第五話 入門試験
入門試験当日。
陶霖はいつも通り、卯の刻に起床した。
引き出しを開けて、玉佩を身につける。
陶霖は知っている。
人は誰でも魔が差すことがある。
だから、陶霖は肌身離さず玉佩を持ち歩けない時にはこの引き出しに必ずしまうようにした。
宿舎を出ると、葉遠瑶、温柔燐、鄭花澈とともに道服を洗濯して干し、養心堂へ向かった。
朝の巡風門はまだ静かで、石段の上には薄い霧が残っている。
「眠れた?」
温柔燐が聞く。
「うん、眠れたよ」
陶霖はそう答えたが、昨夜はなかなか寝付けなかった上、早い時間に目が覚めた。
「顔が白いぞ」
鄭花澈が腕を組んで言う。
「白くない」
「嘘つけ」
陶霖は頬を膨らませるが、鄭花澈は続けて話す。
「断言するけど、入門試験はお前でも余裕で通過できる」
「余裕かはわからないだろ」
陶霖はムッとして言うが、鄭花澈はいつものように突っかかるわけでもなく、淡々と答えた。
「いや、余裕だ。そもそも入門試験は素質があるかを見ているだけなんだよ。そうじゃなかったら、温安がここにいると思うか?」
温柔燐が怒るわけでもなく、横から答える。
「そうだね、僕も字は自分の名前しか書けなかったけど、それでも入門できたんだ」
「無駄に心配して損したな」
鄭花澈はフフン、と鼻を鳴らした。
「鄭知、お前は本当に嫌なやつだな!」
陶霖が言うと、後ろを歩いていた葉遠瑶が「まあまあ」と嗜める。
「ほら、だから何度も言ってるだろ。ちゃんと字を書く練習もしてきたんだ。陶霖は大丈夫だよ」
この一月、陶霖は薬堂での仕事を終えると、体力をつけるために巡風門の前の石段を何度も上り下りし、夕餉の後には葉英に教えてもらいながらひたすら字を書く練習をしていた。
中指にはたこができて、まだあたらしいそれは赤くヒリヒリとした痛みをもっている。
温柔燐がくすくすと笑う。
「終わったら南渓鎮に行こう」
「また糖葫蘆?」
陶霖が言う。
「いいじゃないか」
葉遠瑶が笑う。
「試験が終わったら、僕が奢る」
「本当に?」
「本当に」
葉遠瑶と陶霖のやりとりを聞いて、鄭花澈がぼそっと言う。
「受かってから喜べ」
巳の刻。
修練場の前には大勢の志願者が集まっている。
陶霖より背が高い人がたくさんいて、時々女子の姿も見かけた。
遠くで門下生が拡声術を使って話す。
「志願者には木牌を配布する。こちらで配布するので、受け取ったものから修練場内に移動しなさい」
もう少し早く来るんだった。
背の低い陶霖は前も見えないまま、人混みの中で待つことになった。
「うわっ」
陶霖の近くで楽しそうに話していた三人組の一人がぶつかった。
「あ、ごめん」
「いや」
三人とも背が高く、怖そうな顔をしている。
陶霖は目を合わせず、そのまま葉英に教わった字を反芻していた。
「なあ、お前、名前は?」
「……陶霖」
「陶霖はなんで道服を着てるんだ?」
「……」
なんでって……罗景真に拾ってもらったからだ。
でも、そんな話をしていいのだろうか。
「薬堂で働いているから」
「ふうん……」
値踏みするように見られたが、すぐに興味を失ったように三人で話し始める。
「どうせ去年落ちて再試験とかだろ」
陶霖はやることもないので、なんとなく彼らの話に耳を傾けてしまう。
徐々に人の波は前へと移動し、ようやく木牌を配布する卓の前に来た。
「名は?」
「陶霖」
名簿の中から名を探し出すと、紐に通された薄い木板が手渡される。
「217番。修練場へ入りなさい」
木牌には、「二一七 陶霖 十一」と書かれている。
この十一は、11歳ということだろうか。
ようやく木牌を受け取った陶霖は、修練場へ移動する。
しかし、入り口でも何か試験が行われていて、これもなかなか前に進まない。
ようやく修練場の入り口が見えた。
入り口を入ってすぐの両脇にそれぞれ卓が置かれており、そこには大きな水晶球が置かれている。
志願者が何か言われて、手をその上に置くと……ぼんやりと、水晶球が黄色に光った。
長老の両脇に座る試験官が名簿に何か書き付けている。
長老が志願者に何か一声かけると、彼は修練場の中に入って行った。
次の志願者は陶霖と同じ年くらいの子で、水晶球の上に手を置いたが、何も反応がない。
試験官が記録簿に書きつける。
長老に何か言われると、落胆した様子で修練場から出てきた。
先ほどの三人組が陶霖の前で話をしている。
「あいつ、落ちたな」
「せめて皆から見えないところでやってほしいよな」
「色が変わることもあるんだな?なんでだ?」
「さあ。でも見ててわかるのは、光らなければ霊根なし。見込みなし。ってことなんだろ」
「怖い……」
みんなのうそつき!
ほとんどが通過するなんて嘘じゃないか!
既に何人もの志願者が列を外されている!
陶霖は頭が真っ白になった。
もし霊根がなかったら、自分は……。
前の三人組のうち、陶霖の前に並んでいた一人は霊根がなかった。
「嘘だろ……」
陶霖には、彼がそう呟いたのが聞こえた。
「次。番号と名を言いなさい」
「217番、陶霖です」
「手のひらを水晶の上に」
透明な水晶球に手を置くと、ふわりと温かくなった。
水晶球は黄色くぼんやりと光を放つ。
陶霖がほっと息をついて手を引っ込めようとすると、水晶の色が変化した。
玉佩と同じ──天青。
長老と試験官である門下生が顔を見合わせて、戸惑うように顔を寄せ小声で話をしている。
なにかだめだったのだろうか。
急に不安に襲われ、陶霖は腰につけた玉佩をぎゅっと握りしめた。
しばらく話し合われた末、長老が「入りなさい」と陶霖の目を見て言った。
修練場に入ると、既に一次試験の通過者たちが列を作って並んでいる。
しばらくすると、名簿を持った門下生が来て、順に名前を聞いてまわった。
合格者の確認をしているのだろうか。
修練場の中は、建物の外側と違って静まり返っている。
先ほどの三人組のように、一緒に来た仲間が落ちた人もいるのだろう。
陶霖はこのときだけは、一人で来てよかったと思った。
二次試験。
十人ずつ番号を呼ばれ、外に出ていく。
陶霖の番号は217番。
ようやく陶霖の番号が呼ばれ、修練場の外へ出る。
ひとつめは型の模倣、次に、平衡木。
細い木の上を落ちずに渡るだけの試験だ。
陶霖はどちらも危なげなくやり終えた。
三つ目は姿勢の制御試験。
試験官が短い香に火をつける。
それが燃え尽きるまで、馬歩を崩してはならない。
香が燃え尽きるまで──それだけのことだ。
そう思ったのに、太腿はすぐに震え始めた。
「そこまで」
その場で姿勢を落ち着けると、嫌でも試験官をする長老や記録する門下生の姿が目に入る。
なんとか姿勢制御を終えて、最後の試験は短距離走だった。
他の志願者とともに横一列に並び、そこから遠くに立っている試験官のところまで走る。
開始の合図は、小さな銅鑼の音。
五人の志願者が一斉に走り出す中、陶霖は一番を走っていた。
やった、いちばんだ!
そう思った次の瞬間──足がもつれ、転んだ。
いたい、と思う間もなく、再び立ち上がり走る。
走り終えると、手と膝に痛みが戻ってくる。
結局、直線走は一緒に走った五人中、最下位で終わった。
最終試験は、筆記試験だ。
陶霖は近くの水場で砂だらけになった手を洗い、再び修練場に戻る。
卓が並べられ、伏せられた薄い冊子が一人ひとりの前に置かれた。
墨は試験開始後に擦ること、と言われたため、卓の上に筆と硯、墨を用意して、陶霖は手を膝に置いた。
数人の試験官が卓の間を見回りしている。
しばらく布擦れの音や、筆を用意するかちゃかちゃという音が聞こえていたが、次第になくなった。
「筆記試験、始め!」
一斉に墨を擦り始める音が広い修練場に響く。
陶霖も、手を震わせながらも硯の上で墨を少しずつ擦る。
やっと濃い黒が硯に広がると、陶霖は筆を持ち、ゆっくりと紙に向かう。指先に力を入れすぎて筆先が震えるが、紙に文字が浮かぶたびに少しずつ落ち着きを取り戻していく。
周りの子たちはすでに書き始めており、静かな筆の音と紙を滑る墨の匂いだけが場を満たしていた。
陶霖は葉英に教わった字を思い出しながら、一文字一文字を丁寧に書き進める。
「やめ!」
筆を置くと、試験官が次々に冊子を回収していった。
修練場を出ると、陽が傾きかけていた。
いつもなら、陶霖が薬堂の仕事を終えて、体力を付けるための基礎鍛錬をしている時間だ。
陶霖は大きく伸びをする。
試験結果の発表は五日後。
陶霖が薬堂へ行くと、張月は茶を飲みながら休憩をとっていた。
陶霖の姿を見ると、気だるげに片手を上げる。
「試験は終わったのか?」
「うん、終わりました」
「なんで来たんだ?今日はもうお前にできる仕事も残ってないよ」
「知ってるよ」
張月は心底面倒そうに顔を歪めて、茶を一口含んでから言う。
「じゃあ、怪我をしたのか?」
「うん」
「……はぁ。お前はまた、どうしてこんな日にも怪我をしているんだ」
張月はそう言うと、また茶菓子を摘んだ。
「傷は洗ったのか?」
「うん。短距離走で転んだんだ」
「わかったよ。聞いてない。これ食べ終わるまで待ってな」
「うん……ねえ、俺は入門できるかな?」
張月はまた「面倒」という言葉を書いたような顔で言う。
「できるんじゃ、ないのか?」
「なんでそう思う?」
「なんでって……あの罗長老が連れてきたんだから、見込みないやつをわざわざ一月も置いとくか?」
「……」
陶霖は、がっかりした。
罗長老が面倒をみた少年。
だから、陶霖は入門できるのだ、陶霖の努力には関係なく。
陶霖は赤くなった中指を見た。
「字の練習も、走り込みも、するんじゃなかった」
「……なぜ?」
「最初からわかってたんじゃないか」
張月は眉を寄せたが、何も言わずに奥から茶杯をひとつ持ってきて、自分の茶杯と持ってきた茶杯に茶を注いだ。
「ほらよ」
渡された茶杯には、まだほこほこと湯気が昇る薄緑色のお茶がたっぷりと入っている。
陶霖はごくり、とひとくち飲んだ。
「みんなわかってたんだ……。あの罗長老が連れてきた子だから、入門試験を通過することはわかっていたんだ。それなのに」
「いや、わからんだろ」
「わかってた!」
「はぁ……さっきからお前は何を言ってんだ?そりゃ、あの罗景真がわざわざ連れてきた子どもなら、見込みがないなら初めから入門試験を受けさせることなんてしないだろうさ。でも」
張月は茶杯を口に運ぶ。
「お前はこの一月、着実に入門試験を受けようとしていた。皆はそれを見ていた。受かるに決まってる。それだけだろ」
陶霖には、張月の言っている意味があまりわからなかったけれど、それが単なる励ましではないことはわかった。
「……うん」
「さあ、飲み終わったら傷を見てやる」
張月はそのあと、「ついでに前の傷も治ったか見てやる」と言って陶霖の砂で汚れた道服を脱がせた。
膝には新しい傷ができたし、手のひらにもまた細かな傷ができて、少し動かすとジクジクと痛む。
でも、それ以外にあった身体中の細かな傷は、ほとんどがもうかさぶたも剥がれ、少し赤みが残る程度だった。
「結果はいつ出るんだ?」
「五日後の巳の刻だって言ってた」
「じゃあ、ここに来るのはあと少しだな」
「……そっか」
「落ちてたらまた来たらいい」
「……」
その後、陶霖はいつもの時間に養心堂へ向かうと、葉遠瑶、温柔燐、鄭花澈の三人が既に夕餉を食べていた。
陶霖は急いで食事を取り彼らの席に座ると、温柔燐がにこにこと聞いてくる。
「で、どうだった?」
陶霖は即答する。
「直線走で転んだ」
あははははは!と温柔燐と鄭花澈が笑った。
「お前は、本当に期待を裏切らないな……ははっ」
「大丈夫だよ、陶霖、あはは」
予想していた反応ではあったが、陶霖は頬を膨らませる。
「それより!俺が余裕で通過するなんて嘘じゃないか!もし霊根がなかったら……」
「何言ってるの、陶霖」
温柔燐がきょとんとした顔で言う。
鄭花澈が陶霖の持ってきた皿から豚肉を一枚攫った。
「師尊がそんなのを確認せずに一月もお前を置くわけないだろ」
「…………あ」
陶霖は口を開いたまま固まった。
「ばーかばーか」
「鄭知おまえっ!言ってくれれば良かったのに!おかげでっ!心臓が止まるかと思ったんだ!」
陶霖が噛み付くと、葉遠瑶がまあまあ、と嗜める。
「そしたら、言わなかった僕たちも同罪だね」
「そうだね」
「あははっ」
陶霖は耳まで真っ赤になり、皿の飯を無言で掻き込んだ。
登場人物
【巡風門】
罗景真……長老
張月……薬術師
罗景真の弟子(名・字・年齢)
葉英・遠瑶・15歳
温安・柔燐・13歳
鄭知・花澈・12歳
陶霖・11歳
用語解説
木牌……木で作られた札。身分証や通行証、所属証明として用いられる。
霊根……霊力を扱うための素質。霊根を持つ者は修行によって法術や御剣などを扱えるようになる。属性や強さには個人差がある。
馬歩……腰を深く落として足を開き、馬に跨るような姿勢を取る武術の基本鍛錬。足腰や体幹を鍛えるために行われる。
卯の刻:6時頃
巳の刻:10時頃




