序章
あとがきに用語解説を入れています。
「おい!ガキ!何してんだ!」
薄汚れた細い腕が、屋台の上へ伸びた。
湯気を立てる包子をひとつ掴み取ると、その腕は一瞬で引っ込み、次の瞬間には通りの反対側へと走り出していた。
痩せ細った子どもだ。
「またてめえか!」
屋台の主人が追いかける。
少年は両脚を懸命に動かしたが、石に躓いて派手に転んだ。
手から離れた包子が、砂の上を転がる。
「こんのクソガキ!」
怒鳴り声が降ってくる。
だが、少年の目に映っているのは、砂まみれになった包子だけだった。
胸ぐらを掴まれていることにも構わず、少年はそれを拾い上げ、砂をはらうことすらせずに口に押し込む。
「おい!このっ!!……おい、おまえ」
屋台の主人は呆れたように手を離した。
包子はもう売り物にならない。
しばらくの間、少年が砂だらけの包子を貪る姿をあっけに取られて見ていたが、やがて小さく舌打ちし、屋台へ戻っていった。
それから数日。
再び来た少年が包子を盗むと、屋台の主人は形だけ追いかけて、すぐに店番に戻った。
「物乞いですか……」
屋台の主人は、声の主を見た。
日に焼けた浅黒い肌。
無駄のない筋肉に覆われた逞しい体躯。
まだ青年と呼べる年頃でありながら、その存在は雑踏の中にあっても際立っていた。
「ああ。あいつは最近よくこうしてうちの商品を盗みにくる子どもで……仙師様、どうにかならないものですか。いつまでも見逃してやるわけにもいかない」
仙師と呼ばれたその人、罗景真は走り去っていく少年を見ていたが、その腰にきらりと天青が光るのを見ると、氷のような目つきになり、身を翻して少年の向かった方へ駆け出す。
「仙師様、そのガキをどうするんです!?まさかとらえて……」
屋台の主人が言い終わらないうちに、罗景真の姿は雑踏の向こうへ消えていた。
陶霖はとにかく腹が減っていた。
母が亡くなってからというもの、彼は母が残した僅かな蓄えでなんとか食い繋いでいる。
しかし、その僅かな金も底を尽きる前に盗まれてしまっていた。
「じゃまだ!そこをどけ!」
包子を食べ終えた陶霖は道の真ん中にいた。
気づくと目の前で男が怒鳴っている。
母を失い、飢えた少年には男の言葉も届かない。
「何も言わねえ……気味の悪いガキめ!」
べチン!という乾いた音と共に、薄茶けた小さな身体が道の端へ吹っ飛んだ。
少年は蹲ったまま動かない。
「おい……死んだのか?」
想像以上の軽さで飛ばされた少年が動かなくなったのを見て、男は問いかけた。
しばらくの間見ていたが、やがて、その身体が小さく震え始めたのを見ると、興味を失ったように馬へ跨り、馬車を引いて去っていった。
「生きているか」
道の端で蹲った陶霖の前に、深青の衣を纏った大男が、ゆっくりと膝をついた。
「……」
「そなたは、死ぬのか」
死にかけの獣のように震える少年を見つめ、罗景真はもう一度問う。
「生きる気はあるか」
「……うるさい」
怒気を含んだその声は、あまりにもか細い。
通りを歩く人々が、深青の衣を纏った大男に目を留めては、その前にある死にかけの獣を見て目を逸らす。
「私は、巡風門の罗景真という。そなたの名は」
「……陶霖」
薄汚れた少年は目だけを動かして、罗景真を見た。
「陶霖。そなたの、親は」
「死んだ」
その眼光は、痩せ細った身体に反して、目の前の相手を殺そうとでもしているかのような鋭さを放っている。
「そうか……」
「何がしたい?俺を笑いに来たのか?」
「いや。そなたは巡風門の弟子になる気はないか?」
巡風門。
この地に生まれた少年なら誰もが憧れる仙門だ。
しかし、陶霖にとってはそうではない。
母から聞いた名前。
罗景真。
その男が今、目の前にいる。
「ならない」
「そなたの母親から便りが届いたのだ。その玉佩……なぜ、巡風門に来なかった?」
その視線の先には、陶霖の腰に下げられた水色の玉佩がある。
陶霖はそれに気づくと、玉佩を隠すように立ち上がり、跪いたままの男を見下ろして言った。
「……どうしてもっとはやく、お母さんを助けてくれなかったんだ」
「は……?」
「もっと早く、おまえが助けてくれたら!お母さんは死ななかった!」
「……そうか。そうかも、しれないな」
罗景真は理解した。
この、木の枝のように痩せ細って薄汚れた子どもは、母の死を受け入れることができずにいるのだ。
小さな少年の拳が、罗景真の脚や身体を何度も殴った。
罗景真はただ、冷たいその無愛想な表情のままでその拳を受け止めていた。
目の前の大男は、幾ら殴っても動じない。
やがて、陶霖の方が力尽き、ずるずるとその場に座り込んでしまった。
「気は済んだか?」
陶霖は答えず、ただ睨み返した。
「では、行こう」
罗景真は陶霖を、まるで荷物のように軽々と抱える。
「……おろせ」
そう言いながらも、陶霖は抵抗しなかった。
もう腕を上げる力すら残っていなかった。
その広い肩は温かく、揺れは少なく、心地よさすらあった。
空腹と疲労、そこにやってきたぬくもりに耐えきれず、陶霖の意識は次第に沈んでいく。
「母親の想いを、無駄にするな」
罗景真の低く静かな声が、大樹のような身体の奥から響く。
陶霖は、腰元にある玉佩を握りしめた。
たったひとつの、形見の品だ。
少年はわかっていた、何が正しいのかを。
やがて、意識は途切れ、指から力が抜ける。
天青の玉佩がこぼれ落ち、月夜に照らされてキラキラと輝いた。
用語解説
包子……日本でいう中華まん
玉佩……古代中国から伝わる、玉で作られた装飾品のこと
仙師……霊力を操り、妖怪や邪霊を退治する専門家・修道者のこと
仙門……霊力を持つ者たちが修練や術の研鑽を行う組織。邪祟討伐や地域の守護も担う。




