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氷の瞳と冷たい雨  作者: 芋洗べに子
第七章 黎国
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第三話 再会


翌日から、夕餉は一人で部屋で食べるようになった。

荷晴フーチン子元ズーユエンに一緒に食べないかと頼んだが、同じ卓を囲むことは難しいようだ。

研究部にはいつも通り通った。

澄然チェンランも三日に一度の頻度にはなったものの、未の刻になると変わらず陶霖タオリンのところへやって来た。

ただひたすら、納得のできない気持ちを胸のうちに抱えたまま、目の前のことをこなす。

実行犯を特定したところでどうなる?

彼らはただ命に従っただけなのだ。

──そんな、たったそれだけの理由で、葉英は死んだんだ。


「あっ」

実験用の明火符を一枚持っていたつもりが、別の術符を数枚重ねて持ってしまっていたようで、急激に霊力が吸い取られる。

しまった。

制御が追いつかず、火が大きく燃え上がった。

「おい、大丈夫か!?」

慌てて駆け寄る駿成ジュンチェンを制し、陶霖は術符をすぐに手放すが、手はじくじくと痛んだ。

「うわっ」

駿成が陶霖の手を見て声を上げる。

見ると、陶霖の右手は赤くなって腫れてきていた。

「すぐに冷やそう」

駿成の持ってきた水桶に、赤くなった手を入れる。

痛みが少し和らいだが、皮膚の表面はヒリヒリと痛みが持続している。

「このまますぐに医務室へ行こう」

駿成の持つ水桶に手を浸したまま歩いていると、周囲の者たちは普段通り拱手したが、その視線は右手に注がれていた。


医務室に着くと、すぐに陶霖の赤く腫れた手に軟膏が塗られ、包帯でぐるぐる巻きにされた。

あいにく、痛みを一柱香ほどの間感じないようにさせる術符はしばらく使う機会もなさそうだったため、部屋の引き出しに眠ったままだ。

痛みはまだあるが、一通りの治療をしてもらってホッと息を吐いた。

「駿成、ごめん、ありがとう。助かったよ」

「いや、全然構わないけど……やっぱり変だよ、近頃。何があったか、どうして教えてくれないんだ?」

陶霖が話すのをためらっていると、医務室の扉が音を立てて開かれ、聞き覚えのある声で呼ばれた。

「明稀!」

鎮烈ジェンリー。どうしたんだ」

鎮烈は息を切らせながら焦ったように陶霖に近づき、問いつめる。

「どうしたんだはこっちの台詞だ。明稀が怪我をしたと」

陶霖と駿成は顔を見合わせた。

「ただの火傷だよ。術符使うのに失敗した」

そう言って包帯を巻かれた右手を見せると、鎮烈は「うわ」としかめ面をした。

陶霖はそれを見て、膨れ面になって言った。

「駿成と同じ反応じゃないか」

「それより、鎮烈が来るってことはもう未の刻か」

駿成の言葉に、陶霖は立ち上がりながら何の気なしに言う。

「せっかく来てくれたんだし、戻って続きをやろう」

「「ダメに決まってるだろ!」」

「……ごめん」

二人に否定され、陶霖は大人しく再び寝台に座った。


「で、それは最近ずっとうわの空だったのが原因だろ?」

鎮烈は陶霖の手を指差しながら言う。

「そうなんだよ、僕もさっきから聞いてるのに何も教えてくれないんだ」

「そんなに言いたくないなら……」

そう言った鎮烈に、陶霖はいや、と答える。

「こんな話、誰かに訊かれたら困るし、それだけだよ」

「なおさらそんな大事な話、早くどうにかするべきじゃないか」

鎮烈に言われ、陶霖はようやく重い口を開いた。


巡風門での件について一通り話し終えると、鎮烈が言った。

「もし、明稀に危害が及んでいたらどうしていたんだ……?」

「おそらくその桁外れに強い長老が弱くなったところを狙って攫うつもりだったんだろうが、術符の制御ができなくて肝心の誘拐にまでは余力が残らなかったんだろう……というのが、僕の予想だけど」

冷静にそう言った駿成に、陶霖が指摘する。

「制御できない?」

「ああ。あの術符は制御が難しいんだ。使い出すと霊力が枯渇するまで吸い取られると聞いたことがある。ましてや使われていたのはもう十五年以上も前までだ。規模的にも、おそらく何人かで使っていて制御できなくなったんじゃないか?」

駿成は続ける。

「俺はこう考える。異国での任務、補給も自分たちでするしかない。できるだけ目立たないよう、少人数で攫ってくるように指示されただろう。短期間、少ない人数で結果を出すなら、大きく事を起こしてその混乱に乗じて、というのは理に適ってると思う」

「そう、だな」

陶霖と同様、深刻な様子で話を聞いていた鎮烈に対し、駿成は相変わらず表情を崩さなかった。

「……世の中、不条理や理不尽で溢れているよ」

そう言ってへらりと笑った。

「駿成、そんな言い方」

鎮烈がたしなめるように言うと、駿成は作った笑みを消して言う。

「ごめん、僕は力になれそうにない」

その一言のみを残して医務室を出て行った。


「駿成が入門してきた時のことを、私はいまだに覚えているのだが……」

鎮烈がぽつり、ぽつりと話し出した。

「確か、まだ十にも満たない歳だった。痩せていて、身体中傷だらけで、身体だけじゃなくて顔にまで痣ができていた。親に暴力を振るわれていたのだと、師尊から聞いたんだ」

言葉の出てこない陶霖だったが、鎮烈は尚も続ける。

「長老が街で見かけて引き取ったのだが、殆ど親に売られるような形で入門したんだ。それでもあいつは入門してから……今でも親に仕送りを続けている。しなくてもいい、やめろって言っても、続けるんだ」

耳を疑ったが、鎮烈はじっと陶霖の包帯の巻かれた手を見ながら、淡々と話を続けた。

「なぜと聞いたこともあるが、お前には関係ないの一点張りだった。一度だけ、言っていたんだが、自分がいまここにいられるのはあの人たちのおかげでもあるからって。それだけだ」

鎮烈はようやく茶を一口飲み、それから陶霖に目を向ける。

「あんなひどい怪我を負わせる親に、どうしたらそんなふうに思えるんだ。何年も駿成を見ているが、いまだに考えていることがわからない」

「それは……」

陶霖は以前、似たような境遇に置かれた人の話を聞いたことがあった。

葉英イエインだ。

「うん、わからないよな……」

「まあ、だからきっと、駿成も何か思うことがあったんだろ」

再び黙り込んだ陶霖に、鎮烈はそう口にする。

「あ、いや、違うんだ。駿成は、その……葉英と凄く境遇が似ていて」

「君の師兄とか?」

「うん。葉英も、両親からは良いと言える扱いはされてこなかったみたいで……でも、葉英もずっと、金は送り続けていたんだ」

今度は鎮烈が黙り込んでしまう番だった。

「もし、葉英だったら」

そう呟いた陶霖を、鎮烈はじっと見ていた。


医務室を出ようとしたところ、ちょうど入れ替わりで入ってきた女の肩がぶつかり、よろけた。

陶霖も男性にしては線が細い方で、ぶつかって大きくよろけた女性はとても華奢、というより、虚弱そうな様子に見えた。

「……江念ジャンニェン?」

呟くように言った陶霖に、女は走り出した。

追いかけると、逃げ足は遅く、すぐに追いつく。

細い手首を掴むと、振り返った江念の顔を見て、陶霖は言葉を失った。

落ち窪んだ眼窩に、肌は青白くカサついている。

何より驚いたのは、江念がこれまで見たこともないほど怯えた表情をしていたことだった。

「……っ」

陶霖と目が合った江念は、再び手を振り払って走り出そうとしたが、今度は追いかけてきた鎮烈に腕を掴まれていた。

「おいっ、お前、なんで逃げる」

振り解こうとする江念を見て、陶霖は慌てて間に入る。

「ごめん、陶霖。ごめんなさい……」

弱々しく言う江念に、鎮烈が問い詰める。

「ずっと騙していたくせに、何を今更」

「鎮烈はちょっと黙ってて!江念、いいんだ。それより君は大丈夫なのか?酷い顔だ」

肩を掴んで顔を覗き込むと、江念は涙をぼろぼろとこぼしている。

「……少し、落ち着いて話せないかな」

医務室から、数人が陶霖たちの様子を見ていた。

──おおよそ、俺が江念を責めるとでも思っているのだろう。

「場所を、借りても良いでしょうか」


医務室に戻った陶霖と江念は、奥に置かれた長椅子の端と端に座った。

数十台の寝台を挟んだ向こうで、医務官たちと鎮烈が様子を伺っている。

「江念、その、久しぶりだね」

「……うん」

陶霖は江念に笑いかけたが、江念は俯いてじっと動かない。

「元気そうで、よかった」

「……」

陶霖は長く息を吐いた。

巡風門では、江念とどうやって話していたのか。

たった数ヶ月前のことなのに、思い出せなかった。

「ねえ、江念。俺は、君のことを責められないよ」

「……」

江念とようやく目が合う。

彼女は陶霖を見ると、目を見開いた。

「……なんで、そんな顔」

そう言った江念に、陶霖はふふ、と笑った。

「江念こそ。自分の顔、鏡で見た?」

きっと、陶霖も江念と同じように、泣きそうな、酷い顔をしていたのだろう。

「知ってるでしょう。俺は誰にも何も告げず、玄から抜け出してここに来たんだ。……裏切ったんだ」

「それは、でも、仕方なく」

「江念だってそうだろう」

江念は首を振った。

「……私は、大して考えてなかった。考えもせず、言われた通りに」

「まあでも、理由はどうであれ、俺も自分で決めて、玄の人たちを裏切った。同じことだ。俺に江念は責められない」

「私は、自分のことを責めずにはいられない」

「江念……」

江念は、今にも泣き出しそうな顔で笑った。

「でも、また陶霖に会えて、本当は、すごく、嬉しい」

「俺もだよ」

目を合わせると、鎮烈が茶器を持ってやってきた。

「……どうぞ」

茶杯を手渡しながら心配そうな目を向ける鎮烈に、江念がふふ、と遠慮がちに笑った。

「ここでの保護者はあなたなんだね」

「君に傷つけられたと聞いたんでね」

そう言って江念を睨んだ鎮烈に、陶霖が言う。

「もう、聞いてていいから、静かにしてて!」

ますます笑いだす江念に、陶霖はようやくほっと息をついた。

「江念、彼はいつも術符の研究を手伝ってもらっている訓練兵で、悪い人ではないんだ。ただ、俺が色々と話しすぎてしまって」

「うん」

鎮烈は二人のやりとりを聞きながら、長椅子の空いたところ──陶霖と江念の間に盆を置き、茶杯に注ぐ。

「彼がそこらへんで話を聞いてても、いいかな」

「うん」

「君が見ていたものを、教えてくれる?」

「……うん」


江念はしばらくぼーっと陶霖を見て、それから髪に手を触れた。

「今は、誰に手入れをしてもらっているの?」

「……侍従だよ」

「そう」

少しつまらなそうに江念は言って、それからまたふふっと笑った。

「巡風門には、私と似たような境遇の子が沢山いて、凄く楽しかったなあ」

思いだすかのように宙を見る瞳は、潤んで光を帯びている。

「私も、もとはみんなと大して変わらないの。父親は地方で文官をしてた。私が賢いと気づくと、すぐに近くの仙門に入門させたんだ。

そうしたら入って三年くらいで、国から仙門に声がかかったの。ちょうど優秀な私くらいの年頃の子を探していたとかでね。何人かに先に声をかけてたみたいだけど、みんな親に反対されたみたい。

私の父は大歓迎。私も仙門には嫌気が刺してたんだ。

父の権力に媚びる人や、同じ年頃の門下生の中でも優秀だった私に嫉妬してくだらない嫌がらせをしてくる人もいた」

どんどん涙を湛えていく瞳と対照的に、声は明るかった。

「何か月か訓練があって、それからすぐに玄に行った。巡風門への入門も、準備していた手筈で楽勝だった。

ただ数年、国の情報を探るだけだし、せっかくだから新しい生活を楽しもうって」

江念はそこで言葉を切ると、陶霖を一瞥した。

「……陶霖もわかるでしょ」

「……」

「みんないい人たちなんだもん。近づけって言われた陶明稀はこんなに無防備でただのお子様で、みんなの弟みたいに好かれてて」

江念は陶霖をまっすぐに見て言った。

「陶霖のことも、本当の友達だと思ってたよ」

「知ってるよ、俺もだ」

「騙していると思うと、心が傷んだ」

「……うん」

「ごめん、なさい」

「……君は、君のやるべきことをしただけだ」

「うん……私はただ、巡風門のあの平和な様子を外にいる国の人に伝えていただけだった。でも、それが、陶霖も、巡風門のみんなのことも不幸にしてしまった」

江念は俯きながら続ける。

「だからこうして、ここではせめて誰かのことを助けたくて、ここで働かせてもらえるように頼んだの」

陶霖は江念の華奢な肩に手を置いて話す。

「俺さ、全然知らなかったんだ。何も知らなかった。

自分のことも、国のことも、周りにいる人たちのことも。みんなそれぞれに大事なものがあって、それを守るために必死に生きてる。それだけなんだ」

──そうだ。皆、自分の正しいと思う事をただやっているだけなんだ。

歯車が少しずつずれて、その歪みはいつのまにか大きくなり、反動がやってくる。

ただ、それだけのこと。


江念は、隣に座る陶霖ですら耳を澄ませないと聞こえないくらいの声量で呟いた。

沈秀恒シェンシウホンは、元気だった?」

陶霖は、手の中の茶杯を見ながら答える。

「君がいなくなって、酷く落ち込んでいたよ」

「……そう」

溢れ出すように江念の両の瞳から涙が落ちる。

「きっとわかってくれるよ」

そう言って江念の肩に置いた手に力をこめると、江念はまた口を開く。

「陶霖、あなたはどうなのよ」

「なんのこと?」

ルオ長老のこと、好きだったんでしょ」

「……」

返す言葉がすぐに出てこなかった。

その時点で、陶霖は誤魔化すことも諦めた。

「……何でそんなこと知って」

「間者なんだから、当たり前でしょう」

「そっか。……でも、遠いなあ」

「……そうだね」

「もういっそ、私が道呂になってあげようか?」

「いやいやこんな女より、俺の方がまだ良いだろ」

「……」

急に話に入ってきた鎮烈は、二人の視線に気まずそうに目を逸らした。

「……いやいやいや、あんたみたいな思い込みで突っ走る奴がどうやってこの歩く騒動の種の世話すんのよ」

江念の鋭い言葉に、鎮烈は顔を赤らめながら言い返す。

「なんだと。君こそ考えなしに隣国に行って騒動を起こしたんじゃないか」

「鎮烈」

陶霖が呆れた目を向けると、鎮烈はそれ以上何も言わずに入り口の方へ行ってしまった。

「陶霖に注意されてるくらいじゃ無理ね」

「もう。江念も江念だよ。歩く騒動の種なんて……」

頬を膨らませた陶霖に、江念はあはは、と笑った。

「何やってるんだろうね、私たち」


「陶霖はあいつのこと、どう思ってるの」

そう言って江念が見る先にいるのは、並んだ寝台の向こうで壁際に立ってじっとこちらを見ている──鎮烈。

「鎮烈のこと?……どうって。正義感強い奴だよな」

「……それ本気?」

眉を寄せてこちらを見る江念に、陶霖は「何が?」と返す。

「信じられない……。あなたはそろそろ、自分が周囲の人間を惑わしていることを知った方が良いと思う」

「惑わせてなんかないけど」

「あなたがそう思っていても、他の人はそうは思ってないってことだよ。巡風門では葉英や鄭知あたりがその辺うまいことやってくれてたんだろうけど、今は葉英あにきどころか罗長老ほごしゃもいないんだから」

「……わかったよ。でも、鎮烈は本当にそんな」

「これだけは言っとくけど、鎮烈は陶霖に友情以上の情を持ってる」

江念の鋭い目に、陶霖は言い返すことを諦めた。


それから、陶霖は江念と思い出話に花を咲かせた。

江念は今も、巡風門での風景や沈秀恒のことを夢に見るらしい。

「一緒に乗り越えよう……いや、違うな。師尊が言ってたんだ、乗り越えようとしなくてもいいって。悲しみを抱えたままでいいんだ」

「ねえ、時々術符研究部に会いに行っていい?」

「もちろん。来たら霊力もついでに使わせてもらうけど……あ、でも三日に一度は澄然チェンランが」

「……あなたって本当にあの皇帝陛下の子だったのね」




翌日、陶霖は術符研究部に向かっていると、澄然が遠くから駆けてきた。

「明稀お兄ちゃん!」

澄然が駆け寄り、陶霖の腰のあたりに抱きついた。

「あのね、いっしょにお星さまを見ようよ」

「星?」

「きのうね、先生に星座をおしえてもらったんだよ」

澄然は陶霖に抱きついて、見上げながら話す。

首は苦しくないのだろうか。

「わかったよ、でも父上と母君には」

「いいって!言ってたよ!ねえ、どうしていっしょに夕餉をたべないの?きょうは明稀お兄ちゃんもいっしょにたべようよ!それでね、いっしょにお星さま見て、それで、いっしょに寝ようね!」

「ああ、うん、わかったよ」

無邪気に笑う澄然に、陶霖も思わず笑みが溢れた。


澄然に手を引かれるまま、その日は久しぶりに夕餉の席に向かった。

卓にはすでに桓碧雲と容嫣ロンヤンが揃っていたが、陶霖の右手について訊ねると、それ以上は何も聞かず、ただいつものような穏やかな雰囲気であった。

澄然が隣の席を叩く。

「明稀お兄ちゃんは、ここにすわって」

陶霖はその席に座った。

「これおいしいよ!」

澄然が自分の皿から一つ摘んで、陶霖の方へ差し出した。

それを見て、容嫣は小さく笑い、侍従に取り分けるよう目配せする。

「ありがとう」

皿に取り分けられた蒸し餃子を半分に割ると、中からむわりと蒸気が立った。

中にはたっぷりと肉種が入っている。

陶霖は唾液をゴクリと飲んでから、蒸し餃子を口へ入れる。

熱い。でも、おいしい。

さっぱりとしたタレの塩気が丁度良い。

「……」

陶霖の口角が思わず上がる。

「おいしいでしょう?」

横から澄然が陶霖を覗き込む。

「うん。……昔、よく食べてたのにちょっと似てる」

「昔食べていたもの、ですか?」

容嫣が首を傾げて問いかける。

「はい、ただの包子です。こんなに肉はたくさん入っていなくて、ほとんどが皮だったけど」

「ふうん?」

澄然が言うと、容嫣がくすりと上品に笑った。

「……」

桓碧雲は、その様子をただ見守っていた。

陶霖は蒸し餃子をもう一口、口へ運ぶ。

──やっぱり、全然違う。

肉種を包むしっとりとした生地に、たっぷりの肉種、そしてさっぱりとしているが、上品な味のタレ。

あの頃食べていた包子はもっと、分厚くてパサついた生地に、中の肉種には香辛料がたっぷりと混ぜ込まれていた。

あの頃のことはもう殆ど覚えていないのに、どうしてかあの頃感じていた絶望感ややるせなさといった感情だけは、いまだに鮮明に蘇ってくるのだ。

最後に食べた包子は、道に転がって砂まみれになったものだった。

入門してからは、なぜか食べないように避けていた。

桓碧雲と目が合った。


食後、澄然と約束通り外へ出る。

夜の空気は冷たい。

短い草の生えた中庭に、子元が用意した布を敷いてくれた。

その上に横になると、視界いっぱいに星空が広がった。

澄然は陶霖の袖を握りながら話す。

「ほら、あれ。北斗七星っていうんだって。きのう教えてもらったの」

小さな指が示す星は、どれなのかわからない。

「どんな形?」

「ひしゃくの形のやつ」

「うーん、あのいちばん光って見えるやつのことかな」

「あのいちばんあかるい星は、天のまんなかにある星で、あっちがわの星が北斗七星だよ」

「なるほど……」

陶霖にとって、星はぼーっと眺めるだけのものだったので、澄然の言っているものがどれなのかさっぱりわからない。

……でも、澄然は嬉しそうだ。


「ねえ、明稀お兄ちゃん」

「ん?」

「ずっと、いっしょに見れるよね?」

言葉に詰まる。

「時々なら、見れるよ」

澄然は、陶霖の腕に抱きついた。

子どもの高い体温が、あたたかい。

「いなくならないでね」

──明かりが星だけでよかった。

澄然の言葉に、陶霖は何故か泣きたい気持ちになって、何も言えずにただ小さな頭を撫でた。

その涙が巡風門に残してきた仲間に対するものなのか、それとも去るかもしれないこの国の人に対してなのか、陶霖にはわからなかった。


その後も話し続けていた澄然は、突然火が消えたように眠ってしまった。

陶霖は澄然を抱き上げて自室へ運ぶ。

「明稀お兄ちゃん……?」

寝台へ下ろしたところ、澄然が眠そうに目を開いた。

「うん、いるよ」

陶霖が言うと、澄然は笑顔になって、そのまままた眠りに落ちた。

陶霖もつられて眠くなり、子元に髪を梳かしてもらうと、そのまま寝台に横になって眠った。





登場人物

陶霖タオリン/桓明稀ファンミンシー


【黎国】

現皇帝・桓碧雲ファンビーユン……陶霖の父親

陶霖の母・杨雪蘭ヤンシュエラン……黎皇帝・桓碧雲ファンビーユンの正妃

容嫣ロンヤン……桓碧雲の側妃。

澄然チェンラン……容嫣の子。陶霖の腹違いの弟。


荷晴フーチン……陶霖専属の初老の侍従。

子元ズーユエン……陶霖専属の若い侍従。

駿成ジュンチェン……術符研究部員。陶霖と同い年。

鎮烈ジェンリー……黎国軍の訓練兵。まもなく訓練課程を終える。


江念ジャンニェン……巡風門の門下生だった。


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