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氷の瞳と冷たい雨  作者: 芋洗べに子
第七章 黎国
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第一話 立場


明稀ミンシー様、やはりお手伝いさせていただいても?」

控えていた侍従が遠慮がちに問いかけた。

人に衣を着せられることに慣れていない陶霖タオリンは、自分でやると言ったものの、広い袖に手を取られて帯ひとつ満足に締められない。

「……お願いします」

この控えめだが恐ろしく仕事のできる侍従は、荷晴フーチンと言った。

彼は陶霖が黎国に来た当初から世話をしてくれていた初老の侍従だ。

初老といっても、姿勢も良く頭が切れテキパキと動くので、全く年相応には見えないが。

「髪を整えますので、おかけください」

もう一人の侍従である子元ズーユエンは、荷晴フーチンとは正反対で歳若く元気な印象だ。

歳は陶霖の二歳上だそうで、若いけれど彼もすごく仕事のできる人だった。

陶霖が鏡の前に座ると、子元ズーユエンは櫛で素早く髪をまとめ上げ、上から金色の飾りを被せた。

黎国にきてから上質な香油で手入れをしてもらっている髪は、いつだって指通りが良い。

「お似合いですよ」

「……ありがとう」

頭に載った上品な金の冠は、どうにも落ち着かなかった。

鏡に映る自分の姿は、まるで他人のようだ。


今日は、桓明稀ファンミンシーとして民の前に立つ日だった。

陶霖は、正式にれい国に帰属することが決まった。

桓明稀が国へ戻ったことは、道中で多くの人の手を借りたこともあり、既に広く知れ渡っていた。

皇族としての公務も、国に身を置く以上は担うこととなった。

皇位継承を巡る政治的な混乱は、当面起こりそうにない。

現皇帝・桓碧雲ファンビーユンは修為も高く、常人と比べてはるかに長命であり、何より、民からの支持が厚いらしい。

それから、母・杨雪蘭ヤンシュエランもまた奇跡の血族であり、加えてその人柄ゆえに民には愛されていた。

十八年を経た今なお、彼女を覚えている者が多いことは、陶霖自身も肌で感じていた。


城の前にはたくさんの民が集まっているらしい。

そういった場に不慣れな陶霖は、お披露目の話をされた時にあからさまに嫌な顔をしてしまい、桓碧雲には申し訳なさそうな顔をされてしまった。

この国で世話になる以上は皇族としての責務を全うしなければならないということは、陶霖も理解している。

お披露目なんて、と思っていたけれど、想像以上に桓碧雲と母・杨雪蘭は人気が根強かったらしい。

当然その二人の子である陶霖にも期待の目が集まるというものだ。

この国に来た当初から感じていた歓迎の空気は、気のせいではなかったのだ。




「行きましょう」

荷晴フーチンのよく通る上品な声に、背筋が伸びる。

「お綺麗です」

子元ズーユエンは思わずといったように感嘆の言葉を漏らした。

「……ありがとう」

人は装いで変わるものだ。

背筋を伸ばしていれば、母親に似たこの顔が、少しは自信のなさを隠してくれるだろうか。

あまり実感がないせいか、緊張はしていない。

しかし、部屋の外に出て歩きだすと、空気のざわめきを感じて足元が覚束ないような心地を感じた。


桓碧雲は、陶霖の姿を見ると口角を上げ、いつもの温厚そうな表情になった。

「……似合っているな」

一言だけだった。

桓碧雲は陶霖よりひと足先に民の前に姿を現す。

途端にわっと歓声が上がった。

まるで、地面に響くような歓声だ。

「桓明稀」

名前を呼ばれて、陶霖は背筋を伸ばす。

陶霖は辺りを見回すと、侍従や近衛兵たちが皆誇らしげに陶霖の姿を見ていた。

──父上は、すごいな。

陶霖がこうして堂々と胸を張っていられるのは、この父・桓碧雲のおかげに他ならないのだ。

桓明稀は一歩、一歩と民の前に姿を現す。

恐ろしいほどの静寂に包まれた。

その沈黙を破ったのは、誰だろうか。

「「明稀様!!」」

「「明稀様!!」」

あちこちから声が上がる。

伏せていた目を前に向けると、一人ひとりの表情が見えた。

ぶわりと全身が粟立った。

「皆、とても良い顔をしているな」

横に立つ桓碧雲が言った。

この人は、どれだけのことを乗り越えてこの場に立っているのだろう。




やがて陶霖には、国政や歴史について学ぶために教師をつけられ、日々は学びに費やされるようになった。

ありがたかったのは、修練する時間を確保してもらえたことだ。

それから、多忙な日々を過ごすことで、巡風門のことについても考える時間もなく、寂しい気持ちを思い出さずにいられることもありがたかった。

夕餉は変わらず、父・桓碧雲とともにとる日々が続いた。

生活に慣れるにつれて、次第に城内にいる他の皇族とも顔を合わせる機会が増えてきた。

異母兄弟が三人、さらに従兄弟にあたる者は複数。

さすがは皇族とあって、その数は多い。

友好的に接してくる者もいれば、露骨ではないものの敵意を向けてくる者もいた。

とはいえ、陶霖は現皇帝の直系の血を引く者であり、あの杨雪蘭ヤンシュエランの子でもある。

直接敵意を向けてくる無謀な者はいなかった。


国政や歴史の学習はまだまだ必要だが、本来年単位で学ぶところを、この一月の間、詰め込みで教えてもらっていた。

陶霖の詰め込み授業ということだけでなく、教師にも他の生徒がいるため、これから先は合間を見て、基本的には毎日酉の刻の一時辰が授業時間に当てられた。

空いた時間には、以前より桓碧雲と話し合っていた職務をすることになった。

国軍の、術符の研究を担当とする部署だ。

職務といっても、術符の研究は陶霖にとっては趣味のようなものだったので役に立てるかわからなかったが、桓碧雲によるとこの国の術符と玄国のもので違う部分もあるので、互いに勉強になるだろうとのことだった。

それから──邪祟じゃすいの力を強めたり、邪祟を寄せ集めたりする術があるのなら、陶霖自身、それを知りたかった。

黎の国軍内にある術符研究部門は、国内でも最新研究がされており、研究資料も豊富である。

「明稀様、おはようございます!」

「おはよう、明稀様」

「おはようございます」

陶霖は、こうして軍の術符を研究する部門に顔を出すようになった。

どこへ行っても皇族としての立場が付いてくるので、邪魔にならないかと心配していたのは杞憂だった。

ここに務める研究員達は、術符研究の精鋭と言えるだろう。

彼らは陶霖を見下すわけでもなく、隣国の術符について学べると、歓迎した。

「明稀、一昨日話していた件だ。やはりここを変えたら持続時間は伸びたのだけれど、代わりに明るさが……」

そう話す駿成ジュンチェンは、陶霖と同じ歳で、新兵の訓練期間を卒業し、昨年からこの術符研究の部署にいる若手だ。

彼も仙門の出身であるらしく、すぐに仲良くなった。

「既に改良したものをこんなにたくさん……ありがとう」

彼の卓の上と床の上には、たくさんの術符が散らばっていた。

そのどれもが、少しずつ書き換えられた明火符だった。

「ううん。明稀は公務や勉強だってあるわけだし、しかたないよ。それより、まだこれ試してないから、一度試してみたいんだ」

「わかった」

駿成は卓の上の術符をかき集める。

陶霖も手伝い、集めた術符を入れた箱と記録用の用紙を持って外へ移動する。

術符研究部は、軍の建物が集う一角にあった。

建物は古いものだが、特筆すべきはその大きさである。

研究班それぞれに与えられる研究室は広く、軍で使用する術符で作成が難しい術符に関してはここでつくっているものもある。

地下には用途ごとに結界で守られた実験室があり、火や衝撃を伴う研究も安全に行えるようになっていた。

研究部全体にも強力な結界が張られ、立ち入りできる者は制限されている。

陶霖付きの衛兵も最初こそ研究部内まで入っていたが、今では侵入者の心配もないため研究部の建物の外で待たせることになってしまった。

終わる頃に迎えに来てくれれば良いと言っているのだが……。

実験で使う霊力については、使用する数は制限されているが、用意された霊石を用いることもできる。

しかし、霊石は貴重で高価なため、兵士に手伝いに来てもらうことも多い。

近頃、陶霖たちは鎮烈ジェンリーという訓練兵に実験に協力してもらうことが多い。

初めのころは霊力の高い陶霖自ら術符に霊力を注いでいたが、駿成が優秀すぎて研究が爆速で進むため、陶霖一人では霊力の回復が間に合わないのだ。


「では、この術符から頼む」

研究室の裏にある空き地で、駿成ジュンチェンが手渡した術符に鎮烈ジェンリーが霊力を込めた。

ボッと激しく燃え、辺りは一瞬真っ白になるほど明るく照らされたが、すぐに消えた。

陶霖は手元にある、いま使用した術符の見本を見ながら言う。

「ここが強さを分けるような感じだね。鎮烈、霊力の消費はどうだ」

「一瞬勢いよく吸い込まれるように感じたが、一瞬だったのでそれほどでもなさそうだ」

「了解。瞬発的な明度を得られる……と」

術符の研究は地味で、地道だ。

ほんの少し変えて描いた術符を何通りも試して、何の成果も得られないということが当たり前にある。

そのため、術符の研究をしようなどという酔狂は少ない……と、鄭知チョンジーが言っていた。

巡風門で術符の研究をしていた長老といえば、罗景真ルオジンジェン、程長老、それから素長老と、他にも何人かいただろうか。

陶霖は、罗景真や葉英イエインが術符の研究に熱心であったために、術符に興味を持ち一緒に研究していたが、陶霖よりも賢い温安ウェンアンや鄭知ですら、地道な研究は面倒だと言っていた。


「済まないが、そろそろ霊力切れだ」

二十通りほど術符を試したところで、鎮烈ジェンリーが言った。

研究中の術符は霊力の使用量も安定しないため、十も試していないのに霊力切れになってしまうようなことも度々あるのだ。

鎮烈は訓練兵だが、陶霖たちよりいくつか年上で仙門出身であるため霊力が高い。

駿成ジュンチェンと同じ仙門の出身であるため、よく手伝ってもらっているのだ。

「わかった、ありがとう」

「いつもありがとう、今回も助かったよ」

国軍に志願する者は、玄国でもそうだったが、仙門出身の者も多い。

情報管理部や技巧部、薬術部や術符研究部などの非戦闘部門には仙門出身でない者も多いが、特に実戦部隊では仙門出身かどうかで幹部に進めるかどうかが大きく異なる。

国軍では昇進するほど待遇も圧倒的に良くなるため、競争も激しいらしい。

鎮烈はきっとすぐに訓練兵を卒業し、精鋭として実戦部隊に入るのだろう。

「そろそろお前達も休憩したほうが良いだろう、一緒に休もう」

「うん、そうだね」

鎮烈は見た目こそ屈強で真面目で厳格な兵士に見えるが、実際はこうして時折茶にも誘ってくれる。

面倒見が良いのだ。


研究室に戻ると、鎮烈ジェンリーが持ってきた茶を淹れてくれた。

「このお茶、おいしいね」

「故郷の特産品だからね」

いつもの研究室に置いてある軍御用達の安茶とは香りの広がり方が全く違う。

ふわりと花のような香りが何とも独特だが、それがクセになりそうだ。

「鎮烈の故郷はどこ?」

「北方の、玄との国境近くにある村だよ」

「そうなんだ」

陶霖は玄と聞くと、どうしても巡風門のあの景色を、葉英や温安、鄭知と養心堂で食べる食事を……師尊が背筋を伸ばして文机の前に座る姿を、思い出してしまう。

「私の母親も、玄国出身なんだ」

鎮烈は、陶霖が少し考え込んだ様子を見てそう言った。

「そうなの?」

「父が商人で、玄に買い付けに行った時に母と出会って、一目惚れしたんだそうだ」

「なんだか、運命的だね」

そう言って駿成ジュンチェンが目を輝かせると、鎮烈は肩をすくめて言った。

「どうだろうね。でもまあ、私は両国の血が混ざっているのだから、橋渡しの役目ができればと思って兵に志願したんだ」

「そうだったのか」

今度は陶霖が目を輝かせて話す。

「鎮烈、よろしく頼むよ!俺も玄国とこの国の橋渡しがしたいと思っているんだ。今はまだ知識も力もないけど……」

「いや、君は凄いよ。全く知らない土地で、簡単なことじゃないだろう」

躊躇うことなく褒め言葉を言う鎮烈に、陶霖は照れながら言う。

「そんなこと」

「僕も力になれるよう頑張るよ!……といっても、僕こそ術符のことしか知らないからなあ」

そう言った駿成に、鎮烈が笑みを浮かべながら話す。

「ここで改良した術符を玄国に技術として渡せばいい。互いに助け合うことはいくらでもできる。何なら、駿成自身が玄に行って、今の明稀のような役目を担っても良いだろ」

「そうか……僕もそうして玄に行って、素敵な女性と出会って……」

「結局お前はそこか」

再び目を輝かせて空想の世界に行ってしまった駿成に、鎮烈と陶霖はツッコミを入れる。

「術符を書く才能は随一なのにね」

「やはりそこに全て能力が吸い取られてしまったのかな……」

鎮烈と陶霖は呆れた顔で目を見合わせた。


「やっぱりここがうまくいかないんだよなあ」

休憩を終え、まだ試していない術符も数枚残っていたが、一先ず失敗作の整理をしていた。

「俺も少し考えてみたのだけど、繋げて書いてみるというよりも重ねるのはどうだろう。ちょっと書いてみてもいいか?」

「なるほど……そしたら大きめの黄紙がいいかもしれない」

「うん、持ってくる」

術符を書くのは慣れていないと難しい。

複雑な模様を少しでも間違えたり歪んでしまうと効果を発揮できなかったりするのだ。

たった1日であの量の術符を書き終えた駿成はどれだけ手先が器用なのだろうと思う。

陶霖は大きめの黄紙を数枚持ってくると、駿成とともに術符を書き起こす。

そうして二人とも書き終えると、それと先ほど試し終わらなかった術符を持って再び外へ出た。


今度は二人同時に、先ほど書いた術符から試しに霊力を少しずつ送る。

「あ、良い感じかも」

「こっちもだ」

二人の前で光を放つ明火符は、陶霖のもののほうが少し明かりが暗いが十分な明るさで、かつ大きな霊力の減りもなく保っていた。

「しまった。香時計をもってくるのだった」

しばらく互いの明かりを観察していると、駿成がそう呟く。

「そうだな。……それにしても、こんなにあっさり」

「まだ改良点はあるけどね。明るさも維持力も十分だけど、霊力の消費をもう少し減らしたいところかな」

「十分に成功だと思うけど、確かにそうだね」

駿成の探究心は見習わなければならない、と思う。

巡風門にいた頃、術符の研究といえば、葉英と一緒に変わった術符をつくってはいたずらをしてばかりで、任務で使う術符を改良しようなどと深く考えることはなかった。

葉英を失ったあの任務で、どれほど危険な場にいたのか、自分がどれほど未熟だったのかをようやく思い知ったのだ。

目の前の明火符は時折風で弱くなるが、風が止むと再び明るさを取り戻して煌々と灯る。

「風に影響を受けやすいのも、改良が必要だな」

「うん、外でも安定して使えないとね……あー、霊力結構使うなあこれ」

誰が書き誰が使っても、最低限の効力が保証される術符をつくるのが、術符研究員の責任なのだ。

「そうだな、そこがいちばんの課題かも……」

こうして陶霖は駿成とともにうんうん唸りながら研究を進め、他の研究員たちには玄国で使われている術符とその細かな部分の作用について説明を行ったりして、城に戻る。

他の研究員たちがやっている研究も気になるが、同時にいろんな術符の改良に手を出すことができないのがもどかしい。

陶霖には、改良したい術符がまだまだたくさんある。

毎晩、研究部から借りてきた術符に関する書を読み、この国の術符について学んでいくと、かなり違いがあって面白い。

これまで玄国で使っていたものと、巡風門にいた時には知り得なかった黎国の術符を組み合わせることで、格段に改良できるはずだ。

それが、玄国と黎国の双方の人々にとって役立つものになることを、陶霖は願っていた。





登場人物

陶霖タオリン/桓明稀ファンミンシー


【黎国】

現皇帝・桓碧雲ファンビーユン……陶霖の父親

陶霖の母・杨雪蘭ヤンシュエラン……黎皇帝・桓碧雲ファンビーユンの正妃


荷晴フーチン……陶霖専属の初老の侍従。

子元ズーユエン……陶霖専属の若い侍従。

駿成ジュンチェン……術符研究部員。陶霖と同い年。

鎮烈ジェンリー……まもなく訓練課程を終える、黎国軍の訓練兵。


【玄国・巡風門】

罗景真ルオジンジェン……巡風門の長老

罗景真の弟子(名・字) 

葉英イエイン葉遠瑶イエユエンヤオ

温安ウェンアン温柔燐ウェンロウリン

鄭知チョンジー鄭花澈チョンホワチュウ


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