第一話 泡沫
共同研究が始まると、日々が想像以上に慌ただしくなった。
玄と黎では術符の理論も考え方も大きく異なり、研究はたびたび夜更けまで続いた。
互いの術符を分解しては組み直し、失敗と検証を繰り返すうちに、少しずつ双方の長所を生かした形が見え始める。
これには罗景真の尽力が大きかった。
そもそも両国で使う目的が異なる術符を組み合わせようという考えをやめて、それぞれの使用する術符をどう改善したいかについてを入念に話し合ってから改良に取り組むようになると、皆の目的意識も高まり効率が格段に上がったのだ。
研究は決して順風満帆ではなかったが、それでも陶霖にとっては、胸の躍る日々だった。
気づけば、皆が帰った後に罗景真と二人で残ることも増えていた。
昔と変わらぬ口調で交わされる何気ない会話が、陶霖にはただ嬉しかった。
共同研究がはじまって五日目。
桓明稀の侍従である荷晴は、ここ数日、腹の中に重石でも抱え込んでいるような気分だった。
明稀様が、わがまますぎるのである。
黎にいた時には、時折こうしたい、という主張はあっても、こちらの助言にも耳を傾けてくださっていたのに……。
共同研究がはじまってからは毎日、研究室から出てくるのは子の刻を過ぎてから。
間食や夕餉は研究室へ届けているが、もう少し休んで欲しいものだ。
護衛の者が送り迎えをしているが、宿舎に戻ってくるといつも眠った明稀様を罗宗師が抱えている。
それが数日続いたため、ついに子元を研究室まで迎えに行かせたものの、その晩も結局、明稀様は罗宗師の腕に抱かれて帰ってきた。
子元を問い詰めると、どうやら研究が興に乗っているらしく、迎えに行って声を掛けても「あと少し」と言って結局寝落ちするまで続け、見かねた罗宗師が抱えて連れ出す、ということを続けていたようだ。
護衛の者が運ぶのを代わると伝えても、「今動かすと起きる」「休ませてやらないと」と言って断られたらしい。
……彼らは立場上、明稀様に触れることも躊躇いがあるため、護衛に対して強く言うこともできない。
宿舎へ戻る頃には、衣服も髪も乱れきっている。
寝台へ寝かせる前に着替えさせるのが精一杯で、湯浴みすら数日まともにできていない状態だった。
明稀様はただの研究者ではない。
黎の皇族としての体面は保たなければならないのだ。
荷晴と子元はそのために側に置かれている。
疲れ果て、湯浴みもしない姿を晒しながら研究室へ籠り続けさせるなど、荷晴の矜持において許せることではなかった。
だが、それ以上に荷晴が理解できなかったのは、明稀様自身のそういった変化についてだ。
黎にいる間から明稀様は勤勉で努力家であり、毎日明朝から夜まで予定が入っていることが平常であった。
それでも朝餉と夕餉は同じ時間に召し上がられていて、湯浴みを好み、髪はいつも子元に手入れさせていた。
術符研究部へ通っていても、時間になると戻ってくるのが常だった。
……なぜ、急に?
というのが黎に来てからの荷晴と子元の疑問だった。
翌朝。
「あまり遅くまで研究なさると、お身体が心配でございます。それに、罗宗師にもご迷惑が」
そう伝えたところで、ぼんやりと朝餉を召し上がっていた明稀様の眉がぴくり、と動いた。
「……迷惑だって、言ってた?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
「そうですか」
それだけ言うと、明稀様はどこか満足そうな表情で食事を続ける。
「明稀様」
「はい」
「本日は遅くとも亥の刻にはお戻りください」
「……」
「それから、そろそろ湯浴みも必要です」
しばしの沈黙の後、明稀様が小さく口を開く。
「……今から入るのは?」
荷晴は思わず息を吐いた。
「そうなることと思い、子元に用意させておりますよ」
湯浴みのあと、子元に髪の手入れをされながら、明稀様が言う。
「今後も湯浴みは朝にしてもいいかな?」
「構いませんが、髪の手入れの時間を考えますと、研究室に行く時間も遅くなりますが構いませんか?」
片付けをしながら明稀様の申し出に嬉々としてお伝えしたものの、黙り込んでしまった。
どうやら、研究室へ向かう時間が遅くなるのが気に入らないらしい。
「……」
「夜の方が捗るようですし、朝にするのは構いませんよ?」
もうひと押しと思い声をかけるも、明稀様は口を窄めて何やら考えてから、口を開いた。
「軍営の湯殿を使うのは……」
「いけません」
髪を梳きながら静かに話を聞いていた子元が即座に遮った。
「お言葉ですが、明稀様は玄に来てから自らの立場をお忘れではありませんか?」
「子元」
荷晴が制止する。
「今は何を言っても逆効果です」
「……」
子元は不満げに口を閉ざした。
その間に、明稀様は立ち上がり、逃げるように宿舎から出ようとしていた。
「明稀様!」
荷晴が呼び止める。
「まだ髪が乾いておりません」
その後、研究室に行くまでの間は大人しくしていたものの、今夜もきっと遅くなるのだろう。
まるで子どもの世話だ。
……だが、これまでの明稀様が聞き分け良すぎたのかもしれない。
不機嫌を隠しきれていない子元を宥めながら、荷晴はむしろ妙なやりがいを感じていた。
その晩、亥の刻。
「……明稀様、お迎えに上がりました」
荷晴はついに自身で直接研究室まで迎えに来ていた。
明稀様は罗宗師、駿成殿とともに術符を書いている様子で、私が入ってきたことに気づきもしない。
罗宗師は戸を開けた瞬間からこちらに視線を向けていた。
その鋭い視線に、少したじろいだのは見抜かれなかっただろうか。
「陶霖」
罗宗師に呼ばれた明稀様は、罗宗師を見てから、こちらを見た。
しばらく何も言わずにじっとこちらを見て、それから手元の術符に目をやった。
「……」
……明稀様の頬が膨らんだ。
罗宗師は表情こそなにも変わらないものの、再び「陶霖」と声をかける。
「……もう少しだけ」
明稀様が、そう呟いた。
罗宗師は小さく息を吐くと、こちらに向かって歩いてくる。
彼の体つきは骨格も筋肉のつき方も恵まれていて、なにより背丈が高い。
そしてその目は吊り目の三白眼で、話していても表情が変わることはない。
目の前に立たれると、皇帝陛下に並ぶほどの威圧感を感じるのだ。
「荷晴殿」
「はい」
「本日も私が責任を持って宿舎まで送り届けます。構いませんか」
「いえ、これ以上罗宗師にご迷惑をおかけするわけにはいかないため、本日はこうして参りました」
「迷惑ではないが?」
結局荷晴は、罗景真が宿舎まで送ることを受け入れた。
しかし侍従としての立場もある。
その日から、研究室を出る頃には必ず自分か子元のどちらかが迎えに行った。
それから数日、観察してみて気づいたことがある。
罗宗師は、眠った明稀様を運ぶことに躊躇いがない。
冷えを気にして、掛け布でくるみ、近くの宿舎に戻るだけなのにわざわざ防風効果のある結界符まで使用してしまうのだ。
明稀様を抱えて宿舎に入り、そっと寝台に寝かせると、掛け布をかけてから「では、失礼する」と一言残してすぐに部屋を出ていく。
着替えや湯浴みの支度には手を出そうとしない。
意識的なのか、無意識なのか、こちらが止めるべき行動は取らないのだ。
「荷晴殿」
荷晴はその日も亥の刻に迎えに来ると、突然護衛の一人、鎮烈に話しかけられた。
「何でしょう」
「なぜ、罗宗師の行動をお許ししているのですか」
「……」
鎮烈は、黎で術符研究室に出入りし研究を手伝っていた訓練兵で、駿成殿の師兄でもあったと聞いていた。
質問の意図が分からず、少し考える。
「許す、とは?」
「他国の者がお身体に触れることを、安易に許して良いのでしょうか」
……ああ。と、荷晴は思う。
「罗宗師は明稀様の師ですから」
「それでも、今は立場が違います」
この男は、罗宗師に少なからず敵意を持っている。
それは護衛としての矜持なのか、それとも……。
「私ではなく、明稀様に直接話してみては?」
「……」
侍従の自分に言われても、どうすることもできない。
それに、明稀様がそれを許しているのだから、それが答えだ。
──そこまで考えて、ふと、ある可能性に思い至ったが、侍従の言及することではない。
自分は侍従だ。
明稀様が気品を失わず、健やかに過ごしてくだされば、それで良い。
夜も更け、研究部に残っているのは陶霖と罗景真だけになっていた。
長卓の上には術符の試作や書き損じの黄紙が散乱している。
室内用に組まれた明火符の明かりが、ぼんやりと室内を照らす。
「次にまた共同研究ができたら、今度は生活に役立つ法具についても新たに作りたいと思っているんです」
陶霖は筆を走らせながら、何気ない調子でそう言った。
「法具?」
「はい。実はまだ個人的にしか考えていないのですが、霊石を人工的に作れないかと考えておりまして」
罗景真の筆先が止まる。
陶霖は気づかないまま、机の上の術式を書き直しながら続けた。
「黎は術符研究にかなり力を入れています。研究部の結界にも大量の霊石を使用しているのですが、消費が激しくて……しかも玄から仕入れている貴重な資源です。
それなら、個人でも賄える形にできないかと思って」
「……ほう」
罗景真の吊り目がわずかに細くなる。
「面白い考えだな。どこで思いついた?」
「これまでは、庶民には霊力を扱えないことや技術秘匿の問題もあって、法具はあまり発展してこなかったでしょう?
でも、もし霊力を持たない人でも扱える法具ができたら、もっと生活が豊かになると思うんです」
陶霖はそこでようやく顔を上げた。
灯りに照らされたその横顔は、昔よりずっと大人びて見える。
「人の豊かさが、“力を持つか持たざるか”で決まらない世の中にしたいんです」
静かな声だった。
けれどそこには、確かな熱があった。
罗景真はしばらく何も言わなかった。
目の前にいるのは、もう昔の、小さな弟子ではない。
黎で多くの者に信頼され、研究を率い、責任を背負い、未来を語る人間になっている。
それなのに。
筆を持つ指にはまだ少し墨がついていて、考え込むと無意識に唇を噛み、気に入らないと頬を膨らませ、褒められればすぐ嬉しそうな顔をする。
──ああ、そうか。
たった一年前なのに、もう何年も昔のように思う。
『いつになったら、私の気持ちに気づいてくださるのですか』
そう言った目も、同じだった。
先ほど夢を語った、まっすぐな瞳。
私は──門に来たばかりのあの脆く壊れそうな子どものままだと、そう思いたかっただけなのかもしれない。
黎で再会した時も、はじめは強行手段を使ってでも連れ帰ろうと思っていた。
だが、不安そうにこちらを見ながらも、まっすぐな目に、自分がいなくてももう大丈夫なのだと悟った。
いや、違う。
自分が認めたくなかっただけだ。
とうに自分が師という立場を超えて彼を見ていたことに。
罗景真は無意識に視線を落とした。
黄紙の上の術式が、一画だけ歪む。
「……」
その瞬間。
「師尊?」
陶霖が身を乗り出してくる。
「師尊が書き損じるなんて珍しい。どこか具合でも悪いのですか」
額にあたたかな手が触れた。
罗景真は一瞬、呼吸を止める。
陶霖はそんなことにも気づかず、真剣な顔で覗き込んでいた。
「熱は……ない?」
近い。
「陶霖」
「近頃はずっと研究部に詰めていますし、ちゃんと眠れていますか?」
今度は頬に触れられる。
「口、開けてください」
「……」
罗景真は深く息を吐いた。
結局、言われるまま口を開ける。
「んー……風邪ではなさそう」
安心したように笑う顔が、近い。
罗景真は静かに陶霖の手首を掴み、そっと下ろさせた。
「私は平気だ」
「でも」
「そなたこそ、休みなさい」
陶霖は不満そうに頬を膨らませた。
その顔を見て、罗景真は視線を逸らした。
本当に、昔から変わらない。
それからしばらく研究を続けていたが、夜半を過ぎた頃には陶霖の筆が止まる時間が増えていった。
「……陶霖」
返事がない。
見ると、机に突っ伏したまま眠っていた。
先ほどまで人の体調を気にしていたのに。
乱れた髪を指先で払い、散らばった黄紙を避ける。
罗景真は陶霖を抱き上げた。
軽い。
昔より成長したはずなのに、腕の中に収まってしまう。
陶霖が、うっすらと目を開けた。
「……師尊」
ぼんやりした声で呟くと、胸元へ擦り寄るようにして再び眠ってしまう。
罗景真はしばらく無言のまま歩いた。
この弟子は昔からそうだ。
葉遠瑶と研究に来ていた時も、よく寝落ちしては葉遠瑶に抱えられて宿舎に帰っていた。
研究部の外は静かだった。
夜風が吹き抜け、回廊の灯りが揺れる。
腕の中の温もりだけが、やけに鮮明だった。
目が覚めると、外は既に明るい。
頭の中には次々に術符の改良案が浮かび、陶霖は飛び起きた。
「おはよう」
「おはようございます、明稀様」
着替えて髪を整えてもらい、朝餉をとると、すぐに研究室まで護衛を伴って向かう。
陶霖は立場上、護衛と侍従を連れて来ざるを得なかったが、あまりうまく役割を与えることができなくて申し訳ない気持ちになる。
何せ、研究のために滞在しているのだ。
生活の大半は研究時間であり、軍営にある宿舎から研究室までは玄国の兵に見られることもあるため身なりを気遣い護衛をつけているが、実際に必要なのはその時だけである。
近頃、侍従二人の目が厳しい。
黎にいた時には夕餉は会食の時間だったこともあり、規則正しく生活をしていたが、ここでは術符研究のみに時間を使える。
他の皆は食堂へ食べに行っているが、陶霖は立場上それができない。
しかし、食事は研究室まで届けてもらっているので夕餉の時間に宿舎に戻る必要もない。
何より、夜は静かで研究の捗る時間だ。
陶霖の予想通り罗景真と駿成は術符に対して同じくらい多くの熱量を持っていたため気が合うようで、そこに沈秀恒、玄の術符研究員に他の仙門の長老と門下生二人も含め、計十名が陶霖の班になっている。
今回の共同研究では、両国から集まった研究者たちが班ごとに分かれ、それぞれ改良したい術符について研究を進めていた。
うまくいけばこのままの班で二月、何かあれば班変えも検討するということで、黎側では陶霖が、玄側では軍の術符研究室長が取り仕切って研究を進めている。
とは言っても、玄に来てからは陶霖はもてなされお膳立てされてばかりで特にこれといって黎の取りまとめ役としては動いていない。
玄の丁研究室長が研究者としても取りまとめ役としてもとにかく有能な人物で、陶霖はひたすら彼に甘えさせてもらっているような状況だ。
それにより、研究者の一員として、皆と楽しく研究に集中させてもらっている。
朝、研究室へ向かうとまずは研究室の片付け、昨晩書いた術符の見直しと整理から開始する。
それが済むと、術符を使って実験を行う。
仙門出身者が多く、霊力不足に悩まされないことも研究を加速させていた。
そもそもが、玄の他の仙門から来た長老や門下生、玄の術符研究員も、皆が術符研究に情熱を注いでいる者たちの集まりであるため、相乗効果で熱量を産んでいく。
陶霖たちの班は現在、静音符の改良を進めている。
この術符はどちらの国でも汎用性高く使用されており、今回の共同研究向きだということで真っ先に研究が決定した。
この静音符の後は複数種類の結界符の改良と開発を進めようということで方針が決まっている。
研究期間は二月。
長いようで、きっとあっという間に違いない。
実験が終わると、得られた情報をもとに術符の解析を行う。
霊力の消費量、静音精度、それから特定の音域における効力の高さや持続時間など、様々な角度から分析し、それをもとに再び改良した術符を作成していく。
夜まで皆で話し合いながら、基本的にはこの作業の繰り返しだ。
「……陶霖、どうしよう」
横で大きめの黄紙に慎重に術を書いていた沈秀恒が、突然眉尻を下げてこちらを見た。
陶霖は尋常ではない様子に眉を顰める。
「どうした」
「いきなり墨の匂いがとんでもなく臭くなったんだ」
泣きそうな声で訴える沈秀恒に、陶霖は思わずにやけそうになる口元を必死で引き締めながら答えた。
「なんだって!?それは大変だ、どうして突然」
「……陶霖」
今度は反対側から罗景真に名前を呼ばれ、振り向く。
「……」
陶霖の喉が、ゴクリと鳴った。
「陶霖、どうにかしてくれよ」
反対側で情けない声を出す沈秀恒。
陶霖の背中を、冷や汗が伝う。
「陶霖?」
他の人から見たら、罗景真はただ陶霖の名前を無表情で呼んでいるだけのように見えるだろう。
だが、陶霖にはわかる。
罗景真は、怒っている。
「……すみません」
後ろから、「なあ、陶霖……」と沈秀恒。
「解く方法は?」と問い詰める罗景真。
「ええと、一炷香ほどでなくなります……」
陶霖が言うと、罗景真は「はあ」とわかりやすくため息を吐いた。
「ごめん、すぐなおる」
慌てて沈秀恒に言うと、沈秀恒は頭に疑問を浮かべている様子である。
「俺がやった」
「……」
沈秀恒はそれを聞いて、黙り込む。
「……あははは!!」
突然大笑いし出した沈秀恒に、班の者たちが何事かと手を止め、こちらを見ている。
「いや……君はよく葉師兄とイタズラをしていたけど、まさか今……」
腹を抱えながら言う沈秀恒に、陶霖口を窄めながらちらと罗景真を一瞥した。
その目は細くなり、口角が少し上がっている。
陶霖はこっそりと息を吐いた。
「随分と怯えていたな」
「……師尊」
陶霖が気づいて罗景真を睨むと、罗景真の吊り目が更に細められた。
「何、何があったんだよ?」
席の向かいからの駿成の言葉に対し、陶霖は答える。
「イタズラに失敗した」
「これはおそらくあれだろ、術をかけられた者だけが物の匂いをとんでもなく臭く感じるっていうあの……」
「「劇臭符」」
陶霖と沈秀恒の声が重なり、二人でげらげらと笑いあう。
この術符は葉英のお気に入りの術符で、一緒に任務に行った者が度々仕掛けられては地味に困らされていたものなのだ。
周囲の研究員たちは再び突然笑い出した二人を怪訝そうに見ていたが、陶霖と沈秀恒だけは腹を抱えて笑っていた。
この出来事をきっかけとして、研究員たちのなかでいたずら術符の開発と実際にそれを使用したいたずらがはやったことは、絶対に黎へ持ち帰る研究報告書には書くことはできない。
その夜、研究が終わった頃には、既に亥の刻をまわっていた。
他の者たちは片付けを終え、それぞれ宿舎へ戻っていく。
沈秀恒は帰り際まで劇臭符の話を蒸し返して笑っていたが、駿成に肩を叩かれながら連れ出されていった。
気づけば研究室には陶霖と罗景真だけが残っていた。
明火符の灯りが静かに揺れ、紙の擦れる音だけが響く。
陶霖は筆を置くと、ふう、と息を吐いた。
長時間座っていたせいで肩が重い。
すると、向かいからすっと手が伸びてくる。
「もう休みなさい」
罗景真はそう言いながら、陶霖の手から筆を抜き取った。
「でも、あと少しでこの術符が……」
「昨日も同じことを言って、結局寝落ちしていた」
低い声に、陶霖は不満げに口を窄める。
罗景真は小さく息を吐くと、乱雑に積まれていた黄紙を整え始めた。
それはもう、ここ数日で見慣れた光景だった。
術式を書き終えた紙は左へ。
失敗したものは束ねて右へ避ける。
昔から、師尊はこういうところが妙に細かい。
「……師尊」
「何だ」
「……なんでも、ありません」
陶霖はぼんやりと思う。
こんな時間が、あとどれくらい続くのだろう。
共同研究が終われば、自分は黎へ戻る。
師尊も巡風門へ戻る。
胸の奥が、きゅう、と痛んだ。
術符を書く。
捗ることももちろんそうだが、この時間を終わらせたくなくて、こうして遅くまで残って研究の続きをしている。
それから──。
眠ったら運んでくれるから、寝たふりさえしているのは、内緒のはなし。
温かくて大きな師尊の腕の中も、甘くてほろ苦い匂いも、その時だけは、全部、陶霖のもの。
「陶霖、はやくおいで!」
葉英に呼ばれ、陶霖は皆の揃う瑞果舗の前まで駆け寄る。
「ほら、陶霖の分」
「ありがとう」
「師尊も少し食べてみて!」
鄭知の言葉で、自分の隣に師尊がいたことに気づいた。
「ああ」
師尊はそう言って、鄭知の糖葫蘆を一つ食べる。
大きな口に棗が飲み込まれていき、鮮やかな赤が目に焼き付く。
それがすごく美味しそうに見えたので、陶霖は自分の糖葫蘆を一つ食べてから、師尊に差し出す。
「俺のも食べてください」
「ああ。ありがとう」
再び罗景真の口の中に棗の実が入ると、飴のついた唇を舐める舌が目に入った。
──どうしてこんなにいけないものを見ている気持ちになるんだろう。
そう思いつつも、場面は移る。
書舗に入ると、罗景真が奥の方で何やら分厚い書を開いている。
「何の書を読んでいるのですか?」
「ああ、過去の黎との共同研究記録だ。そろそろ法具にも手を出せそうなので、復習と思ってな」
そうだ。
共同研究は、まだ一回目だったはず……。
でも、自分はまだ危険任務にも行けないから、共同研究には関われない。
どうしよう。
早く大きくならないと、置いて行かれてしまう。
法具の発案をしたのは自分なのに。
研究を進めないで……。
「師尊、俺のことも研究に連れて行ってください」
「……どうした?そなたは術符に興味など持っていなかっただろう」
「え……」
罗景真は手に持った書を買うと、陶霖を置いて外に出て行ってしまう。
「まって、師尊!」
慌てて追いかけようとするのに、手を引かれて動けない。
「明稀お兄ちゃん」
振り返ると、澄念が陶霖の手を引いていた。
陶霖の身体はいつのまにか大きくなっていて、澄念を見下ろしている。
「桓明稀」
「……父上」
はっとして再び罗景真を追いかけようとするも、身体がその場に縫い付けられたように動かない。
「師尊!」
置いて行かないで
離れて行かないで
師尊──。
「……師尊」
文机に伏せて眠る陶霖が、ぽつりとつぶやいた。
顔に掛かった髪を指で避けると、両の目から涙が静かに流れ落ちている。
「陶霖」
名前を呼ぶと、眉間に皺が寄り、さらにぽろぽろと涙が溢れた。
「師尊っ……」
この共同研究が終われば、再び陶霖は黎に戻り、自分は巡風門に戻る。
今だけ優しくするなど、後が辛くなるとわかっている。
──この離れがたさは、何なんだ。
「……」
術符の共同研究など、自分が行かないわけにはと名乗り出た。
そんなわがまま、言わなければよかった。
会える時間が多いほど、喪失感は大きくなるのだと、なぜ自分は気づかなかったのだろうか。
そう、自分はただ、一目でもいいから、陶明稀に会いたかったのだ。
薄紅の唇が目に入った。
そっと、柔らかな唇に指先を触れる。
ふるりと瞼が震え……潤んだ目が開いた。
「……っ」
言葉にならない声が、陶霖の口から漏れる。
──気づくと、唇を重ねていた。
そっと触れただけなのに、胸の奥から熱が全身に広がり、手先まで脈を打ちだす。
離すと、潤んだ瞳が見開きこちらをじっと見ていた。
はっとして身体を起こした陶霖は、耳を真っ赤に染めて俯いているが、再びこちらを見た。
目は涙と羞恥で潤み、戸惑いに唇が震えている。
「師尊……」
腕にそっと指先が触れた。
再び、どちらからともなく近づいて、唇が触れ合う。
腕に触れた手が、震えている。
頭の後ろに手を回すと、陶霖の口から声にならない吐息が漏れ出た。
全身が脈打ち、唇が燃えるように熱い。
──止められない
「明稀様」
長い口付けの後、戸の外から声が聞こえ、二人はさっと距離を置いた。
「眠っていなさい」
罗景真はそう言ってまだ息の荒い陶霖を抱き上げる。
陶霖が静かに胸に擦り寄ってきたのを見ると、研究室を出る。
「なかなか出て来ないので、様子を見に伺いました」
「今しがた、送ろうと思っていたところだ」
荷晴に答えると、彼はいつもの柔和な表情で「そうでしたか」と言い、共に宿舎へ歩く。
陶霖が身じろぎする。
眠れないのだろう。
少しの罪悪感はあるが、不思議と気にはならない。
……いや、どうでも良いのだ。
きっとこの弟子もわかっている、こうしていられるのはこの時間だけなのだと。
ならば良いではないか。
その後も研究の日々は続いた。
夜更けまで術式について語り合い、眠気に負ければ師尊に抱き上げられて宿舎へ戻る。
荷晴や子元も研究室に残る陶霖を止めようとしなくなり、護衛と罗景真に送り迎えも任せるようになっていた。
師尊はますます陶霖に甘かった。
夜の研究室ではどちらからともなく口付けをするのに、互いの想いを確認するような言葉は一切口にしなかった。
そんな日々が、当たり前のように続いていく。
玄へ来てから、雨は不思議と少なかった。
降っても長くは続かず、地面を潤すことなく止んでしまう。
そういえば、ここ数日は研究室でも時折そんな話が出ていた。
今年は山の水量が少ない、と。
軍営でも節水の指示が出はじめているらしい。
だが陶霖は、その時は深く考えていなかった。
今はただ、この時間が終わってほしくなかった。




