようと、私はやつに噛みついてみせた。しかし、あの男は苦笑するだけで、怯えさえ見せなかった。見知らぬ竜に噛みつかれたのだぞ。慌てるか、怯えるか、少なくとも逃げようとするだろう。しかし、やつは平然と立ったままだった。まるで、私に噛み殺す気がないと見抜いていたかのように。
「そうだね。わたしも同じようなものを感じていた。悪意や敵意はなかったけど、ほかに感じられるものもない。変な感覚だった。でも、わずかだけど、エド君に対する好意だけは感じられた。だから、わたしはあの男を船に乗せることを認めたの」
――思考や感情を読み取らせないのは、普通の人間にはできぬことだ。あの男はそういうことを徹底して鍛えたのではないかと見ている。漁師や商人がそんな鍛え方をするとは思えぬ。あいつは軍人……、それも、かなり特殊な立場の人間だ。
「そう。帝国の特殊部隊にいる誰かかもしれないんだ」
――あるいは、そう偽装した何者か、だ。
「あのトールってひとには、なりゆきで判断する。エド君はあのひとを助けたがっていた。状況が許せばそうするつもり」
――おいおい、私の話を理解していないのか? あの男は危険だと……。
「言ったじゃない。なりゆきで判断するって。わたしだってふたり同時に助け出す無理を押すつもりはないの。最低でもエド君。そういう考えだから」
――まったく……。冷静だか、のぼせあがってるのか。はたして、どちらなのだか……。
「ごめんね、アズちゃん。わたしの勝手につき合わせて」
ユティーは砂海に潜った。
ユティーの船の上で、赤い竜がふぅーっと鼻息をはいた。ユティーと念話を始めて何度目のものか、竜もわからなくなっていた。
『ユースティティアがこうも小僧に熱心になるとはな。あれも人間の女ということか。いや、それだけでない感情をあの小僧に抱いているのかもしれぬか。そうであるなら……』
……あの小僧は殺したほうがいいかもしれない。
竜はユティーがいる方角に目をやったあと、その反対側に顔を向けた。竜の位置からは見えないが、エドたちが連れていかれた戦列艦が停留している方角だった。
ユティーは竜が考えていることを知ることもなく、砂海を押し進むことに集中していた。あと少し進めば、竜が乗る船にたどり着けるからだ。足がつかないところまで進むと、両腕で砂を身体の真横にかき出すようにして泳ぎ出した。砂海は水と違い、自由に泳ぐことが人間にできない。しかし、わずかな距離であれば、川や海で泳ぐように進むことは可能なのだ。
砂海の砂は、ユティーの汗を容赦なく吸い上げ、渇きの業苦を与えてくる。ユティーは歯を食いしばりながらそれに耐え、ついに自分の船にたどり着いた。
――アズちゃん。周囲の様子はどう?
ユティーは船の底近くから、顔だけあげて尋ねた。かなり疲労して、吐く息は荒い。戦列艦から見張る兵士に気づかれないよう念話で話しかけたが、実際に声を出すのも困難だっただろう。
――船からこちらを見張る兵士がひとり。長細い銃を手にしている。さっき、こちらをパンパン撃ってきたやつだ。
赤い竜はユティーに顔を向けることなく念話で返した。船の上で横になり、しっぽを船の外に垂らしている。
――ライフル銃っていうの。竜のうろこも貫く威力って聞いていたけど。やっぱりアズちゃんには通じなかったね。
――あの程度ならな。ただ、私の身体も完璧ではない。人間の武器でもダメージを受けるものはある。
――それは何? アズちゃん。
――竜の牙を使った武器だ。竜のうろこはどんな鋼も通じないが、竜の牙は貫く。『竜狩り』どもは、必ず竜を素材にした武器を使う。
――共和国の兵士にそういうのを持ってるのはいるかな?
――わからぬ。ああいうのは気配でわかるものではないからな。
ユティーは考え込んだ。その頭を竜のしっぽが優しくなでる。
――どうした? 私の身が心配か?
――もちろん。わたしの勝手でアズちゃんにケガはさせたくない。
――心配無用だ。やつらの船には大砲も積まれてはいるが、俯角がとれないからユースティティアの船を狙うことができぬ。つまり、私を狙うこともできぬのだ。それに、やつらは私のことを何もわかっておらぬ。砂海の真ん中に置いておけば、私が船から逃げ出すこともできぬと思い込んでいる。私を地竜と同じだと考えているようだ。
――じゃあ、アズちゃん……。
――お前の策に乗ってやる。指示を出せばよい。ただし……。
――ただし?
――小僧の安全までは保障できぬ。私の牙が届かぬ範囲のことは、さすがにどうにもならぬ。
――……わかってる。じゃあ、アズちゃん……。
ユティーは短く指示を出した。竜はゆっくりとうなずく。
――では、始めよう、ユースティティア。
竜はすっくと船から立ち上がると、そのまま砂海へ飛び込んだ。大きな砂柱が立ち昇る。
「竜が逃げ出した!」
見張りをしていた兵士は叫んだ。ライフル銃の銃口を砂柱に向けるが、竜の姿が見えないので発砲できないでいた。
「どうした?」
周囲で警戒態勢を取っていた別の兵士もライフル銃を手に駆けつける。
「あの赤い竜が砂海に飛び込んだんだ。あそこだ」
兵士は砂柱が立ち昇った場所を指さす。砂柱はすでに姿を消し、さらさらと流れるようにうごめく砂海の姿しかなかった。
「竜はどうした? 沈んだのか?」
別の兵士は船の下をのぞきこむ。不安そうな表情だ。竜が戦艦に襲いかかりはしまいか恐れているのだろう。
「ここの深さは5ファゾム(=約9メートル)もある。やつは大きいといっても10フィート(=約3メートル)ほどだろう。ここでは背が立たない。息もできんはずだ」
「バカな竜だ。勝手に溺れ死にやがった」
兵士たちは見下ろしながら勝手なことを言いあっている。そこへさらに別の兵士が駆けつけてきた。
「おい、大変だ! あれを見ろ!」
ふたりは仲間の指さす方角へ目をやり、そして、同じように蒼ざめた。
ふたりが視線を向けた先には島の浜が広がっていた。そこへ、赤い竜が悠々とあがってきたのである。
「砂海の底を歩いたのか!」
「息が続いたんだ……」
ふたりは呆然としてつぶやくだけだ。
浜には数名の兵士が警備していたが、竜の登場に慌てふためいて騒ぎだしていた。
「撃て、撃て、撃てぇーっ!」
隊長らしい兵士が絶叫する。周りの兵士はめいめい発砲を始めた。
浜辺はたちまち怒号と銃声で満ちる。半ばパニックに陥った兵士が撃った銃弾のいくつかは、沖に泊まる戦列艦にまで飛んできた。
「バカッ! きちんと狙え! 味方に当てる気か!」
甲板から兵士が叫ぶ。彼もライフル銃を手にしていたが、浜には味方もいるので発砲できずにいたのだ。
赤い竜は兵士たちの騒ぐ様子をまるで気に留めることもなく、ゆっくりした足取りで浜を歩いていく。進んでいるのは、戦列艦の二番艦、そして、三番艦が泊まる方角だ。
「しょ、少佐に報せろ! 早く!」
浜辺で銃を構える隊長らしい兵士がかたわらの兵士に怒鳴った。指示を受けた兵士はすぐさま浜から走り去る。
『つまらぬ』
竜はのっしのっしと歩きながら思った。
『浜に上がり、ゆっくりと小僧が囚われている船に歩くだけ……。それが策とはな……。しかし、こいつらは思っていた以上にユースティティアの策に踊らされている……』
竜はちらと戦列艦を見やった。
『案外、ユースティティアは策士の才があるようだな……』




