最終話 霖
西の空に、暗雲が立ちこめている。
どこから集まってきたのか、先ほどまで気持ち良いほどに晴天だった空には、雲が散らばっている。
──陶霖か。
数日前、突然研究室に顔を出さなくなったかと思えば、黎で緊急事態のため帰国したのだという。
挨拶もなかった。
罗景真の胸がざわつく。
研究員の一人が外の異変を見て、研究室にいた者たちに慌てた様子で伝えに来たのはつい先ほどのことだ。
外に出ると、軍の者達が皆外に出て、西の空の方を見ていた。
そこには、朝にはなかった雲が集まってきている。
速度から察するに、この玄陽宮の周辺も雨雲に覆われるまでには一時辰もかからないだろう。
罗景真は、雨を降らせる能力を陶霖が持っている可能性があると知ってから、その力について、人に聞いてまわっていた。
陶霖の母親、杨雪蘭が雨を降らせたという、半ば御伽話のような形で伝わっている話を。
旱魃の起きた周辺地域に一晩雨を降らせると、彼女は六日間も目覚めなかったという。
それだけの体力を消費するのだろう。
その他にも直前のことを覚えていないなど、他の長老たちや蘇掌門、諸門会盟に集まった他の門派の者たちから聞き知った情報を繋ぎ合わせると、その症状は霊力が枯渇した際の状態と似ていた。
民の生活を豊かにしたいと語った、真剣な眼差し。
師弟を守るため、自らの身を危険に投じた愛弟子の姿を思い出す。
確かに、事あるごとに、私は言った。
「人のため、世のためにできることを考え、学び続けなさい」と。
──まるで、呪いだ。
その結果が、弟子をまた一人、危険に晒している。
罗景真は丁研究室長にこの場を去ることを伝えると、荷物をまとめて御剣にて西へ向かった。
「あれは……」
皆、西の空を見てざわついていた。
玄に来て一月、空に雲が浮かぶ日は数日あったが、雨は殆ど降らなかった。
それが、どういうことだ。
あれが、奇跡の民の力なのか。
玄の人たちも、明稀に雨を降らせる力があることは知っていたようだ。
西の空を見ると、黎から来た自分や他の研究員たちは質問攻めにされた。
駿成とて、明稀と近しいとは言っても、知っていることは他の黎の人たちとあまり変わらない。
自分が生まれた頃に突如として消息を絶ってしまった皇帝妃が、雨を降らせることのできる一族の民で、皇帝や南西の地域の者たちが雨が一晩降ったことを目撃したということ。
皆が知ることしか、知らない。
明稀にもその力がある可能性は以前から言われていたが、皇帝陛下は明稀が黎に来てから一度もその話に触れたことはない。
近頃は民の間でも、明稀には雨を降らせる能力はなかったのではないかと噂されていた。
いつも自分の隣で笑っていた友人がどこか知らない遠くにいってしまったようで、胸が痛んだ。
「……罗宗師は?」
誰かの声に、駿成ははっと顔を上げる。
気づけば、先ほどまでこの場にいたはずの深青の背は、もうどこにも見えなかった。
西の空が白く光った。
空はまだ明るいのに、雨の匂いがした。
御剣にて出せる最大速度で雷が落ちた場所へと向かう。
進んでいくほど、あたりは暗くなり、次第にぽつぽつと雨が降り出した。
雨足は弱い。
しかし、陶霖の居場所をわからなくさせるには十分だった。
少し冷静になり、霊力が剣に吸い取られていく感覚に、速度を落とす。
雨から身を守る結界も張ったため、霊力を温存しながら進まなければ今日中に辿り着けない可能性もある。
気づけば、青い空はどこを見渡しても見えなくなっていた。
「結界か」
陶霖を守るために張ったものだろう。
効果は大きく三つ。
立ち入ることのできる者の制限、霊力探知、それから結界自体が簡単に破られないように強化までされていると見える。
規模も大きい。
普通の仙師であればまず使う機会のない、高度な技術──この中に陶霖がいる可能性が高い。
「何者だ」
見知らぬ人物が、霧の濃くなった木々の間から顔を出した。
「何をしに来た」
こちらの返答も聞かずに次の質問とは、冷静ではないようだ。
「巡風門の長老、罗景真だ。何が起きているのか聞きたい」
着ている衣から察するに、黎国の兵士、だろうか。
「ここから先は立ち入らせることはできない。突然恵みの雨が降り始めたんだ、それでいいだろう」
聞く耳を持たないようだ。
さて、どうするか。
問答無用で攻撃的な口調でもないのは、こちらの力量を察しているようだ。
相手も計りかねているのだろう、警戒心が伝わってくる。
この規模の結界だ、触れた時点で既に、他の者たちにも自分が来たことは伝わっているだろう。
少し、待つか。
互いに一歩も動かないままじっと相手を見ていると、その後ろからもう一人同じ衣を着た者がやってきた。
「罗宗師」
見たことのある人物だった。
共同研究の間、陶霖の護衛をしていた兵士の一人だ。
「何をしに来たのですか」
「……桓明稀が、いるのだろう」
「……」
後からきた方の兵士は押し黙った。
もう一人に何か言ってから、こちらに向かって話す。
「私ではこの状況を判断できかねます。お待ちください」
──さすが、優秀な護衛らしい。
問答無用で追い返されていたら……こちらも冷静ではいられなかっただろう。
彼が立ち去り、再びはじめに来た兵士と睨み合いとなる。
しばらくすると、傘をさした初老の人物がゆっくりと歩いてきた。
「荷晴殿」
「……ひとつ、約束があります」
「なんでしょうか」
「絶対に、止めないで頂きたい」
「……」
今度は自分が押し黙る方だった。
文字通り身を削り、自身を危険に晒す陶霖を見て、自分は冷静でいられないだろう。
荷晴殿は兵士に何かを話すと、兵士は頷き、来た道を戻っていった。
「少し、話をしましょう」
荷晴殿はいつものように落ち着いた様子で言う。
その冷静な様子に、侍従という近い場所にいながらなぜ止めなかったのだ、と言ってしまいそうなのをぐっと堪えた。
「あなたのことは信用しております」
「……」
「でも、明稀様のことになると、冷静ではなくなる。そうでしょう?」
罗景真は、荷晴の目を見た。
こちらを見透かされているようで、居心地が悪い。
「あなたのことはもちろん、中に入れますよ。そうでなくても、強行突破してでも明稀様の所に行くつもりでしょう」
全て言った通りだったので、罗景真はさらに黙りこくった。
「私が明稀様を止めようとしなかったとでもお思いですか」
「……はい」
罗景真が躊躇いつつも答えると、荷晴は少し笑って言った。
「黎での明稀様は、来てすぐの頃こそ戸惑っておられましたが、常に皇族として堂々と振る舞っていました。
玄へ来て初めて、本当のお姿を知れたように思います。
そんな明稀様が、数日前、玄の皇帝陛下直々に依頼を受けたのです」
「雨を降らせて欲しい、と?」
「はい。その時からもう、断るという選択肢はないようでした。皇族としての立ち振る舞いに戻り、私たちにこう言いました。
この国は私の故郷だ、皆にも協力してほしい、と。
明稀様にそう面と向かって頼まれたのは初めてのことです」
静かに話を聞いていた罗景真に、荷晴が言う。
「罗宗師」
荷晴は、迷いのない目で言った。
「私どもも、明稀様を近くで見てきました。心配しないわけがありません。それでも……彼の意思を尊重し、手助けするのが私どもの役目だと思っております」
「……私に……止めることは、できません」
陶霖は、結界が張られた森のさらに奥にある少し開けた土地に、一人ぽつんと座っていた。
あとから雨避けの結界を外側から掛けたのだろう、髪が少し濡れているが、雨は当たっていない。
静かに目を閉じ、手を前に組んでいる。
それは、祈っているようにも見えた。
「ずっとあの様子です」
荷晴が言う。
罗景真が術符を取り出すと、荷晴がじっと見てきたので口を開いた。
「防風と、周囲を温める効果の結界を追加する」
「……お願いいたします」
外から結界を張っている兵士に声を掛け、結界の維持を交代する。
それから追加の結界符に霊力を込め、結界効果を追加した。
霊力の減りも急激に増したが、罗景真の霊力はまだ余裕がある。
この結界維持担当の役回りに自分も追加しておくよう言うと、罗景真はその場に残り、霊力を注ぎ続けた。
それにしても──いつまで続けるつもりなのだろうか。
いや、考えるのはよそう。
限界までやるのであれば、自分もそれに付き合うのみだ。
陶霖は三日間座り続け、突然力尽きたように倒れ込んだ。
呼吸はしているが、身体は冷たく、脈も弱くなっている。
すぐに寝台に寝かせ、部屋の中を暖め、さらに罗景真が隣に寝て直接身体を温めた。
雨は、陶霖が倒れた翌日まで降り続いていた。
数日経っても陶霖の脈は弱く、体温も低いままだった。
もう何日眠り続けているだろうか。
死ぬ間際のような様子ではない。
時が止まったように、ただ眠りつづけていた。
罗景真は焦っていた。
霊力を注いでも、流れ出ていく感覚があったからだ。
葉英の時と同じ──霊核が、砕けている。
それでも、罗景真は身体を温め、霊力を注ぎ続けた。
荷晴や子元は交代で身体を清めたり衣を変えたり、度々口に水や薬湯で湿らせた綿を含ませて少しずつ水分を摂らせていた。
その間、桓碧雲や玄曜淵も見舞いに訪れた。
だが、静かに眠り続ける陶霖と、その傍で世話を続ける者たちを前に、ただ黙り込むのみだった。
そんな日々は一月も続いた。
「……師尊」
掠れた小さな声に、罗景真はハッと起き上がる。
ぼんやりと開かれたその目は、罗景真を見ていた。
「……」
言葉が出てこない。
ここ数日は脈も以前のような弱々しさではなくなり、体温も徐々に上がってきていた。
青白かった顔に少しずつ血色が戻ってきているのを感じていた。
「……っ荷晴、子元!すぐに薬師を!陶霖が!」
広い屋敷中に響くように叫ぶと、すぐに荷晴と子元が薬師を伴って来た。
皆、言葉が出てこないようで、薬師は横に跪くと、脈を測り、それから眼球や口内などをくまなく調べて陶霖に問いかける。
「状況は、わかりますか?」
「……雨は、降りましたか?」
「ええ。四日間も」
「私は、ずっと、眠っていたのですね」
陶霖はそう言うと、疲れた様子で目を瞑った。
薬師が罗景真や荷晴、子元に向かって言う。
「薬湯を作って参ります。まずは水分を摂らせ、大丈夫そうであれば重湯から摂らせましょう」
静かな足取りで部屋を出ていった。
残された三人は、再び目を瞑る陶霖をじっと見つめていた。
「すみません、まだ、眠くて……」
陶霖の掠れた声に、子元がようやく口を開く。
「ええ、大丈夫です、明稀様。眠っていてください」
その声は少しだけ、震えていた。
罗景真は両手で、陶霖の白い手を包む。
陶霖の頬が緩み、口角が少し上がった。
「あたたかい……」
その声に、罗景真と荷晴、子元は目を見合わせて笑みを浮かべた。
子元が言う。
「兵たちにも知らせて来ますね」
「私も、皇帝陛下に伝令符を」
子元と荷晴が去ると、部屋は静かになった。
しばらく陶霖の顔を見ていると、外から「うおー!」「よっしゃー!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
薬師が薬湯を持って部屋に来た。
「また眠ってしまいました」
罗景真が言うと、薬師は微笑みながら頷く。
「少し起こしましょう」
罗景真が陶霖の身体を起こすと、陶霖の瞼が震え、半分ほど目を開いた。
「薬湯です。お飲みください」
薬師が小さな匙に少しの薬湯を口の中に注ぐと、陶霖の喉がごくん、と上下に動いた。
「げほっ……ごほ」
少しは飲み込めたようだが、苦しそうにむせかえった。
眉を寄せた罗景真を見て、薬師が言う。
「少しずつ、慣らしていきましょう」
「なんで、師尊がここに?」
翌日、朝日と共に目覚めた陶霖は、目の前の罗景真に掠れた声でそう言った。
「……」
黙り込んだ罗景真に、後ろで湯桶と布を持って控えていた子元が言う。
「結界を強行突破して来ました」
「えっ!?」
大きな声を出した陶霖は、げほげほと咳き込む。
「冗談です」
子元が訂正すると、その横で白湯を持って来た荷晴が子元を小突いた。
「雨を追っていらしたのですよ。私が結界内に入れました」
「そう……」
陶霖は話をしながら、上がる口角を抑えることができない。
「師尊も、世話をしてくださったのですか?」
「……」
「ええ。起きている間は常に霊力を注ぎ、明稀様の身体を側で温め続けて……」
「子元」
早口で言う子元を、荷晴が止める。
声を一言も聞かないまま、罗景真は部屋から出ていった。
陶霖は温かい白湯と薬湯を少しずつ飲み、身体を拭いてもらい、衣を着替えさせられると、息を切らして再び寝台に横になった。
薬師が微笑みながら言う。
「少しずつで、大丈夫ですからね」
「……はい」
「ゆっくりお休みください」
子元はそう言うと、続けて陶霖の耳元で言った。
「先ほど言ったことは本当です。一月も眠り続けた明稀様を、一番側でお世話をしていたのは罗宗師です」
子元たちが部屋を出ていくと、途端に静かになった。
陶霖の顔は先ほどから熱いので、誰もいなくなって都合が良い。
外から鳥の鳴き声と、木々のざわめきが聞こえる。
良い部屋だ。
その後の三日ほど、陶霖は時折目覚めるが、数言話すだけですぐに疲れてほとんどの時間を眠って過ごしていた。
「陶霖」
そっと戸を開けて入って来たのは、罗景真だった。
「……師尊」
寝台から身体を起こそうとするが、頭を持ち上げることすらできない。
罗景真が陶霖の身体を抱き起こし、壁を背に座らせた。
どくん、どくん、と心の音が鳴り、ようやく陶霖は、自分が生きていることを実感する。
「薬師殿から……聞いたか?」
寝台の横に座り、躊躇いがちに話し始めた罗景真に、陶霖が首を傾げる。
「そなたの、身体のことだが」
「……はい、わかっています」
罗景真の言おうとしていることがわかった。
今、陶霖は身体に霊力を一切感じていない。
というより、これまで感じていたものが、身体中にあった力が、無くなっている感覚があった。
「霊核、ですね」
陶霖が言うと、罗景真の眉が寄り、酷く辛そうな顔になった。
まるで、師尊の方が辛いみたいだ。
「大丈夫です。覚悟はしていました」
陶霖がそう言うと、罗景真は何かを堪えるように、目を瞑った。
ぐっと握られた両手には、青筋が浮かんでいる。
「……師尊?」
「……」
そっと手に触れると、震えるその手がほんの少し、緩んだ。
「……もう、二度と、こんな危険なことはするな」
開かれた目が、真っ直ぐに陶霖を見る。
その目は、赤く、潤んでいた。
「……はい」
陶霖は、自身の丹田に手を置く。
──ああ、そうだ。
葉英の最期も
「師尊」
「……」
「すみませんでした」
罗景真は眉を寄せたまま、昔のように、大きな手を陶霖の頭に置いた。
それから、陶霖を抱きしめる。
あたたかい。
甘くて、冷たくて、木のような、師尊の香り。
「師尊」
呼ぶと、罗景真は腕の力を緩め、陶霖を寝台に寝かせた。
「……」
「門の方は、問題ないのですか」
「そなたが目覚めるまではと、暇を貰った」
視線を伏せた陶霖に、罗景真は続ける。
「以前、葉英のこともあったためか、蘇掌門が許してくださった」
「では、私が目覚めたら、師尊は……」
「ああ、門に帰る」
「……」
今度は、陶霖が泣きそうになって俯く番だった。
「そなたのおかげで、旱魃の被害は想定よりも出なかった」
罗景真がぽつりと呟いた。
「そなたが雨を降らせた後、黎から旱魃対策のために学者や専門家たちが派遣された」
「……そう、ですか」
「山からの湧き水や川の水量も、平年よりは少なめだが、少しずつ戻ってきているようだ。水を節約して、農作物への被害も少なく済んでいるらしい」
「そうですか……」
陶霖は、ほっと息を吐く。
「皆、そなたに感謝している」
「……でも、私が雨を降らせたことは誰にも」
「突然の長い雨に、雨を降らせる血族のそなたが突然消えたのだ。言われなくても、誰もがそう理解する」
「私はただ、できることをやったまでです」
「それでも、やり遂げた。誇らしく思う」
罗景真の目が細くなり、口角がほんの少し上がった。
「師尊」
陶霖は重たい腕を伸ばして、罗景真の腕に触れる。
「大好きです」
溢れた思いを、そのまま口にする。
「師尊と一緒にいられないのなら、どうなっても良いと思っていた。でも、諦めたくなくなりました。
今は一緒にいられなくても、いつかあなたと一緒に居られる未来を、自分でつくりたい」
「……そなたは、すごいな」
驚いた顔。
それから、また目を細めて口角を上げた。
今日の師尊は、わかりやすい。
「師尊は、どうですか」
罗景真の手を握る。
顔を見るのが、怖い。
「私は……私の、負けだな……」
「負け?」
「そなたの言う通りだ……私は、自分の思いに、見ないふりをしていた」
陶霖の手が、ぐっと力強く握り返された。
「私も、すぐには門を離れるわけにいかない。だが……」
陶霖が期待を胸に罗景真を見上げていると、考えながら話をしていた罗景真と視線が交わった。
そのまま、口付けが降ってくる。
そっと目を閉じると、甘い香りがした。
「そなたのいう未来を、共に見てみたい」
その後、罗景真は蘇掌門に伝令符を送り、陶霖の療養中、この山奥で共に過ごすことになった。
陶霖は山の中で三月の間、罗景真とともに静かな時を過ごした。
陶霖が療養を終えると、罗景真は巡風門に、陶霖は黎に帰った。
桓碧雲は黎に戻った陶霖に何も言わず、ただ、陶霖を長い時間、抱きしめた。
夕餉の席には以前と同じように顔を出すようになったが、身体は完全に元通りというわけではない。
数日に一度は薬師にも体調を診てもらっている。
術符の研究部にもまだ顔を出せず、駿成や江念にも会えていない。
鎮烈は配属先が北方──玄との国境地帯になったようで、陶霖が戻ってすぐ、国境に移った。
薬師から書を読むことや散歩は許可されており、回復のため積極的に散歩などはするようにと言われていた。
しかしどうにも気が乗らず、陶霖は蔵書室から書を借りてきては自室にて過ごす日々を送っている。
それでも夕餉の時には桓碧雲や他の皇族の者たち、数日に一度は容嫣や澄然と共に卓を囲んでおり、陶霖はそれだけで自室に戻るとすぐに眠ってしまうほどに疲れてしまっていた。
澄然は、陶霖の体調のことを知ってか知らずか以前のように無茶なわがままを言うようなことはなく、様子を伺っているようだった。
澄然は賢い。
閉じこもっている陶霖を心配した桓碧雲が外に出るよう言うのを聞いた澄然は、夕餉の席の帰り際に言った。
「明稀お兄ちゃん、明日はいっしょにおそとにいこう?」
「ああ……」
「ねえ、こっちきて」
澄然に手招きされ、棚の影の桓碧雲や容嫣から見えないところで二人は座る。
「どうして、おそとに行きたくないの?」
澄然は陶霖の耳元で、コソコソと耳打ちする。
「んー……どうしても」
陶霖は、どうしてこんなに外に出たくない気分なのか、自分でもわからなかった。
早く回復したら、また研究部にも行けるようになるというのに。
「澄然はね、たまにね、今日はおべんきょうしたくないって時、あるよ」
「うん」
「そういう時はね、お庭に行くんだよ」
「お庭?」
「うん、お庭に行くの。明稀お兄ちゃんもお庭に行ったらいいよ」
「……うん」
翌朝、陶霖は澄然に腕を引っ張られながら、城の東側にある庭園へとやってきた。
城壁に近いが、小丘になったその場所からは、広がる城下が望めた。
陶霖はここまで来るだけで息切れをしてしまい、子元に敷いてもらった茣蓙に座り込む。
「もう疲れちゃったんですか」
もう。と言って頬を膨らませる澄然に、一緒に来ていた侍女が嗜める。
「明稀様はまだお体も万全ではないのですから」
池の周囲には木々が植えられ、青々とした葉が時折風に吹かれてざわざわと音を立てた。
広がる池の水面に、空の青と周囲の木々が反射している。
「……そうか、もうこんな季節だったのか」
陶霖が呟くと、澄然が理解できないというように、首を傾げてこちらを見る。
「ねえ、お池に鯉がいるんだよ!」
「少し休んでから、見るよ」
「あっちに行ったらとんぼがたくさんとんでたんだよ!」
「うん、後で見せて」
「明稀お兄ちゃん、かめは見たことある!?お池の近くにこんなに大きいのがいるんだよ!」
「澄然様、一度にそんなたくさんは見られませんよ」
侍女の言葉に、澄然が再び頬をぷくりと膨らませた。
「今日じゃ見切れないから、少しずつ見せて」
陶霖が言うと、澄然は目を輝かせた。
「ほんとう!?じゃあ、あしたも、あしたのあしたも、いっしょに来てくれるの?」
「うん。澄然がいい場所を教えてよ」
澄然はあと一月もすると、後宮から出て他の年若い皇族たちも住まう宮に移ることになる。
澄然は一緒に過ごす時間が残りわずかということを、わかっているのだろうか。
「じゃあ、今日はなにをする?」
「今日は……お空を見る」
「えー」
陶霖は、澄然とともに丘を登ると、ふかふかの草の絨毯の上に茣蓙を敷いてもらい、仰向けに寝転ぶ。
空は、青かった。
雲ひとつない。
風が強く吹いた。
「明稀お兄ちゃん、かえってきてから、元気ない」
隣で寝転ぶ澄然を見ると、陶霖を見るまんまるな目は少し潤んでいる。
「そんなことは……うん、そうかもね」
「いやなことがあったの?」
「ううん……すごく、楽しかったよ」
澄然はまた「わからない」とでも言うように、まっすぐな目で陶霖を見る。
「玄には、好きな人がいるんだ」
「すきな人?」
「うん。澄然は好きな人、いる?」
「うん。いるよ。明稀お兄ちゃん、母上に、父上と、江念お姉ちゃんと、駿成お兄ちゃんと、あと、侍女のひとたちも」
「鎮烈は?」
「……」
陶霖が聞くと、澄然はわかりやすく不機嫌になったので、陶霖は笑って話す。
「私にも、すごく好きな人がいるんだ……」
「さようならしたから、元気がないの?」
「うん」
澄然は考えるように視線を上に向けて首を傾げ、再び陶霖に目を向けて言った。
「そんなにだいすきなのに、どうしていっしょにいられないの?」
「……」
澄然の真っ直ぐな言葉を聞いて、陶霖はすぐに答えることができなかった。
「明稀お兄ちゃん?」
「ごめん……ちょっと、」
視界が滲む。
止めようとするほどに、涙は溢れ出した。
澄然が陶霖の頭を撫でた。
その手は小さくて、でも、温かい。
「澄然……ありがとう」
「さみしいときは、泣いていいんだよ。父上がいってました」
師尊──。
もう二度と会えないわけではない。
そうわかっているけれど
──大好きなのに、どうしていっしょに居られないんだろう。
「澄然はね、7さいになったらね、後宮をでて、母上とはべつのところに住むんだよ」
「うん」
「でもね、教えてもらったんだ」
澄然はやけに大人びた表情で言った。
「空をみてごらん。空は、どこにいても一つ。どこにいても、つながってる。父上がおしえてくれました」
澄然の、太陽の光に照らされた笑顔が、やけに眩しい。
「だから、だいじょうぶだよ。さみしくても、だいじょうぶ」
「そうだね……」
涙で滲んだ空は、それでも青く、美しかった。
この空の向こうに、師尊がいる。
そう思うだけで、強くなれる気がした。
陶霖には、わかったことがある。
雨を降らせた母はきっと、愛する人を守りたかったのだ。
世の中は、辛く悲しいことで溢れている。
それでも
夜空にうかぶ星を見て、綺麗だと思ったり
木々のざわめきに、心が揺れたり
人のちいさな優しさに救われること
大切な人が今も、この空の向こうで生きていてくれること
会いたいと思って辛く苦しくなるくらい、大切な人に出会えたということ──。
そんな小さなかけらを、ひとつひとつ、心の中にあつめる。
それだけでいい。
またここから、一歩ずつ。
いつか約束通り、一緒に居られる未来を──自分でつくるんだ。
最後まで彼らの物語を見届けてくださり、ありがとうございました。
もしよろしければ、印象に残った場面や、好きな人物など、一言でも教えていただけたら嬉しく思います。
執筆中の番外編(本編に入れたかった景真視点の過去編、R18罗霖療養編)もありますので、そちらもお待ちいただけたら嬉しいです。
また、少しでも「面白かった!」「完結おめでとう!」と思っていただけましたら、ブックマークや評価(⭐︎)で応援していただけると、番外編執筆の大きな励みになります。
ではまた、番外にて。




