第一話 祈り
寒い朝の寝台で過ごすまどろみのような、そんな泡沫の夢のような時間は、ある日突然終わりを迎えた。
玄での滞在も残すところ十日。
玄国皇帝・玄曜淵から呼び出された。
荷晴と子元に身なりを整えてもらい、一月ぶりに皇族らしい公式の服装に身を包む。
陶霖は急に現実に引き戻されたかのような喪失感に襲われながらも、衣のおかげで自然と伸びる背筋と冷やされた頭に引っ張られて、桓明稀に戻った。
脇に荷晴と子元、そして護衛たちを従えて玄陽宮に向かう。
道すがら、視線を感じる。
久方ぶりで忘れていた。
自分は黎国の皇族だ。
以前から好きではなかったこのずっしりと重い衣が、今では陶霖に安心すら与えていた。
「桓明稀殿、研究は順調ですかな?」
「はい。おかげさまで、両国にとって、とても実りある研究となったと思います」
「そうか……」
対面した玄曜淵は、どこか落ち着かない様子でなかなか本題を話そうとしない。
その顔は先月会った時よりも心なしか青白く、少々やつれたように見えた。
「その……玄曜淵殿は、どうかされましたか?」
「ああ……いや、済まない。まわり道せずに言おう。桓明稀殿、力を貸していただけないだろうか」
その言葉を聞いて、陶霖の脈が急激に速くなった。
宮殿の一間に、沈黙が流れる。
「力を、というのは」
玄曜淵は戸惑いながらも答える。
「雨を降らせる力で、我が国を救っていただけないだろうか」
自分の背後の空気が緊張に包まれたのを感じた。
自分に能力がある可能性が高いことを、この侍従や護衛達は皆、知っている。
だが、後ろから感じる緊張に反して、陶霖の緊張は逆に解けていくようだった。
不思議だ。
自分の代わりに怒ってくれている、からだろうか。
「玄曜淵殿」
「はい」
「少々、お時間をいただけないでしょうか」
とは言っても、この様子ではそう悠長に待っていられるものでもないのだろう。
本当はすぐにでも自分は返事をすることができた。
──はい、玄国のためであれば。
しかしまずは、桓碧雲へ伝令符を送らなければならない。
この侍従や護衛たちを落ち着かせる必要もある。
色良い返事と思えなかったのだろう、玄曜淵は少し諦めたように笑って、「ああ、もちろんだ」と言った。
「滞在期間内には返答できるよう、準備いたします」
桓明稀はそうはっきりと伝えると、玄陽宮内に借りた一室に戻りながら、長い廊下で足を止め、二人の侍従と護衛たちに言う。
「この国は私の故郷なんだ。私情を挟んで申し訳ないが、皆にも協力してほしい」
一同が静まり返る。
異様に長く感じた一瞬の後、荷晴が沈黙を破った。
「……それは、明稀様に言わせるまでもなく」
鎮烈が続けて言う。
「私どももこの国にもう一月半も滞在してきました。助けを求める声を、無視することはできません」
陶霖が振り返ると、皆の目は真っ直ぐに桓明稀を見ていた。
玄陽宮内の一室にて、荷晴と子元に指示を出す。
「荷晴、皇帝陛下への伝令符を。子元は玄側に旱魃について持っている情報を確認してきて」
「承知いたしました」
「明稀様、皇帝陛下より先ほど伝令符が届いたところでございます。玄陛下が事前に伝令符を使用していたようで」
「わかった」
荷晴から受け取った伝令符に目を通す。
そこには流れるような字体で桓碧雲の思いが記されていた。
『雨隠の集落であったことはわからないが、明稀には雨を降らせる力があるのだろう。
どのようにするのかは私にはわからない。
そなたの身に危険が及ぶことだけはわかっている。
できれば断って欲しい。
しかし、やるのは自分ではなく、明稀だ。
そなた自身で決めなさい』
さらにその下には、杨雪蘭が雨を降らせた際の様子についても事細かに書かれていた。
倒れた時は脈が弱く、速かったこと。
雨を降らせる際には霊力に似た力を消耗するらしく、症状は霊力枯渇に近かったこと。
六日眠りつづけるなかで、脈と顔色は徐々に回復し、目覚めたこと。
雨を降らせる少し前からの記憶を失っていたこと。
しばらく身体が弱り、まともに歩くこともできなくなっていたが、一月ほどかけて療養すると回復して元通りになったこと。
最後に、短く追記されている。
『もしやるなら、すぐに伝令符を飛ばしなさい。良い薬師を送る』と。
それから半時辰後、戻ってきた子元が現在の地域ごとの状況と行っている対策について詳細を記したものを陶霖に手渡しながら言った。
「旱魃は広範囲に及ぶようです。この玄陽宮周辺の地域はそれほどでもないようですが、特に西側の地域では山からの湧水の量が減ってきており、生活用水として主に使用される川の水量の減少が顕著にあるそうです。
玄ではここまでの旱魃は未だかつて起きたことがなく、黎のように対策を行っていないためこれ以上の対処はできないようですね。
あとはひたすら雨が降ってくれることを願うしか……」
陶霖は聞きながら書付に目を通し、黎で行っている対策を今から持ち込んでも、間に合わないことを悟った。
共同研究はこれで終わりだ。
次はいつできるのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。
師尊に話そうか少し迷って、すぐにその考えは捨てた。
必要ない。
迷いなどないのだから。
罗景真を見れば、きっと門にいた頃の、すぐに泣き言を言ってしまう自分が顔を出す。
伝令符に返答の書面を書き、霊力を込める。
久しく行っていなかった皇族としての立ち振る舞いに、急に疲れが出て少し寝台に横になって休む。
半時辰ほどしてから、桓碧雲から返答が来た。
『くれぐれも気をつけて、安全な場所で行うこと。
薬師と共に追加の護衛も送る。
雨を降らせた後のことに関しては、周囲の者に任せなさい。
長期間の玄での滞在になるため、玄曜淵殿にも雨隠の能力とその反動については説明するよう荷晴に伝令符と書簡を送った。
能力を使い、療養をできる場所も玄曜淵殿が見繕ってくれるだろう。
黎側での国民に対する説明は私が責任を持つ。
玄、黎両国において、雨隠の能力に関する一切の情報は知らせない。
明稀の所在も、黎で療養しているとだけ民には伝える』
最低限のことだけが書かれたその字は、先ほどのものよりもさらに流れるような字体だった。
数日後の夜間、黎から来た薬師と追加の侍従、護衛の者たちと共に、玄曜宮から離れた山の奥地へ向かった。
共同研究に関わっていた者達には、黎国で問題が起きたため先に帰国したと玄国側から説明がされた。
玄曜淵から貸し渡された山奥の屋敷は、数代前の玄皇帝から使用されている離宮らしい。
道案内や伝令のために玄の政務官も加わり、休憩を挟みつつ御剣で一日かけての移動だった。
人目を避けるため、普通なら半日で移動できるところ、かなり遠回りをした。
到着後は用意してもらった湯で身体を清めると、早めに床に就いた。
明日、雨を降らせる力を使う。
頭では本当に自分に雨を降らせることなどできるのだろうか、などと思いながらも、本能が覚えているようで、できるという確信の中で眠りについた。
翌朝、外は晴天であった。
玄に来てから、気持ちが良いほどの晴天が続いている。
山の中は空気が澄み、ざわざわと木の葉が擦れて音を鳴らす。
遠くから聞こえる鳥の声。
巡風門を思い出す。
荷晴と子元の不安気な表情を見て、少し笑った。
入念に打ち合わせはした。
とは言っても、自分が療養する期間のことについて話し合っただけだ。
黎でのこと、共同研究のことに関しても、もうすでに自分の手から離れている。
今はただ、自分の力に集中するのみだった。
血と涙。
感情が強いほど、能力が強くなる、とはどういうことなのだろうか。
西側の地域だけで構わないと玄側からは言われたが、陶霖の心づもりは決まっていた。
国全体に雨を降らせる。
目覚めなくても構わない。
不思議と、恐怖はなかった。
自分の中の何かが、「これは自分の役目なのだ」と静かに理解しているみたいだ。
滞在する屋敷から少し離れた、山の中にぽっかりと空いた場所。
ふと、懐から薄紅の巾着を取り出す。
長く身につけていた玉佩はこの中にしまってある。
空にかざすと、陽に当たってきらりと光った。
空は雲ひとつない。
頭の中は空っぽですっきりとしている。
師尊の顔が一瞬脳裏をよぎった。
手に握った小刀で、指を切り付ける。
痛みとともに、真っ赤な鮮血が溢れ出した。
青の玉佩に、母を思い出す。
朧げになった記憶の中の母の顔は、もうすでに思い出すことができない。
でも、覚えている。
陶霖を生かすと決めた、あの力強い目を。
巡風門での入門試験。
自分を受け入れてくれた師兄たち。
いつも優しく寄り添ってくれた葉英。
周囲の人をよく見ており、そっと助けてくれていた温安。
憎まれ口ながら、いざという時には頼りになる鄭知。
黎での日々は、気づけば一年を超えていた。
陶霖を見て、ただ会いたかったと言った桓碧雲。
手作りの巾着をくれて、黎の綺麗な星空を見せてくれた澄然。
身分の違う陶霖を友として見てくれる、駿成。
黎での頼りがいあるもう一人の友人、鎮烈。
いつもそばで見守り支えてくれている、荷晴に子元。
巡風門にいた時から本当の陶霖を見てくれていた同志、江念。
もう一人、先ほどからどうしても頭に浮かぶ顔は、頭の隅に追いやろうとしても、いつだって陶霖の感情を支配する。
つい先日までの日々が、もうずっと昔のことのようだ。
過去になるほどに、それは夜空の無数の星のように心の中で輝きを増し、瞼の裏に焼きついて離れない。
様々な感情が込み上げる。
こぼれ落ちた涙が、胸の前で組んでいた手に落ちた。
ただ、祈る。
皆が、この先もずっと、幸せでありますように。
次回最終話です




