表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の瞳と冷たい雨  作者: 芋洗べに子
第一章 巡風門
2/8

第一話 少年




知らないにおいがする。

花のようでもあり、木のようでもある、どこか甘くて……冷たいのに、なぜか落ち着く。

心地よい揺れの中、もう一度沈みかけた意識に、ふと周囲の視線を感じてハッとあたりを見回す。

視界に入ったのは、見慣れない屋根だった。

もうすっかり夜の闇に染まった空があり、周囲にはこちらを無遠慮に見る人の顔があった。

それらはすべて逆さまで……陶霖タオリンはまだ、罗景真ルオジンジェンに抱えられていた。

陶霖は、無数に向けられている視線が、皆同じような衣を着ているということに気づいた。

彼らのひそひそという話し声がこちらまで聞こえてきそうになり、陶霖は顔が熱くなるのを感じた。

「おろせ!」

陶霖は暴れ出したが、大男は陶霖の顔を一瞥し、少し眼を細めた。

すぐにその冷たい視線は陶霖から外れて、また荷物のように抱えなおして歩いて行く。

俺は荷物だ、俺はこいつの荷物、ただの荷物だ……。

そう心の中で唱えながら、深呼吸をして、今度は落ち着いた声で訊ねる。

「どこに向かっているの」

塵世じんせい殿。湯殿だ」

「え?じん……?」

「湯殿だ」

「その……挨拶はしなくていいのか?」

陶霖が辺りを見ながら遠慮がちに話すと、罗景真は変なものを見たとでもいうような目で彼を見た。

スー掌門しょうもんには話を通してある、問題ない。先に湯浴みをしなさい」



気づけば湯殿の前まで来ていた。

扁額へんがくが大きく掲げられたその建物には、いくつかの棟が連なっている。

辺境の出身の陶霖には、湯殿というよりも立派な旅館のように見えた。

中へ入ると、広々とした玄関の左右には靴箱が整然と並んでいる。

ようやく床へ降ろされ、陶霖は足元の感触にわずかな安堵を覚えた。

履き潰したぼろ靴をのろのろと脱ぐ。

罗景真はそれを無言で取り上げ、軽く埃を払うと、当然のように靴箱へ収めた。

その背を追って長い廊下を進むうち、次第に賑やかな声が近づいてくる。

格子戸の隙間から覗けば、長卓がいくつも並び、門下生らしき者たちが食事を囲んでいた。

どうやらここは湯殿であると同時に、食事処や客間も兼ねているらしい。

さらに奥へ進み、突き当たりの部屋に入った瞬間、熱気と湿った匂いが肌にまとわりついた。

罗景真は荷を棚に置くと、静かに自らが着ている衣へ手をかける。

するりと布が落ちた。

重ねられていた衣が一枚、また一枚と解かれ、鍛え上げられた身体が次第に現れていく。

陶霖はなぜかそのままぼうっと、罗景真の鍛え上げられた逞しい身体が露わになっていくのをみていた。

見慣れぬほどに大きな背。無駄のない筋肉の線。

そして、その長い両脚の間にある、立派なものまで見えてしまった。

「……何を見ている」

「っ、見てない!」

陶霖は慌てて自分の衣を脱ぎ、空いた棚へ放る。

大男を置き去りにし、足早に向かった。

後ろから、待ちなさい、と声がしたが、それを無視してがらりと戸を開き、外の湯殿に出る。

久々の温かい風呂だ。

そこに置いてあった木桶で身体を軽く流すと、湯は程よく温かい。

陶霖はそのままドボンと湯の中に浸かった。

「……っ!痛っ!」

身体中に染みる痛みに、すぐに湯から上がってうずくまった。

よく見るとどこもかしこも擦り傷だらけで、せっかくの温かいお湯なのに、と肩を落とす。

後ろから呆れたようなため息が聞こえて振り向くと、罗景真が冷たい眼で見下ろしていた。

皁莢さいかちも使わず、どうやってその汚れを落とすのだ」

大男が陶霖のそばに腰を下ろすと、木桶に湯を汲み皁莢を浸して揉む。

すると、あっという間に泡立ち、それを掬って陶霖の頭からかけた。

「いたっ!やめろ!いっ……」

抵抗むなしく、砂まみれで絡まりきった黒い髪は、大きく力強い両の手でわしわしと洗われた。

出会い頭に散々反抗した手前、この男にここまで世話をされるのは、いくら陶霖がまだ11歳の子どもとはいえ、居た堪れない気持ちになる。

しかし、体のあちこちの擦り傷に触れるたびに染みて痛むのだ。

自分で洗うこともできない。

陶霖はされるがままに身体を洗われた。

最後に湯で流された時には、痛みに耐え続けていた少年は息も絶え絶えになっていた。

罗景真は自らの身体を手短に清めてから、再び陶霖を抱えて脱衣所に戻る。

どこから持ってきたのか、陶霖には少し大きな衣を手ずから羽織らせた。

既に意識も朦朧としていたが、大きな手がまた自分を抱えて歩き出したのがわかった。




そっと寝台の上に降ろされる。掛け布を掛けられると、自分をゆったりと抱えていた大きな手が離れていく。

陶霖はさっと手を伸ばしてその指を掴んだ。

あまりにも必死に手を伸ばしたため、身体が半分寝台からずり落ちる。

「……っ、」

口を開いたものの、何を言えばいい?

そもそも、何故自分はこの男に手を伸ばした?

「離しなさい」

手がそっと解かれると、陶霖の身体は再び寝台に寝かされ、掛け布をかけられた。

「掌門の所へ行ってくる。ここは私の部屋だ。他の誰も入らない。そなたは休みなさい。明日には巡風門を案内しよう」

陶霖が顔を上げると、罗景真は相変わらず氷のような目つきで少年をじっと見ていた。

しばらくして、陶霖が気づいてこくりと頷くと、ようやく彼は部屋を出ていった。

しばらく眠れず、寝台に横になっていた。

考え事が次々に浮かぶものの、疲労に絡め取られてまとまらない。


それから一時辰ほど経っただろうか。戸が静かに開いた。

ふわり、と空気が揺れる。

甘く冷たい、木の香り。

静かな足音がゆっくりと近づき、止まった。

陶霖は目を閉じたまま、呼吸を続ける。

やがて足音は離れ、衣擦れの気配のあと、静寂が戻る。

しばらくして、規則正しい寝息が聞こえ始めた。

罗景真だ。

その微かな音を聞きながら、陶霖はようやく意識を手放した。





用語解説

掌門しょうもん……仙門を統率する長であり、門を代表する存在。

扁額へんがく……建物の名前や言葉を書いて掲げた額。

皁莢さいかち……実を砕くと泡立つ植物で、髪や衣を洗う洗浄剤として用いられる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ