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氷の瞳と冷たい雨  作者: 芋洗べに子
第一章 巡風門
3/9

第二話 新しい生活

各話あとがきに、登場人物紹介と用語解説を入れています。




空腹に目を覚ますと、そこは質素な作りの広い部屋だった。

昨晩、連れてこられた部屋だ。

罗景真ルオジンジェンは文机に向かって筆を走らせており、その周りには書物や紙束が無造作に積まれていた。

「起きたか」

筆を置き、立ち上がる。

「動けそうか?」

「はい」

陶霖タオリンが返事をすると、罗景真は頷き、寝台の脇に置いてある衣を手に取った。

「これを着なさい」

それは、巡風門の門下生が着ていたものと同じ、白地に青の縁取りの衣。

陶霖タオリンは何も言わないまま、それをしばらくじっと見ていた。

「……着られるか?」

「はい」

肌触りの良い夜着を脱いで、まだ皺ひとつなく、妙に重たい衣を身に纏った。

「ついてきなさい。……朝餉あさげにしよう」

罗景真ルオジンジェンのあとをついていくと、自然と人が道を空ける。

この大男は静かな足取りなのに、異様に速い。

脚が長いのだ。

まだ11歳の陶霖タオリンの足では到底追いつくはずもない。

それでも、この広い敷地で迷子になると困るのは、彼自身だ。

必死に走って追いかけて……転んだ。

ズザーっという音が辺りに静寂を作る。

無愛想な深青しんせいの衣を纏った大男が、ようやく振り返った。

「……何をしている」

「……」

周囲の視線が痛い。

立ち上がろうとして、手の平に走る痛みに顔を歪める。

両手が見事に赤く擦りむけていた。

「えっ、君、大丈夫?」

近くにいた1人の少年が、駆け寄ってきた。

「随分と派手に転んだな……。立ち上がれるか?君は、どなたの弟子なんだ?」

「あ、えっと……」

罗景真ルオジンジェンを見ると、この真面目そうな少年もつられてそちらを見る。

「師尊!?……では、この子が例の?」

「……そうだ」

大男は気まずそうに頷くと、陶霖タオリンの前に跪いた。

「傷を、見せなさい」

両手を広げて見せると、罗景真ルオジンジェンがその細い手首を掴み、立たせた。

葉英イエイン、手を貸してくれるか」

「はい、師尊」

陶霖タオリンの手首を掴んだまま、罗景真ルオジンジェンが歩き出す。

その歩幅は先ほどよりも随分と小さい。

先ほどとは方向を変え、歩いてきた方に向かっていく。

葉英イエインと呼ばれた少年は、2人の少し後ろからついてくる。


先ほどは付いていくのがやっとで見ていなかったが、改めてこの罗景真ルオジンジェンの住まいを見ると、その違和感がわかった。

建物自体は新しく見えるのに、他の建造物と比較すると随分と質素に見えるのだ。

葉英イエイン、清潔な水と布を持ってきなさい」

罗景真ルオジンジェンは後ろを歩く葉英イエインに声をかけると、陶霖タオリンの手を引いて屋内に入る。

陶霖タオリンは寝台に座らされた。

部屋を見回すと、奥には棚が幾つも置かれてその中には雑多に書や典籍が入れられ、床のあちこちにも文書や書付、それから作りかけの小道具のようなものまで散らばっている。

中央に置かれた卓の上には硯と筆が置かれ、そこも紙や書で埋まっていた。

そして気になったのは、小さな置物やお守りのようなもの、それから香袋が書棚や寝台のそばにもいくつか置かれていたことだ。

罗景真ルオジンジェンが寝台の横にある引き出しから軟膏瓶を取り出した。

衣を捲り上げられる。

両腕と両足には、先ほどできたものだけではない、無数の傷があらわになる。

「うぅっ……」

捲り上げられた布が膝にできた新しい傷を擦り、陶霖タオリンは小さく呻き声を上げる。

部屋の戸が開き、葉英イエインが入ってきた。

葉英イエインは水の入った桶を寝台のそばに置く。

布を取り出して水に浸し、軽く絞って罗景真ルオジンジェンに手渡した。

罗景真ルオジンジェンはそっと、陶霖タオリンの傷に濡らした布を押し当てる。

土で汚れた手の平は特に念入りだった。

「うわぁ、痛そう……」

そう言いつつも、葉英イエインは師尊が手当をする様子をじっと見ている。

傷を清め終えると、今度は軟膏を塗っていく。最後に傷の大きい手と膝には手早く包帯が巻かれた。

「ありがとう、ございます」

陶霖タオリンがそう言うと、罗景真ルオジンジェンの吊り上がった目尻がほんの少し下がった気がした。

そして、手当をしてくれた大きな手が陶霖タオリンの頭にぽん、と乗せられた。

静かな部屋に突然、ぐぅ、と音が鳴った。

陶霖タオリン罗景真ルオジンジェンの視線が、葉英イエインの腹に向かう。

「師尊と……君は、朝餉はまだですか?僕もこれからなので、良ければ一緒にどうですか?」

「あぁ、先ほどは私達も向かおうとしていたところだ」

「そうだったのですね。早くいきましょう、もうだいぶ遅いので、粥がなくなってしまう」


なんて書いてあるんだろう?

これもまた大きな扁額へんがくの掲げられたご立派な建物に入ると、罗景真ルオジンジェン葉英イエインはすぐさま盆を持って料理を皿に盛っていく。

何品もの料理たちがずらりと並べられているのを見て、陶霖タオリンの腹もぐぅ、と鳴った。

2人に倣い、いくつも並べられた料理を自分の皿に取り分けたいと思うものの、どれがどんな味なのか知らない。

そこで陶霖タオリンは、罗景真ルオジンジェンの皿に盛られている料理をそっくりそのまま──しかし、彼が取り分けた半分にも満たない量を──自分の皿に入れていった。

三人は盆を持ち、厨房から一番離れた角の席に座った。

葉英イエインが机に置かれた陶霖タオリンの食事を見てすぐに気づく。

「どうして師尊と同じものを?」

葉英イエインの声は揶揄うわけでもなく、ただ二つの盆の上を見比べている。

陶霖タオリンはびくりと肩を震わせた。

「その、どれがどんな味なのか、わからないから」

しばらくの沈黙。

葉英イエインは二つの盆を見てから、ふっと小さく笑った。

「……好みが違っていたら、どうするつもりだったの?」

陶霖タオリンは、自分でも気づかないうちに、盆の端をぎゅっと握っていた。

低い声が、横から落ちた。

「食べきれないなら、渡しなさい」

横を見ると、三白眼は相変わらず冷たいままだったが、その視線はもうこちらを見ていない。

「……」

「そろそろ君の名前を教えてもらってもいいかな。僕は葉英イェインあざな遠瑶ユエンヤオだ」

葉英イエインが沈黙を破って言った。

陶霖タオリン

陶霖タオリン、よろしく」

葉英イエインは人好きのする笑顔で、陶霖タオリンに向かって右手を差し出した。

おずおずと手を出すと、葉英イエインは大きく温かい手でその手を握った。

陶霖タオリンが思わず、にこりと笑うと、目の前の少年はますます口角を上げた。

「さあ、食べ……食べようか」

そう言った葉英イエインは彼の師尊を見ていた。

その大男は既に黙々と料理を食しており、その三白眼でちら、と2人を一瞥したかと思うと、湯呑みに手を伸ばしてほかほかと湯気の立つそれを静かに飲んでいる。

陶霖タオリンは箸を取り、まだ湯気が立ち上る粥に手をつける。

温かい粥なんていつぶりだろう。

一口食べた粥には青菜と細切れの肉が入っており、柔らかい塩味の効いた味に思わず笑みを浮かべる。

陶師弟タオしていは美味しそうに食べるなあ」


陶霖タオリンは取ってきた料理のほとんどを残してしまったが、残りは全て罗景真ルオジンジェンの腹の中に入った。

葉英イエイン、午前の修練のあと、皆を私の部屋に来させなさい」

「はい、師尊。それでは僕はひと足先に行きますね」

葉英イエイン罗景真ルオジンジェンにそう言うと、盆を片付けに行った。

「あの、ルオ長老。俺も……あなたの弟子になれますか?」

陶霖タオリンが訊ねると、罗景真ルオジンジェンは氷のように冷たくもまっすぐな眼で陶霖タオリンを見た。

「まずは、入門試験を受けなさい。ちょうど一月後にある。門戸は広く開かれている。この試験で落ちることは殆どない。資質、適性が問われる。試験を受け、適性を考えて師を選びなさい」

「わかり、ました」

陶霖タオリンが聞きたかったのは、そういうことではなかった。

けれど、出かけた言葉を飲み込む。

「師が決まるまで、弟子部屋にそなたの部屋を用意した。これから私の弟子たちに会わせる。困ったことがあれば、彼らに尋ねると良い」

陶霖タオリンの心がまた1段階沈んだことに、この無愛想な男は気づきもしないのだろう。

尋ねる前に続けざまに言われ、ただ頷くことしかできない。

「他に聞きたいことは、あるか」

「……いえ」

罗景真ルオジンジェンはまた彼の頭にぽん、と手を置くと、盆を手に席を立つ。

陶霖タオリンは迷子にならないよう、慌てて後を追った。




午前は昨晩約束したとおり、罗景真ルオジンジェンに巡風門の敷地内を案内してもらい、弟子部屋には自分の寝台と数枚の道服を用意してもらった。

部屋は葉英イエインと同室だった。

陶霖タオリンはほくほくとした気持ちを隠しきれなかったが、一緒にいたのは罗景真ルオジンジェンだ。

彼は相変わらずずっと無愛想で表情を変えることなく、淡々と説明をしているだけだった。

きっと陶霖タオリンのほくほく顔には気づかなかったはずだ。


陶霖タオリンだ。故あって、入門することになった。一月後の入門試験に参加するので、それまではそなたたちにも世話を頼みたい」

罗景真ルオジンジェンは、彼の弟子たち──葉遠瑶イエユエンヤオ温柔燐ウェンロウリン鄭花澈チョンホワチュウ──が揃うと、用件を淡々と言い切った。

「わかりました」

「でも師尊、僕たちが修練している間はどうするのですか?」

温柔燐ウェンロウリンと呼ばれた少年が、大きな目できょろきょろと罗景真ルオジンジェン葉遠瑶イエユエンヤオ陶霖タオリンの三人を見ながら、言う。

塵世じんせい殿や養心堂、もしくは……」

罗景真ルオジンジェンが言葉を切ると、目尻の吊り上がった気の強そうな一番下の弟子が初めて口を開いた。

「浄務閣で働けばいい」

鄭知チョンジーっ!」

鄭花澈チョンホワチュウは、葉遠瑶イエユエンヤオに頭を軽く叩かれて口を尖らせている。

「浄務閣とはなんですか?」

陶霖タオリン罗景真ルオジンジェンに聞くと、彼は鄭花澈チョンホワチュウを一瞥してから話し出す。

「浄務閣は、巡風門の雑務を総括している」

罗景真ルオジンジェンは続けて言う。

「依頼された任務の振り分け、堂舎の清掃、庭の整備、廊下や階の維持管理。日々の廃棄物の回収と搬出。厨へ納める食材や、修行に用いる資材の受け取りと仕分け。巡風門へ届く書簡の管理、それから……」

「もう、大丈夫です」

罗景真ルオジンジェンはそうか、と続ける。

「一月という期限付きで身を置くなら、適した場所のひとつだろう」

陶霖タオリンからわずかに視線を外した。

「……ただ総括している老婆が、少々厄介なだけだ」

鄭花澈チョンホワチュウの口角が上がった。

罗景真ルオジンジェンは咳払いをすると、続ける。

「まあ、ひとまず塵世殿か養心堂に話をしておこう」


場所を覚えるまでは一緒に行動しよう、という葉遠瑶イエユエンヤオのひとことで、陶霖タオリンは皆の修練についていくことになった。

門下生の基本的な日課は、午前が全体での修練、午後は諸長老の判断で修練や、依頼を受けて外務、もしくは法具や術符の作成・修理などというのが基本的なものらしい。

罗景真ルオジンジェンの住まいは、巡風門の広大な敷地の隅に、隠れたように建っていた。

罗景真ルオジンジェンの住まいを出ると、浄務閣の脇を通り、門下生たちの宿舎と蓮池も通り過ぎて、養心堂──朝餉を食べたあの大食堂だ──の横の生い茂る木々の隙間を抜け、ようやく修練場に到着する。

陶霖タオリンははじめ、ぼんやりと師兄たちの鍛錬の様子を見ていたが、すぐに飽きた。

辺りを見渡すと、少し離れたところで別の門下生が長老を相手に直接稽古をつけてもらっているところだった。

門下生は陶霖タオリンよりも随分と年上に見える。

それもそのはず、彼は素早い身のこなしの長老と互角に渡り合っているように見えた。

木刀を使って、剣術の修練だろうか。

「かっこいい……」

「危ないっ!!」

ドンっと何かに突き飛ばされた。

「いっ……」

雑草がまばらに生えた地面に盛大に転がり、陶霖タオリンは衝撃で息が詰まる。

「陶師弟!大丈夫か?」

またもはじめに駆け寄ってきてくれたのは、葉遠瑶イエユエンヤオだった。

陶霖タオリンが視線を感じて見ると、彼の一つ年上の鄭花澈チョンホワチュウが近くに倒れている。

その向こうに温柔燐ウェンロウリンがおどおどしながらも近寄ってくるのが見えた。

陶霖タオリン

低く冷たい声。

罗景真ルオジンジェンが歩み寄ってくるのを感じて、恐る恐る顔を上げる。

近づくほどに見上げるほど大きいその男は、陶霖タオリンを氷のような目で見て……溜め息をついた。

鄭花澈チョンホワチュウ

「はい、師尊」

「怪我はないか?」

「……はい」

罗景真ルオジンジェン鄭花澈チョンホワチュウの袖や裾を捲り、傷がないことを確認すると、今度は陶霖タオリンを同じように確認し、立ち上がらせる。

葉英イエイン温安ウェンアン鄭知チョンジー

「「はい」」

「私はこの者の手当をしてくる。続きをしていなさい」

後ろの方で、「彼、傷だらけだったよ。今朝も転んだのでしょう?その、大丈夫なのかな」という温柔燐ウェンロウリンの話し声が聞こえた。

陶霖タオリンは腕を掴まれ、引き摺られるように歩く。

また罗景真ルオジンジェンの居室に戻るのかと思ったが、今度は養心堂を左に曲がり、すぐ隣接する長い平屋に入って行った。


戸を開けた瞬間から、特有の匂いが漂う。

張月ジャンユエ、この者の手当を頼みたいのだが」

罗景真ルオジンジェンは真っ直ぐ室内を進み、忙しなく動き回る人のうちの1人に話しかけた。

陶霖タオリンの母より、もっとずっと年上の女性だ。

彼女は罗景真ルオジンジェンに気づくと、持っていたものを少し乱雑に卓の上に置いた。

目にかかった長い黒髪を耳にかけながら話す。

「あぁ、おはよう、ルオ長老。その子は……見ない顔だね。どうかしたの?」

「昨日引き取った、恩人のこどもなんだ。昨日も今朝も転んだのに、また先ほど弟子の1人とぶつかって転んだ」

「そうか。どうしてそんなに……と聞きたいところだけど」

彼女はそこで区切って、陶霖タオリンを見て、ははっと笑う。

「君の苦労は理解したよ」

陶霖タオリンはこの短い会話でも既に集中できず、ずらりと並んだ薬棚とそこを行き来する大人たちを見ていたが、自分が笑われたことがわかり、はっとして張月ジャンユエを見る。

すると、罗景真ルオジンジェンもこちらを見て目を細めたかと思うと、また張月ジャンユエを見て言った。

「頼んだ」

罗景真ルオジンジェンは薬堂を出ていこうとしたが、振り返って言った。

「迎えに来る」

そして、じっとこちらを見つめる。

陶霖タオリンは、はい、と小さな声で言った。

罗景真ルオジンジェンはようやく薬堂を出ていった。


陶霖タオリン張月ジャンユエに促され、椅子に腰掛ける。

「名前は?」

陶霖タオリン

「そう。陶霖タオリン、おまえは幾つだ?」

「11」

「どうしてこんなに傷だらけなんだ?」

「……」

陶霖タオリンはどの傷の説明をすればいいのかわからなくて黙っていた。

張月ジャンユエは、裾や袖を捲って確認すると、「ついてきな」と奥の部屋に入って行く。

そこは何台もの寝台が置かれていたが、そのうち使われていたのは2台だけだった。

陶霖タオリンは寝台の一つに腰掛けると、張月ジャンユエがそのまわりにすだれを下ろした。

「衣を脱いでごらん」

陶霖タオリンは言われるままに紐を解き、今日頂いたばかりの白と青のきれいな……それなのに、土まみれにしてしまった道服を脱いだ。

陶霖タオリンはまた何か聞かれるかと思ったが、張月ジャンユエは何も言わずに薬を用意し、濡らした布で清めてから軟膏を塗っていく。

「よし、終わったよ」

彼女はそう言うと、病衣だろうか──灰色の長衣を陶霖タオリンに手渡した。

「何も聞かないの?」

「言いたいなら言えばいい」

「……ありがとう、ございます」

張月ジャンユエがニッと笑うと、深く刻まれた笑い皺があらわになった。

隣の部屋の扉を開けて出ていく。

陶霖タオリンは着替え終わると、土まみれの衣を抱えて部屋をあとにした。

ジャン先生」

声をかけると、張月ジャンユエは薬の量を計る手を止め、胡乱うろんげに陶霖を見る。

「その辺で待ってなよ。迎えがくるんだろ」

「あ、えっと、そうじゃなくて」

「まだ何かあるのかい」

「その、衣を洗いたいのだけど、洗い場はどこにありますか」

「お前はその手でどうやって洗うんだ」

「……そうだった」

張月ジャンユエはまた面倒な顔をしたが、薬杯を机に置くと、ついてきな、と外に出る。

「洗い場の人らに頼めばいい。自分の衣は皆自分で洗うものだが、おまえは洗って返したいんだろう?」

陶霖タオリンは、こくりと頷き、張月ジャンユエのうしろを歩く。


しばらく歩くと、雑木林の向こう側に水の音と大きな声で話をする女の声が聞こえてきた。

「この子の衣を洗ってやってくれないか」

「別に構わないけど……兄弟弟子には頼めないの?」

女は病衣を着て、両手に包帯が巻かれている痩せた少年を見て言ったが、横から張月ジャンユエが答える。

「昨日門に来たばかりなんだ」

女は、そう……と言って、目で桶を指す。

「洗ってあげるから、そこに置いときな」

「ありがとうございます」

「どうしてジャン先生がこの子の面倒を?」

両手に泡をつけた女が聞くと、張月ジャンユエは無遠慮に陶霖タオリンの衣の裾を持ち上げて言った。

「こいつがこんなだからさ」

膝には包帯が巻かれ、その下は細かな擦り傷や青や黄色い痕が広がっている。

陶霖タオリンは、いかにも「可哀想に」というような視線を感じ、居心地悪く両手の包帯を触りながら言った。

「あの……俺も、手伝ってもいいですか」

「その手で何を……じゃあ、そこの桶に入った布を干してもらえる?」

「はい」

木桶は水を絞った布でずっしりと重く、陶霖タオリンは両腕で木桶を抱える。

「終わったら戻ってきなよ」

張月ジャンユエは薬草の匂いのする手を陶霖タオリンの頭にのせ、それから来た道を戻って行った。

もう11歳で、掃除も洗濯もできるのに。

罗景真ルオジンジェンもだが、どうしてそんなに陶霖タオリンの世話を焼き、所在を確認したがるのか。

そう思ったが、木桶を持った両手が包帯の下で擦れて微かに痛い。

傷だらけの身体は大人達を心配させるのだ。

長く張られた紐の下に木桶を下ろし、布を一枚一枚伸ばしながら、手際よく干していく。

彼は背が低いが、母親と生活していた時、洗濯に関しては彼の仕事だった。

木桶いっぱいに入っていた洗濯物を全て干し終えると、先ほど衣を預けた女のところへ戻る。

「もう終わったの?」

「はい」

「ほら、君の衣ももう洗い終えたけど……ここに干していく?」

「おねがいします」

他の衣も入った木桶を持とうとしたが、女はひょいと木桶を持ちあげ、干し場に持っていく。

「うん、これなら大丈夫そうだ」

陶霖タオリンが干した布の隣に、白地に青の縁取りを施された道服を掛ける。

風が吹き、木々の葉が掠れる音が、水路の音を掻き消した。

「ありがとう、助かったわ」

「はい、えっと、こちらこそ、ありがとうございます」

礼を言うと、女は口角を上げた。


薬堂に戻ると、張月ジャンユエに駆け寄る。

ジャン先生、あの、えっと、俺に何かここで手伝えることはありませんか」

張月ジャンユエは慌てた様子の陶霖タオリンを見て、少し驚いたように眉を上げ、それから、少し考えるように薬堂の中を見回す。

「じゃあ、あれを手伝ってくれるか」

張月ジャンユエが、奥で薬師が薬研を動かしているのを見て言った。

「あれは何?」

「薬草を擦り潰しているんだよ。このままじゃあ使えない」

そう言って、手渡された籠には、薬草が数種類集められていた。

「これは内服薬にするから、何も混ぜずにこのまま薬研で細かくすり潰すんだ。終わったら確認するから、また声をかけてくれたらいい」

「はい」

奥に置かれた卓では、1人の薬師が薬研で薬草を擦り潰し、もう1人は分厚い書を見ながら薬草を天秤に置いて計っていた。

その奥には天秤、そして使われていない薬研が置いてある。

薬師たちは皆、陶霖タオリンを一瞥すると、すぐに興味を失ったように作業に戻った。

研槽けんそうの中を確認すると、そこに籠の中の薬草を全て放り込んだ。

袖を捲り上げ薬研車を掴むと、横から腕を、細長く白い手に掴まれた。

「おい」

陶霖タオリンは腕を掴んできた男を見る。

「はじめからそんな沢山入れちゃあだめだ。少しずつ入れて、はじめは叩き潰すようにする。全部が粗く砕けてから、ようやく押し付けながらすり潰すんだ」

この薬堂で働く人はどうして皆こんなにぶっきらぼうな話し方なんだ。

陶霖タオリンはそう思いながらも、言われた通りに薬草を籠に戻し、それから少しだけ研槽に入れた。

トントン、と叩くように潰すが、なかなか粗くならない。

この隣にいる男の薬研の中は既に粉々で、それでもまだ足りないというように手を動かしているのに……。

陶霖タオリンは夢中になって、薬草をトントン、と叩く。

思ったより硬い。

何度も繰り返すうちに、草の形が崩れていく。

籠の中にあった全部が粗く草の形をなくす頃には、陶霖タオリンの腕は疲れて上がらなくなってしまった。

ふと視線を感じると、罗景真ルオジンジェンが入り口近くの椅子からこちらを見ている。

ルオ長老」

いつのまに近づいていたのか、張月ジャンユエが薬研の中を見る。

「うん、随分細かくなってきているな。もう大丈夫だ、続きは私がやるよ」

「え、でも」

「また明日から、来てくれるんだろ?」

陶霖タオリン罗景真ルオジンジェンを見ると、彼はこくり、と頷いた。

ルオ長老から話は聞いたよ。あの浄務閣でたぬ……婆さんに捕まるよりはずっといい。一月の間だけだろう」

「えっ、いいの!?ありがとう!……ございます」

張月ジャンユエはまた、ニヤリと笑った。

「辰の刻に来な」

「はい!」




登場人物

【巡風門】……玄国十大門派のうちの一つ。

スー掌門しょうもん蘇海嶺スーハイリン

罗景真ルオジンジェン……長老

張月ジャンユエ……薬術師


罗景真の弟子(名・字・年齢) 

葉英イエイン遠瑶ユエンヤオ・15歳

温安ウェンアン柔燐ロウリン・13歳

鄭知チョンジー花澈ホワチュウ・12歳

陶霖タオリン・11歳


※名……生まれたときにつけられる名前。家族や目上の者、ごく親しい者が用いる。

あざな……本名とは別に持つ正式な呼び名。元は成人後につける別名だが、本作では仙門へ入門した際に授けられる。社会生活において広く用いられる。


用語解説

門下生もんかせい……仙門に所属し、修練や学問を学ぶ弟子たちの総称。

師尊……弟子が師へ向けて使う敬称。尊敬と親愛を含む呼び方。

長老……仙門内で高い地位と実力を持つ者への呼称で、弟子の指導や門の運営を担う。


時刻のよみかた

・一時辰=二時間。

一炷香いっちゅうこう……約30分(一本の線香が燃え尽きるまでの時間)

【十二時辰】

* 子の刻:23時〜1時

* 丑の刻:1時〜3時

* 寅の刻:3時〜5時

* 卯の刻:5時〜7時

* 辰の刻:7時〜9時

* 巳の刻:9時〜11時

* 午の刻:11時〜13時

* 未の刻:13時〜15時

* 申の刻:15時〜17時

* 酉の刻:17時〜19時

* 戌の刻:19時〜21時

* 亥の刻:21時〜23時


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