第二話 帰る場所
玄との同盟締結から、二月後。
陶霖たちは再び玄へ向けて出発した。
今回玄へ赴くのは、陶霖、駿成、そして志願した四名の研究員たち。
それから荷晴と子元、護衛として鎮烈を含む数名の兵も同行する。
国内で視察に行く時と同様に、霊力を温存しておくため、御剣を交代でしながら玄の国境まで移動する。
国境で迎えの馬車に乗ると、頂だけがうっすらと白くなった山々を眺めながら、長時間の旅となる。
陶霖の胸は落ち着かなかった。
到着翌日の休息日には、巡風門に行く予定だ。
……自分がこの国を去ったことを思えば、どんな顔で迎えられるのだろうか。
「緊張してる?」
駿成が、にやりと笑った。
「……少し」
「少し、って顔じゃないけど」
そう言われて、陶霖は思わず苦笑する。
「出身の門にも行くんだろ」
「うん」
短く答えると、それ以上の言葉は出てこなかった。
それにしても──。
前回訪れた時もだが、馬車での玄陽宮への山越えは身体に堪える。
御剣で移動すれば一晩で行けるところを、馬車では五日かけての移動となる。
自分で御剣飛行を使って行く方が遥かに楽だ。
駿成や研究員たちは疲労困憊した様子で馬車の揺れに耐えていたが、陶霖が「歩いたら?」と言うと、皆が目を輝かせて馬車を降りた。
陶霖は立場上、用意してもらった馬車から降りるわけにいかない。
荷晴と子元は二人とも顔が青白くなっていたが、侍従としての矜持があるのか最後まで陶霖と同じ馬車に乗っていた。
陶霖は話し相手も居なくなり、静かな馬車の中でひたすらに思考を巡らせていた。
玄陽宮に到着したのは、申の刻だった。
今回一緒に研究をすることになった玄の術符研究員たちに迎えられる。
各仙門から来た有志たちも集まって今晩は食事会になるそうだ。
挨拶が済むと、旅の疲れもあるだろうと部屋で休ませてもらうこととなった。
陶霖に当てられた部屋の前で、鎮烈が尋ねる。
「明稀様、大丈夫ですか」
「うん。……ああ、二人のことも休ませるから大丈夫」
荷晴と子元を見ながら陶霖は答えた。
鎮烈が荷晴と子元に言う。
「お二人ともお疲れでしょう。私にできることがありましたらお申し付け下さい」
「いえ、滅相もない!」
荷晴はいつものように背筋をピンと伸ばしてそう答えたが、陶霖が横から言う。
「二人とも、本当に休んで。顔色が悪い。自分の支度くらい自分で整えるから」
「「明稀様にさせるわけには行きません」」
二人が同時に話し、陶霖と鎮烈は顔を互いに見合わせた。
荷晴と子元は陶霖の侍従になる前から皇族の侍従をしており、精鋭中の精鋭だと桓碧雲からも聞いたことがある。
日頃から仕事を完璧にこなすので、休むことを許せないのだろうか。
「では、私が準備をお手伝いしますので、お二人は休んでいてください」
「ですが……」
尚も引き下がろうとする青白い二人に、陶霖は少々強引に行こうと決めて話す。
「私は仙門の出身です。見ての通り休む必要もないくらい元気だ。それに鎮烈が手伝ってくれるから、大丈夫です。さ、休んできて。また必要になったら呼ぶから」
陶霖は鎮烈を部屋に引っ張りこみながら、入ろうとしてきた荷晴と子元を追い出した。
しばらくの間、戸を叩く音が聞こえていたが、やがて外は静かになった。
「……良かったのか?」
鎮烈に問われ、陶霖は呆れて言う。
「鎮烈も休めと言っていた」
「……」
「それに、あの二人は俺の前で本当に休むことがないんだ。こういう時にすら休まないなんて……きっと立っているのもやっとだったよ」
「そうだな」
鎮烈は笑ってそう言った。
「それで、食事会用の服は?」
「それ……は」
部屋の隅には、運び込まれた木箱や布包みが山のように積まれていた。
「えっと、多分この中にあるはず」
「……」
二人は無言で端の木箱から順に蓋を開けていく。
幸い、衣が入った箱はすぐに見つかった。
しかし、そこから先で二人の手は止まる。
「で、どれを着るんだ?」
式典や公務の際に着る礼服が入った箱には、十着ほどの衣が整然と収められていた。
「……まずは髪を結おう。この飾りを付けるから、結い方もそれに合わせて」
「その結い方はどうやるんだ」
「まずここで髪をこんな感じにしてこれで縛ってから、この冠帽を着けてた」
「よし、やってみよう」
鎮烈が陶霖の長い髪を櫛で梳かしてから結い上げたが、ボサボサで見れたものではない。
「これなら自分でやった方がマシだよ……」
ムッとした顔を見せる鎮烈に、陶霖はため息をついて何とか髪を結い上げた。
「んー、これどうやってついてたっけ」
「この金具は?」
「え、何それ」
「「……」」
陶霖と鎮烈は再び顔を見合わせた。
「やっぱり頼みに行こう」
陶霖が言った時、遠くで鐘の音が響いた。
「あと半時辰しかない!」
陶霖たちは慌てて荷晴と子元を呼び戻した。
ほどなくして部屋に現れた二人の顔色は、先ほどまでの青白さが嘘のように消えている。
だが、開け放たれた木箱と、引っ張り出された衣が散乱する室内を目にした途端、二人はぴたりと足を止めた。
それから、まるでいたずらをした子どもを見るような穏やかな笑みを陶霖へ向ける。
「……ええと、よろしくお願いします」
「かしこまりました」
「お任せくださいませ」
そこから先は、あっという間だった。
子元が陶霖を鏡台の前に座らせると、櫛を入れながら手早く髪を梳き整えていく。
黒髪を高い位置でまとめ、ねじり上げてすっきりと結い上げると、最後に玉簪を差して留めた。
公の場に出るための、端正で品のある髪型だ。
「そうやって留めるのか……」
感心したように呟いた鎮烈に、荷晴が静かに視線を向ける。
その無言の圧に、鎮烈はこほんと咳払いをした。
「……俺は護衛に戻っている」
そう言い残し、逃げるように部屋を出ていった。
髪が整う頃には、荷晴がすでにシワを伸ばした宴席用の礼服を広げて待っていた。
子元と二人がかりで袖を通し、襟を合わせ、帯を締めていく。
先ほどまで陶霖と鎮烈が頭を抱えていた衣も、二人の手にかかれば瞬く間に身体に馴染んだ。
陶霖は先ほど無理やり付けようとしていた冠帽が卓の上に置かれているのを見ながら言う。
「二人とも、本当にありがとう。体調はもう大丈夫?」
陶霖が振り返ると、荷晴は一礼して答える。
「少し休ませていただいたおかげで、すっかり回復いたしました」
「ご心配をおかけして申し訳ございません」
そう言って頭を下げる二人に、陶霖はようやく安堵の息をついた。
「……あちらの冠帽は式典用にございます」
子元がそういうと、荷晴が顔色を変えることなく子元に耳打ちした。
「言わなくて良い」
そう言ったのが、陶霖には聞こえてしまった。
食事会場には、既に駿成や他の研究員たち、玄の研究員に仙門から来た仙師らしき人たちが集まっていた。
その中に、罗景真の姿を見つけた瞬間、陶霖の胸が小さく跳ねた。
陶霖が席につき全員が揃うと、玄の術符研究室長が挨拶をする。
「此度のご来訪を心より歓迎いたします。両国にとって実りある研究となることを願って」
最後に杯を掲げると、参加者たちもそれに倣って酒を口にした。
宴がはじまった。
皆、食事の前にも軽く会話をしていたようで、食事をとりながら終始和やかな雰囲気で宴は進む。
陶霖は丁研究室長の隣で、明日以降の予定や玄の研究施設についての会話をする。
時折、視線がどうしても罗景真の方へ向いてしまう。
罗景真は隣に座った駿成と熱心に話していた。
二人とも術符研究には熱心なため、気が合うのだろう。
皆遠くからきている者も多いため、予定通りの時間で食事会はお開きとなった。
翌日から二日間は旅の疲れを考慮して休息の日とされており、黎国から来た研究員たちは仙門から来た者たちとともに、玄の術符研究員に案内されて軍営周辺を見て回ることになっている。
陶霖は事前に桓碧雲にも相談して決めた通り、巡風門に行く予定となっている。
温安や鄭知に会えるかはわからないが、葉英の墓参りだけはしておきたかった。
「陶霖」
会場を出たところで、背後から懐かしい声が聞こえた。
振り返ると、沈秀恒と、その隣に罗景真が立っている。
「沈秀恒……師尊」
「元気だったか? 会えて嬉しいよ」
沈秀恒は一年前と変わらぬ人懐こい笑顔を向けてくる。
「うん。見ての通り元気だよ。秀恒も……元気そうでよかった」
「まあね」
沈秀恒は気軽な調子で肩をすくめた。
「君がいなくなった頃は、しばらく本当に立ち直れないんじゃないかと思っていたけれど」
そこでわざとらしく声を潜める。
「南渓鎮の酒楼に、とても優しい子がいたのを覚えているか?」
「いや……」
「その子が慰めてくれてね。今は会えない時にも、文のやり取りをする仲なんだ」
一瞬きょとんとしたあと、陶霖は思わず笑った。
「それは……よかった」
「ああ。だから気にするな」
その言葉に込められた意味を察し、陶霖はほっとすると同時に、胸の奥がちくりと痛んだ。
視線を移すと、罗景真が静かにこちらを見ていた。
「師尊も、お元気そうで」
「ああ」
短い返答。
罗景真の吊り目がわずかに細くなり、口角が少し上がった。
「お会い、できて、嬉しいです」
罗景真はいつものように陶霖の頭へ手を伸ばしかけた。
だが、その途中で周囲の護衛たちの存在に気づき、手を止める。
陶霖は護衛を見ると小さく笑って、罗景真に一歩近づいた。
「ここでは、ただの陶霖です。……護衛はいますけど」
罗景真はしばらく陶霖を見つめ、それから静かに言った。
「……そうか」
罗景真はわずかに間を置き、今度こそ、その大きな手を陶霖の頭にそっと置いた。
久しぶりの感触に、陶霖は照れくさくなって笑った。
その様子を見ていた沈秀恒も、どこか嬉しそうに目を細めている。
「秀恒も……これまで通りにしてくれると嬉しい」
「言われなくても、そのつもりさ」
その答えに、陶霖はようやく肩の力を抜いた。
「沈秀恒、そろそろ戻ろう。陶霖、そなたも疲れているだろう。ゆっくり休みなさい」
立ち去ろうとした罗景真に、陶霖が声をかける。
「師尊!」
振り返った彼は無表情で、あまり知らない人が見たらきっとひどく冷たく見えるようなその目に、陶霖はなぜか胸が苦しくなった。
「あ、ええと……その、明日は巡風門に行く予定なのですが、師尊も良ければ一緒に、どう、ですか」
勢いで出てきた言葉に、自分でも感情が追いつかず心臓がドキドキと鳴る。
「ああ。一緒に行こう」
顔がほころぶのをとめられない。
「……では明日、辰の刻に、師尊のところに伺います」
「……」
罗景真の目が陶霖の後方を向いていることに気づき、振り返ると、子元と護衛二人の顔が……。
「明日、辰の刻に私が向かおう」
陶霖が答えられずにいると、罗景真が続ける。
「良いな?」
有無を言わせずにそう言われ、陶霖は子元に促されるままに部屋に戻る。
部屋に戻ると、子元が憤った様子で言う。
「あの男、明稀様に対してあんな……」
「子元」
すぐさま荷晴が嗜めるが、子元は「でも」と続ける。
「あの人は私の師尊なんだから、良いんだよ」
陶霖が笑って言うと、子元はようやく口をつぐんだ。
「おはようございます」
「おはよう」
約束通り、罗景真は辰の刻に陶霖の部屋の前まできてくれた。
後ろに立つ子元は何か言いたげであったが、昨晩釘を刺したため、視線だけが痛かった。
今日は護衛が四人と子元が一緒に来てくれることになっている。
陶霖たちは予定通り、御剣飛行にて移動した。
一人で御剣している罗景真が羨ましく思う。
黎国に来てからというもの、陶霖はいつも護衛の御剣にのせてもらっていて、自身で御剣することが全くなくなってしまったのだ。
視線に気づいた罗景真が言う。
「どうした」
「いえ……帰りは、師尊の御剣にのせていただけませんか」
陶霖が護衛の責任者をチラチラと見ながら言う。
「……構わないが、そちらの方が困るだろう」
罗景真に言われ、陶霖はがくりと項垂れた。
巡風門まで、休憩を挟みつつ、二時辰と少し。
ちょうど陽がいちばん高く昇る頃には巡風門に到着した。
冬の陽は高くても弱く、山門の石段には薄く霜が残っていた。
門の前で、陶霖の足が止まる。
懐かしさなのだろうか。
心臓がドクドクと音を立て、泣き出したいような気分だ。
門番の門下生に伝えると、しばらくして蘇海嶺がやってきた。
「言伝てなく門を去ってしまったというのに、今回は門をくぐる機会をいただき、ありがとうございます」
陶霖がいうと、蘇掌門は以前と変わらない温かな笑みを浮かべ、頷いた。
「色々と……大変だったでしょう。元気な姿を見ることができて、私も嬉しく思います」
挨拶が済むと、蘇掌門、罗景真とともに護衛を引き連れて石畳の階段を上り、懐かしい建物が並ぶ中を通って裏山への道を歩く。
周囲から注がれるのは、好奇の目。
黎国でも顔が知られているため、視察に行くとたくさんの視線だけでなく、護衛を挟んで声をかけられる。
しかし、ここではただ、視線が刺さるのみだ。
それもそうだろう。
この国の人にとって、陶霖は裏切り者そのものだ。
今回の訪問は、書簡で尋ねた際に蘇掌門が快く歓迎してくれたから来ることができたが、そうでなければ墓参りすら叶わなかっただろう。
裏山を登ると、墓地が広がる。
陶霖は葉遠瑶の墓前に来ると、少し整えてから用意した冥銭を焚く。
乾いた風が吹き、灰が白く舞って飛んでいった。
綺麗な墓石を見るに、きっと温安や鄭知、師尊が綺麗にしてくれているのだろう。
買ってきた糖葫蘆を供え、陶霖は墓前に腰を下ろした。
「……一年ぶりだね」
墓の周りにいくつか咲いた小さな花が、風に吹かれて大きく揺れた。
「ずっと来られなくてごめん……話したいことたくさんあったのに、どこから話したら良いのかわかんないや」
しばらく黙ったまま、風に揺れる木々の音を聞いていた。
溢れ出した感情が、波のように押し寄せては引いていく。
入門した頃のこと。
修練はきつかったけれど、皆と過ごした楽しかった日々。
葉英が亡くなったあの日。
そこからの怒涛の日々に、黎国での日常。
あまりにも変わりすぎた環境を受け入れたつもりでいても、時折寂しさでどうしようもなくなる。
「葉英……会いたい」
出てきた声は、震えていて、あまりにも小さくて、風に吹き消された。
「また一緒に糖葫蘆を食べたい」
「師尊の部屋で研究会したい」
「一緒に修練して、任務に行って」
でも、それらはもう、できない。
「……っ」
葉英の名を呼ぼうとしたが、言葉にならなかった。
代わりに嗚咽がこぼれ、涙が止まらなくなった。
「また、いつでも会いにきなさい」
いつのまにか後ろに立っていた罗景真が、陶霖の頭に手を置いて言った。
「「陶霖!」」
裏山を下ったところで、温柔燐と鄭花澈がやってきた。
「温安、鄭知……」
二人の顔を見た瞬間、陶霖は再び胸の奥からこみ上げるものを抑えきれず、涙を流す。
「どうしたんだよ、いきなり」
「また転んだのか?」
温柔燐と鄭花澈の笑い声に、陶霖は釣られて泣き笑った。
「ちがうよ、もう」
鄭知が陶霖を抱きしめると、温安も続けて陶霖を抱きしめて、頭を撫でた。
「大変だったな」
「長旅おつかれさま」
軽く挨拶を交わすと、蘇掌門の好意に甘えて四人で少し話をしようと山小屋へ移動する。
森の小径を進み、ぽっかりと草が踏み倒された空き地の奥にある、古くはないが、質素な住まい。
たったの一年が、まるで遠い昔のように感じた。
戸をくぐると、皆で床に腰を下ろす。
鄭知が湯を沸かしている。
以前は部屋のあちこちに置かれていた小物が、明らかに少なくなっていた。
棚の隙間や窓辺が、妙に広く感じる。
陶霖がぼんやりと部屋を見回していると、鄭知が湯呑を並べながら鼻を鳴らした。
「……なんだよ、その顔」
「いや、懐かしいなと思って」
「泣き虫」
変わらない鄭知の軽口に、陶霖は頬を膨らませて言う。
「鄭知も泣いてるじゃないか」
「うるさい」
鄭知は顔をしかめたが、その目は少し赤かった。
湯気が静かに立ちのぼる。
陶霖たちは、互いの近況をぽつぽつと話しだした。
「そういえば、柳清婉が身籠っているんだ」
「え、そうなの!?」
鄭知の言葉に陶霖が目を輝かせると、温安は鄭知を睨みつける。
「自分で言いたかったんだけど」
「なら早く言えよ」
陶霖は二人の様子に笑いつつも、温安の子はどんな子だろうかと想像を巡らせる。
「それから、師弟が二人増えた」
「ええ!?」
先ほどよりもさらに大きな声を出した陶霖に、温安が笑いながら言う。
「そんなに驚くことじゃないでしょう。二人とも十になる年の子で、とてもいい子たちだよ。ですよね、師尊」
静かに話を聞いていた罗景真が話す。
「……ああ。そなたたちが入門してきた頃を思い出した」
その言葉に、皆が押し黙った。
沈黙を破るように、温安が言う。
「そういえば、程長老のところは今年もまた十人増えたらしい」
「さすがだな」
「知っているか?鄭知も今後を期待されて、危険任務の教育係をやっているんだ」
「おい、それは言わなくても良いだろ」
鄭知が慌てて罗景真を見つつ言う。
「いやいや、こういうことこそ言うべきでしょう。……先に言ったのはどっちだよ」
陶霖は二人のやりとりに、またふふふと笑う。
鄭知はもともと素質が高く、術符の扱いに関しては自ら「向いてない」と以前から言っているものの、葉英や温安、陶霖と比べると扱いに関しては少し劣るが、それでも師尊である罗景真は術符研究熱心であり、門の中でも技術は高い方だろう。
剣術に関しては、門下生の中ではもう右に出る者はいないのではないだろうか。
──鄭知が長老になる日も遠くないのかもしれない。
皆、前を向いて進んでいるようで、陶霖は心が温かい気持ちになった。
「もう、俺の居場所はないなあ」
陶霖は言ってしまってから、しまった、と思い三人を見る。
「いや、えっと」
温安が口を開く。
「そんなことない……と言いたいところだけど、それは門での話だろう。陶霖の噂は聞いてるよ。すごく頑張っているんだろう。君はどこへ行っても愛される。そういう力がある。大丈夫だよ」
陶霖はその言葉に、言わせてしまったような気持ちになったが、言葉は止まらなかった。
「自分は何も変わっていないのに、周りだけがどんどん変わっていくんだ」
「何言ってんだよ。俺たちだって変わってないぞ」
いつのまにか酒を飲み出していた鄭知が言うと、温安が「そういうことじゃないでしょう」と言う。
「そういうことだろ。俺たちだって何も変わってないのに、葉英も陶霖もいなくなって、代わりに新しい師弟が入ってきた」
「……そうだな」
「変わらないものなんて、ないんだよ」
頬を赤く染めた鄭知の言葉は、以前と変わらずまっすぐに陶霖の心に刺さってくる。
陶霖は、鄭知の飲んでいた酒を自分の茶杯に入れて飲んだ。
ふと、温安が言った。
「江念は、やっぱりそうだったのか」
陶霖は頷いた。
「うん。黎で江念と話したよ。……彼女も俺と同じだ」
「そうか」
鄭知がぽつりと言う。
「お前、昔からそうだよな」
「え?」
「昔、お前の玉佩を隠した時も、そうだった」
「……ああ」
「『自分も同じだ』って言ってただろ。あんな昔のことなのに、未だに覚えてる」
あの頃は意味がわからなかった、と鄭知は笑った。
「苦しいだろ。敵にまで同情していたら」
陶霖はすぐに答えることができず、手元の茶杯を見つめた。
「俺は、黎の皇族で……玄の人間でもあるから」
風が窓を鳴らした。
「二人とも、元気そうでよかった」
陶霖がそう言うと、鄭知が肩を竦めた。
「ああ、元気だよ。だからそんなに心配しなくていい。確かに噂になったから皆興味は持っているけれど、裏切り者だからとか、そういうことではない」
温安も頷きながら鄭知の話を聞いている。
「むしろ感謝しているんだよ。玄の者は皆、人との争いには不慣れな者ばかりだ。いざとなると、人を傷つけるなんてできない者ばかりだった。
だからあのたった二十日ほどの戦でも、玄の負傷者は想定以上だった。
お前が停戦に持ち込んでくれて本当に感謝していたんだ」
そこまで言って、鄭知はニヤリと笑った。
「さっきもみんな、お前のことを見て噂の美しい明稀様だって噂してたぞ」
「……」
陶霖は黙って俯くと、温安と鄭知の笑い声が重なった。
その後も話は尽きることがなく、温安の「泊まっていかないのか!?」という言葉で、陶霖は外に控えてくれていた子元と護衛たちにはじめてのわがままを言い、巡風門に一泊することとなった。
子元が渋り、玄陽宮に待機している荷晴に伝令符を送ったところ、
『本当はいつも術符研究部にいくことですら危険で止めたいところを我慢しているのに他国のさらに城ではない場所で予定外の宿泊なんて危険意識が低すぎる。でも明稀様が我儘を言うことは滅多にないことだから今回は許してあげるけど次は絶対にないと思え(意訳)』
といった長文が返ってきた。
陶霖の背筋には寒気が走ったが、温安と鄭知はげらげらと笑っていた。
夜も更け、山の空気は冷え込んでいく。
久しぶりの山小屋には、昔と変わらぬ火鉢の匂いと、酒の香り、そして途切れることのない笑い声があった。
陶霖は目を覚ますと、寝台に寝かされていた。
誰かが寝かせてくれたのだろう、罗景真、温柔燐、鄭花澈は床で座布団を枕に寝ていた。
窓の外は白みはじめている。
久しぶりに聞く鳥の声と、木々を揺らす朝の風。
山小屋で迎える朝は、黎へ行く前と何も変わっていないように思えた。
巡風門を発つ前、鄭知が言う。
「またいつでも帰ってこいよ」
温安も続ける。
「顔を見せにきてくれたら、僕の子を抱かせてあげてもいいけど……それに、師尊も元気が」
最後の一言を陶霖の耳元でこそっと言うと、温安は笑った。
正直、いつでも帰って来られる距離ではない。
それでも、この場所は以前と変わらずここにあった。
それだけで陶霖の心は熱を帯びる。
次に来た時には温安の子を抱けるだろうか。
鄭知は長老の中に名を並べているかもしれない。
そんな期待を胸に残し、陶霖は罗景真とともに、玄陽宮への帰路についた。
玄陽宮に戻ると、駿成や黎から来た面々の顔色が優れず何事かと思ったら、玄の香辛料をふんだんに使った料理で腹痛になったらしい。
陶霖が慌てて黎から来た者たちの料理には香辛料を控えめにしてもらうよう軍営の料理長に頼みに言ったのは、また別の話。
登場人物
陶霖/桓明稀
【黎国】
荷晴……陶霖専属の初老の侍従。
子元……陶霖専属の若い侍従。
駿成……術符研究部員。陶霖と同い年。
鎮烈……黎国軍兵。
江念……巡風門の門下生だった。現在は黎国軍の薬術部に所属。
【玄国・巡風門】
罗景真……長老
罗景真の弟子(名・字)
葉英・葉遠瑶
温安・温柔燐
鄭知・鄭花澈
沈秀恒……門下生。宋長老の弟子
柳清婉……門下生




