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氷の瞳と冷たい雨  作者: 芋洗べに子
第一章 巡風門
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第四話 玉佩




街へ出た翌日から、陶霖タオリンの生活にはすっかり決まった流れができていた。

卯の刻に起きて、葉英イエインとともに宿舎の前の洗い場で道服を洗う。

養心堂で朝食を済ませると、辰の刻には薬堂へ行き、巡風門の裏手の山で張月ジャンユエとともに薬草の採取を手伝う。

巳の刻には薬堂に戻って巡風門の空き地に薬草を干し、午の刻には張月ジャンユエたちが調合した薬草を内服薬や外用薬として使えるようにすり潰したりして薬包紙で包む。

外に卸す薬草は麻袋に入れて、大きな木箱に詰めていく。



その日は薬堂で途中休憩を入れつつ仕事を終えると、申の刻になるので、陶霖タオリンは洗濯場へ向かった。

母の形見の玉佩ぎょくはいを洗うためだ。

洗い物がずらりと紐に干され、少し冷たい風が揺らしている。

ちょうど休憩中なのか、洗濯場には誰もいなかった。

置かれていた木桶を拝借して、持ってきた皀角さいかちを少量の水に浸し、出てきた泡で玉佩を揉み洗いする。

泥で濁った水を変えてまた揉み洗いして、玉佩は元の水色を取り戻した。

玉佩を手巾で包み、懐へ入れる。

洗濯場の向こう側では大抵どこかの門弟が修練をしているのだが、岩場があり、座るのにちょうど良い。

陶霖はそこで少し昼寝をして、宿舎に戻る。


葉英イエインにもらった字帖を開き、空いたところに何度も字を練習した。

陶霖が書けるのは自分の名前と、母から教わった簡単な字だけだった。

葉英の字帖は、彼が入門してすぐの時に罗景真ルオジンジェンにもらったものだそうだ。

美しくも冷たさを感じる筆跡は、真似しやすい。

葉英が何度も練習した跡で埋め尽くされているので、陶霖は薬堂から貰ってきた紙に何度も書くが、筆跡は太くなったり、細く掠れてしまったりと、何度書いても上手く書けない。

そうしていると、外から人の騒がしい音が聞こえてきた。

そろそろ修練の終わる頃だ。

葉英たちが戻ってくる。

夕餉と入浴の後は、葉英が字を教えてくれる約束なのだ。




陶霖タオリンは湯殿から出て濡れた髪を手巾で拭うと、寝間着を着た。

脱いだまま棚に突っ込んでいた道服を手に持ち、ふと気づく──道服の中に隠した母の形見の玉佩が、なくなっている。

ドクン、と心臓が音を立てる。

どうして?

道服を脱いだ時には、確かにここに入れたはず。

誰かが間違えて持って行った?

「陶霖、どうした?」

湯殿から出てきた葉英イエインが、様子のおかしい陶霖に言う。

「ない……」

「何がないんだ?」

「なんで?玉佩がなくなってる」

「どこに置いてたの?」

「道服の中に隠してたんだ、脱いだ時絶対ここに入れたんだ」

「誰かが間違えたのかもしれない。とりあえず湯殿やこの辺りに落ちていないか探してみよう」


その日、陶霖タオリンは遅くまで玉佩を探した。

葉英イエインから字を習うと約束していたが、葉英は自分から、一緒に玉佩を探そうと言ってくれた。

塵世殿の湯殿や脱衣所の隅々まで探し、それから巡風門では顔の知れた葉英が手伝ってくれたおかげで、宿舎で門下生の部屋を一つ一つ聞いて回ることができた。

「きっと誰かが間違えて持って行ったんだ、これだけ皆に聞いて回ったんだから、きっと見つけた誰かが届けてくれるよ」

「うん……」

その日の夜、なかなか寝付けない陶霖に、葉英はこんな話をして聞かせた。



その昔、とある国の山の奥地に、雨を降らせることのできる民族が暮らしていた。

その力は血族に受け継がれるものだったが、代を重ねるうちに血は薄れ、もう何代もの間、彼らの中に「あめふらし」の力を持つ者は現れなかった。


ところがある時、その力を持つ少女が生まれた。

彼女の降らせる雨は小雨に過ぎなかったが、旱魃の多いその国では、それでも神が現れたかのように崇められた。

だが、その力には大きな代償があった。

彼女は一度雨を降らせると、その後は何日も目を覚まさなかったという。


彼女は美貌にも恵まれており、国の皇子に見初められて妃となった。

しかし、やがて皇子は内戦に巻き込まれ、彼女は姿を消した。


その後、誰も彼女を見たものはいなかった。



「その人たちは、どうなったの?」

「さあ、今は誰も知らない……どこかで生きているのか、それとも、もうどこにもいないのか」

「どうしてイエ師兄はそのお話を知っているの?」

「僕が幼い頃、近所のおじさんが聞かせてくれたんだ」

「葉師兄はほんとうにいると思う?」

「どうだろう……陶霖はどう思った?」

「わかんない」



次の日、陶霖タオリンはいつも通り卯の刻に起きて辰の刻には薬堂へ行ったが、あまりにも上の空だったため、ひたすら薬草をすり潰す作業をやらされた。

いつも通りの時刻に薬堂から出ると、陶霖はいつもなら宿舎へ行って字の練習をしたが、今日はそれもやる気になれない。

悩んだ末に、陶霖は初日以来の修練を見に行った。

「腰が高すぎる。重心を下に置くこと。足腰の基礎訓練をしっかりなさい」

「脇が開きすぎている。お前には腕力があるが、速度が劣る。手首や肘をうまく使いなさい」

今は剣使いの修練中らしい。

木剣を使って葉遠瑶イエユエンヤオ温柔燐ウェンロウリン鄭花澈チョンホワチュウの三人が同時に罗景真ルオジンジェンに切り掛かっている。

深青の衣が風に靡いている。

彼はほとんどその場から動くことなく、三人の剣を受け流していた。

ふと、罗景真と目があったような気がした。

いや、気のせいだろうか。




修練が終わり養心堂で夕餉を食べていると、陶霖タオリンの玉佩の話となった。

「ただの玉佩だろ。そんなに大事なのか?」

鄭花澈チョンホワチュウがいつもの口調で言う。

「お母さんからもらったものだから」

「また買って貰えばいいだろ」

次の瞬間、陶霖の身体は勝手に動いていた。

気づけば、鄭花澈チョンホワチュウを殴っていた。

「ちょっと!陶霖!」

葉遠瑶イエユエンヤオが止めに入る。

鄭花澈チョンホワチュウ、君も言葉を控えるべきだ」

鄭花澈チョンホワチュウはそんな葉遠瑶イエユエンヤオに食ってかかる。

「なんで俺が殴られたのに、そいつの方を庇うんだ!」

温柔燐ウェンロウリンが戸惑った様子で鄭花澈チョンホワチュウのそばに寄る。

「そ、そんなことないよ!」

陶霖は荒く呼吸をしながら、鄭花澈チョンホワチュウを睨みつける。

「お前は言ってはいけないことを言った!」

「なにが言ってはいけないことだ!そんなの知らない!」

尚も止まらない陶霖タオリン鄭花澈チョンホワチュウのやりとりに、陶霖を抑えていた葉遠瑶イエユエンヤオが溜め息をついて、鄭花澈チョンホワチュウに言った。

鄭知チョンジー、ちょっと来なさい」


葉遠瑶イエユエンヤオ鄭花澈チョンホワチュウが養心堂から出ていくと、温柔燐ウェンロウリンが心配そうな目で陶霖を見つめていた。

「君のお母さんのこと……前に師尊から聞いて、鄭知チョンジーも知ってたはずなのに、どうしてあんなこと」

陶霖は尚も憤りを隠せないまま言う。

鄭花澈チョンホワチュウは、俺がここに来てからずっと、あんな感じだ」

「確かに鄭知チョンジーは嫌味ばかり言って口が悪いけど、本当に傷つけることは言わないんだ、いつもは」

陶霖は、温柔燐ウェンロウリン鄭花澈チョンホワチュウを庇ってばかりいることに腹が立った。

「どうせ俺はよそ者だもんな。今のは俺を傷つけるために言ってた!」

はらわたが煮えくりかえりそうだった。

ようやくこの巡風門での生活に慣れてきたというのに、形見の玉佩はなくなった。

「あのルオ長老だってそうだ。俺のお母さんのことを恩人だからと言って連れてきたはいいけど、扱いに困ってる。どうせ俺なんて」

「陶霖はまだ師尊のことをあまり知らないけど、その、君だってわかってるだろう?本当に君がどうでもいいなら……」

「そう。俺は()()()()のことは知らないんだ。じゃあね」

温柔燐ウェンロウリンが泣きそうな顔になったことにも構わず、陶霖は食器もそのままに養心堂を出た。



瓦屋根の庵や修練棟、竹垣の間を縫うように石畳の道が伸びる。

用水路の水面には月光がゆらめき、夜風に揺れる竹や苔むした岩の葉がささやくように音を立てていた。

道の向こうで、葉英イエイン鄭花澈チョンホワチュウが話しているのが見えた。

陶霖タオリンはさっと踵を返して立ち去るが、背後から足音が迫ってくる。

「放っといて!」

陶霖はどんなに頑張っても追いつかれることがわかっていたけれど、それでも全速力で走った。

石段で足元が滑り、転んだ。

それでも走った。


陶霖は洗濯場に着いた。

木造の小さな橋を渡り、大きな岩に腰を下ろす。

風がさあさあと吹き、陶霖の身体を冷やした。

はじめは心地いいようで、でもすぐに寒くなって、陶霖はうずくまる。

痛い。

やっとで治りかけていた膝に、また大きな擦り傷ができていた。

足音が近づく。

「陶霖」

鄭花澈チョンホワチュウは返事をしない陶霖の手に、無理やり玉佩を握らせる。

「見つけてくれたの?」

目を輝かせた陶霖を見て、鄭花澈チョンホワチュウは苦い顔をする。

「……ごめん」


夜の冷たい風が、再びざわざわとあたりの木々を靡かせた。

「俺が、盗ったんだ。その、昨日の夜」

陶霖は何も言わず、鄭花澈チョンホワチュウをじっと見ていた。

「本当にごめん。そんなに大事なものだと知らなかった。さっき言ったことも……」

「どうして盗ったの?」

鄭花澈チョンホワチュウは、陶霖から視線を逸らして言った。

「お前が、ずるいと思ったんだ。不幸な顔して、みんなに構ってもらってる」

「……そうか」

陶霖は、手の中の玉佩を見る。


水色の飾り紐。

天青の雫形には、雲を裂くような一筆の曲線が描かれている。


しばらくの沈黙の後、陶霖はふと思い出してつぶやいた。

「……俺は、包子パオズを盗んでいたんだ」

「いきなり、何だよ」

「俺も同じだ」

「……それは、腹が減って仕方なくだろ」

「うん、仕方なく盗んだ。君も同じだ」

「違うと思うけど」

陶霖は玉佩を握り直して、ゆっくりと立ち上がる。

「ここにあるから、これでいいんだ」

冷たい夜風が頬に当たる。

「俺も、殴って、ごめん」

陶霖は鄭知チョンジーに向かって言う。

二人は静かに歩き始めた。

木々を渡る風が、さあさあと葉を鳴らしていた。




登場人物

【巡風門】

罗景真ルオジンジェン……長老

張月ジャンユエ……薬術師


罗景真の弟子(名・字・年齢) 

葉英イエイン遠瑶ユエンヤオ・15歳

温安ウェンアン柔燐ロウリン・13歳

鄭知チョンジー花澈ホワチュウ・12歳

陶霖タオリン・11歳


用語解説

* 卯の刻:6時頃

* 辰の刻:8時頃

* 巳の刻:10時頃

* 午の刻:12時頃

* 未の刻:14時頃

* 申の刻:16時頃

皁莢さいかち……実を砕くと泡立つ植物で、髪や衣を洗う洗浄剤として用いられる。

玉佩ぎょくはい……古代中国から伝わる、ぎょくで作られた装飾品のこと

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