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氷の瞳と冷たい雨  作者: 芋洗べに子
第一章 巡風門
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第六話 陶明稀




入門試験後、陶霖タオリンは約束通り薬堂で働いた。

思えばずっと罗景真ルオジンジェンとはすれ違えば挨拶をするのみで、まともに会話をしたのは……街へ行った日、巾着袋を贈って以来だろうか。

三人から罗景真の話はよく聞いていたので、陶霖は勝手に会っている気持ちになっていた。

そして結果発表当日。

陶霖は卯の刻に起き、いつものように朝餉を食べ終えると、もうやることがなくなってしまい、いつものように薬堂へ足を運ぶ。

張月ジャンユエの呆れた顔はもう見慣れた。

「巳の刻になるまで、薬草を摘んでくるよ」

陶霖は浄務閣の裏手にある山に行く。

木々の隙間から朝日が差し込み、朝の匂いがする。

陶霖はこの一月で覚えた薬草を、一つ一つ手折っては籠に入れていく。

遠くで鐘の音が聞こえる頃には籠の中はいっぱいになっていた。

薬草を預けてから、修練場へ向かった。

長老たちが出払うため、この日は門下生たちも試験の日同様、休息日になっている。

結果が貼り出されて間もないためか、大勢の人が修練場の前に集まっている。

前の方では時折歓声も聞こえてきた。

きっと合格したのだろう。

陶霖は結局、人の波が収まるまでしばらく待つことになった。

葉遠瑶イエユエンヤオ温柔燐ウェンロウリンが一緒に結果を見たいと言っていたが、陶霖は断っていた。

背の低い陶霖からもようやく掲示が見える場所に移動でき、すかさず番号を確認する。

217番、217番……あった!

持ってきた木牌もくはいに書かれた番号をもう一度確認して、再び掲示を見る。

217番。

「よしっ」


修練場の入り口に向かうと、名簿の確認がされた。

明日の巳の刻に浄務閣に集合、宿舎や巡風門の施設の案内、それから説明があるらしい。

明日も木牌を持ってくること。

希望者にはこの後、宿舎の案内があるらしい。

それですぐに解散となった。

陶霖はなんだか実感が湧かないまま、思いつくままに蔵書閣へと向かう。

陶霖はこの一月、たくさん字を覚えたのだ。

読める本がなければ、書き写しをしよう。


初めて入る蔵書閣はひんやりとした空気が漂っている。

古い紙や埃の匂い。

高い天井まで届くほどの本棚が壁全面にずらりと並んでいて、中央にも空間を埋めるように本棚が並ぶ。

間を通って少し奥に進むと、その部屋には文机が並べられ、そこでは数人の門下生が何かを書きつけたり、書を読んだりしている。

陶霖はそこには入らず、また進むと同じように文机の置かれた部屋があった。こちらの方が少し広く、本棚も置いてある。

あ、葉師兄だ。

陶霖は文机に向かっている1人が葉英だと気づくと、でも大きな声をかけられる雰囲気ではないので、そっと近づき、小さな声で呼びかける。

「葉師兄」

「陶霖!」

葉遠瑶イエユエンヤオが顔を上げ、陶霖を見て微笑んだ。

「もう終わったのか?」

「うん、合格できたよ」

「よかったじゃないか。おめでとう」

陶霖はへへ、と笑う。

「葉師兄はここで何をしていたの?」

「書を読んでいたんだ。法術の書だよ」

「ふーん。ねえ、それ俺も読めるかな?」

「陶霖も書を読みにきたんだね。それなら、ちょっと来て」

葉遠瑶は立ち上がり、陶霖に手招きする。

卓の置いてある場所を出て、後ろをついて歩くと、入り口付近の棚に来た。

「この辺りの書は入門編が多いから、陶霖にも参考になると思うよ。ちなみにおすすめは」

そう言いながら、葉遠瑶はいくつかの本を取り出してみては、題字を一つ一つ確認している。

「あ、これだよ」

「えっと、修行、識字?」

何度も読まれているのか、端が擦り切れている。

「うん、字を覚えながら修行の心得を学ぶことができる。多分入門したら教本も配られると思うけど、これを読んでおけば予習になると思うよ」

「うん、わかった。ありがとう」

陶霖は葉英イエインに勧められた本を卓に置いて読み進める。

しばらく読んでいたが、慣れない字に目が疲れてきた。

陶霖は書を棚に戻し、静かな蔵書閣を後にした。


陶霖は夕餉を食べ終えるとなぜか身体が重くて仕方がなかったので、早々に宿舎へ戻り、夜着に着替えて寝台に横になった。

天井の木目を見ながら呟く。

「ほんとに入門したんだ……」

陶霖は引き出しにしまった玉佩を取り出して、握りしめた。

嬉しいはずなのに、なぜか寂しくて、胸の奥がぎゅっとなるような感覚がした。

掛け布に包まり、身体を丸めて眠った。




その晩、陶霖は寒気で目が覚めた。

掛け布にくるまっているのに、寒くて震えが止まらない。

どうして?

水を飲もうと立ち上がると、ふらついてその場にうずくまる。

寝台に腰掛けると、ぐらぐらと視界が揺れた。

陶霖はそのまま寝台へ倒れ込んだ。

向かいの寝台で寝ていた葉遠瑶イエユエンヤオが、物音で目覚めたのか、起き上がる。

「陶霖、どうした?」

「なんだかすごく寒くて……くらくらする」

葉遠瑶は立ち上がり、陶霖の額に手を触れた。

「あついね、熱が上がっているんだ。ひとまず僕の掛け布も使って」

「うん……」

陶霖は返事をするので精一杯で、好意に甘える。

「お水、持ってきてほしい……」

「うん、わかったよ」

しばらくすると、葉遠瑶は戻ってきて、陶霖を少し起こして水を飲ませた。

「他には大丈夫かな」

陶霖がコクリと頷くと、葉遠瑶は続けて言う。

「多分、師尊はまだ起きている時間だから、呼んでくるね」

陶霖は首を横に振る。

「どうして?」

「これ以上、迷惑かけられない」

陶霖がそう言うと、葉遠瑶は「はぁ」とため息を吐いて、「いいから、君は寝てなさい」とあの長老のように陶霖をたしなめて、宿舎の部屋を出て行った。

部屋の中がシン……と静まる。

陶霖は心臓がどくどくと音を立てて、身体中を血液が巡っているのを感じた。

震えが止まらず眠れなかったが、しばらくすると、次第に意識は落ちていく。


「……は…………かる、…………いなさい」

声が聞こえてぼんやりと目を開けると、葉遠瑶と──大きな大人が陶霖を覗き込んで何か話している。

陶霖は目を開けていられなくて、目を瞑る。

急に浮遊感に包まれ、また意識が浮上する。

──どこかで嗅いだことのあるにおいがする。

花のようでもあり、木のようでもある甘い匂いがした。

冷たいはずなのに、不思議と胸の奥が落ち着く。

陶霖はそれが誰の匂いだったのか思い出せないまま、再び意識を手放した。






阿霖アーリン、よく聞きなさい」

そう言った母は、いつもの明るい母ではなかった。

何かを必死に我慢するように、震えた手で、陶霖タオリンに水色の飾り紐のついた玉佩を握らせた。

──ほんの一瞬、触れた手は燃えるように熱かった。

「この玉佩を持って、巡風門に行きなさい。罗景真ルオジンジェンという仙師様に見せて、弟子にしてもらいなさい」

「お母さん、どうしたの……?なんで?」

陶霖は納得できないものの、母の尋常ではない様子に、いつものように我儘を言うことなどできなかった。

「母は疱瘡にかかりました。あなたと一緒にいたら、あなたまで感染してしまう。いい子だから、これを持って、巡風門へ行きなさい」

母の顔は赤らんでいる。

ほんの数言話しただけで、母の呼吸は荒くなっていた。

陶霖の黒く澄んだ目は、涙を湛えながらも真っ直ぐに母親の双眼を捉えていた。

「いやだ……お母さんと一緒に──」

「陶霖!」

彼の母親は、陶霖に対して怒ったことなど一度もなかった。

阿霖アーリン……ごめんね。母もあなたと一緒にいたい……でも、それよりずっと、あなたには幸せで生きていてほしい」

いつも優しく抱きしめてくれる母は、陶霖に手を伸ばしながらも決して触れることはなかった。

母の白く美しい顔に白色の発疹がぽつりとできているのが、陶霖の目に映った。

「早く行きなさい!」

本当はその場を一歩も動きたくなかった。

それでも、母の声に追い立てられるように、陶霖は外へ飛び出した。

小さい頃からずっと母とともに暮らしてきた、風の吹き抜けるあばら家を、振り返ることもできなかった。

──巡風門に行きなさい。

母の言葉に従い、暗くなりはじめた道を走る。

陶霖の足がもつれて転んだ。

あたりはもう暗闇に包まれ、月夜が夜道を微かに照らしている。

振り返ると、遠くに明るい光がぽつんと見えた。

陶霖と母親の家だ。

陶霖は途方もない疲労感に襲われ、それ以上歩くこともできなかった。

道の端でうずくまり、涙を流しながら眠った。





「お母さん……」

何か温かいものが陶霖タオリンの目元に触れて、陶霖は目を覚ます。

寒気はおさまっている。

代わりに、寝間着が肌に張り付くほど汗をかいていて気持ち悪い。

花のような、木のような、甘くて、いい匂い。

陶霖ははっとして身体を起こす。

広いけれど簡素な作りの──罗景真ルオジンジェンの部屋だ。

ぐにゃり、と視界が歪んで、陶霖は寝台に倒れ、目を瞑る。

「陶霖」

罗景真の、低く響くような声。

「着替えられるか」

陶霖は首を横に振る。

しばらくすると、陶霖の寝間着の帯が解かれ、上半身を起こされて、寝間着を脱がされる。

温かい布が陶霖の身体を拭って、気持ちがいい。

乾いた衣が着せられ、水を飲まされる。

陶霖はようやく寝台に寝かされた。

「罗長老……」

「なんだ」

「ありがとう、ございます」

「……いい」

温かく大きな手が、陶霖の頭を撫でた。

そのぬくもりに誘われるままに、陶霖はまた意識を手放した。




この子どもは、何故こんなにも脆いのだろうか。

罗景真は、一月前には干からびた柳の枝のように痩せ細り、今にも死にそうだった子どもを見下ろす。

この一月で少し肉がつき、青白く傷だらけだった肌は、今は熱のせいもありほんのりと赤い。

まなじりから、涙が一筋零れ落ちた。

罗景真はそれを、指先でそっと拭う。


一月前、陶霖の母──陶雪蘭タオシュエランから一通の書簡が届いた。

自分の命は長くないから、陶霖が訪ねてきたら、面倒を見てやって欲しいということ。

彼は玉佩を持っているので、それを目印にしてほしいということ。

罗景真は、陶霖がまだ幼子だった頃、彼の母に助けられたことがある。

罗景真の頭に、陶霖の面倒を見ないと言う選択肢はなかった。

あの、自分の膝の上によじ登り、笑いかけてきた幼子は今頃――。

罗景真は書簡を受け取ってからすぐ、陶雪蘭タオシュエランと陶霖の住む家に向かった。

しかし、そこにあるはずの家は、真っ黒の焼け跡に変わっている。

彼はようやく、何があったか理解した。

彼自身も同じ病で家族を亡くしていたからだ。


村でようやく見つけた子どもは、痩せ細り、土埃にまみれた手で屋台の包子を盗んでいた。

大きな目で、罗景真ルオジンジェンを睨んだ。


そして今日。

葉遠瑶イエユエンヤオがこんな時間に駆け込んでくるので何事かと思えば──。

罗景真は視線を落とす。

寝台の上では、陶霖が静かな寝息を立てていた。

乱れた掛け布をそっと直して、罗景真は床に敷いた茣蓙ござの上でようやく眠りについた。




翌日、陶霖タオリンは熱のせいで、入門者への説明会には出ることができなかった。

さらに数日するとようやく陶霖は回復し、葉遠瑶たちに連れられて巡風門の中を案内され、規則や日課について一通り教えてもらった。

「最初から出られなくて、大丈夫かな」

陶霖が温柔燐ウェンロウリンを見上げて言うと、彼は少し困ったように笑った。

「まあ、あとで聞きに行けば大丈夫だよ」

鄭花澈チョンホワチュウは肩をすくめる。

「どうせ最初は雑務ばかりだ」

そうして数日のうちに、陶霖は門下生としての生活に少しずつ慣れていった。


数日後、罗景真ルオジンジェンは「門下生として必要な物だ」と言って、新しい靴を陶霖に渡した。

門下生が履く、ごく普通の黒い布靴だった。

陶霖の履いていた靴は、底がすり減り、布もほつれている。

もらった靴は、履き心地が良くて、陶霖の足にはほんの少し大きかったけれど、「お前はすぐに大きくなる」と言われた。


新しく入門した弟子は、一月のあいだ特定の師にはつかない。

その間に修練の見学をして、望む師があれば自ら願い出ることになっている。

母に言われた言葉を思い出す。

──巡風門の罗景真という仙師様に世話になりなさい。

陶霖はその一月の終わりに願い出た。

「罗長老。俺をあなたの弟子にしてください」

罗景真はしばらく陶霖を見ていた。

その氷のような眼差しは、相変わらず何も読み取れない。

「わかった」

罗景真は続けて言った。

「人のため、世のためにできることを考え、学び続けなさい」


母のようなことを言う人だ、と思った。

陶霖の母親は、いつも陶霖にこう言った。

「世のため、人のために生きなさい。そうすれば、自ずとそこがあなたの居場所になるはずよ」

母は、自身の命が長くないことを知っていたのだろうか。

母はいつも、陶霖に見本を見せ、そして陶霖が自分でできるようになるまで根気強く教えた。

汚れた衣の洗い方、薪のくべ方、粥の作り方、市井での振る舞い、銭の数え方。

そして、困っている人がいれば、躊躇うことなく手を差し伸べた。

陶霖の母は、時にまだ幼かった陶霖が空腹の時にも見知らぬ人に手を差し伸べて、家に連れ帰り、温かな粥を差し出したのだ。


「お母さんはどうして知らない人を助けるの」

「うーん……なんでだろう。この人たちにも家族がいて、母が陶霖を想うように、この人たちを想う人がいる……そう思う」

「なんで?」

阿霖アーリンはまだ小さいから、わからないか」

母が笑うと、白い肌にほんのり紅が差した。


──罗景真もきっと、そんなふうに母に救われたうちの1人だったのだろう。


「そなたのあざなは、明稀ミンシーとする」


こうして、陶霖タオリンの字は明稀ミンシーとなった。





登場人物

【巡風門】

罗景真ルオジンジェン……長老

張月ジャンユエ……薬術師


罗景真の弟子(名・字・年齢) 

葉英イエイン遠瑶ユエンヤオ・15歳

温安ウェンアン柔燐ロウリン・13歳

鄭知チョンジー花澈ホワチュウ・12歳

陶霖タオリン・11歳


陶雪蘭タオシュエラン……陶霖の母親


用語解説

玉佩ぎょくはい……古代中国から伝わる、ぎょくで作られた装飾品のこと。

木牌もくはい……木で作られた札。身分証や通行証、所属証明として用いられる。

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