第一話 孤独
母はなぜ、何も教えてくれなかったのだろう。
隣国の皇子だという事実を知らされてから、陶霖は巡風門の結界内で過ごすようになり、薬堂へ行くことが多くなった。
薬術を学ぶためでもあるが、空いた時間ができるとどうしても考え事をしてしまうためだ。
薬草の調合や管理は、それらを忘れるのに丁度良い。
その頃、玄国では臨時の諸門会盟が開かれていた。
諸門会盟は、玄国の要人や各仙門の長が集まり国政や仙門に関わる事柄などを協議する場であり、定期的に開かれている。
今回は、巡風門で起きた一連の事件を受け、急遽招集された。
巡風門からは、蘇掌門、宋霄風、罗景真の三人が出席した。
話し合いは、情報共有からはじまった。
先日の巡風門の治下にある地域での邪祟の活発化、巡風門内に潜り込んでいた密偵。
巡風門の一門下生が黎国の皇子であったこと。
さらに、黎国は戦争に向けて準備を進めている様子だということ。
玄国は山々に囲まれ、一方は海に面している。
三つの隣国から攻め入られる危険は少なく、長く大きな戦からは遠ざかっていた。
対して黎国は、四方をそれぞれ大国に囲まれ、敵の多い国である。
その黎国に、本当に玄国へ兵を向ける余裕などあるのか。
当初はそう考える者もいた。
だが、ほどなくしてその考えは、使者が伝えた黎国からの要求によって覆された。
黎国が玄国に対して求めたのは二つ。
一つは、桓明稀の引き渡し。
もう一つは、玄国の貴重資源である霊石に課される税の減免であった。
その代わりに、もし玄国が他国の侵攻を受けた際には黎軍を動かし、共に退けることを約束する。
──そして、一月以内にこれらの条件に応じない場合、黎国は兵を挙げて玄国に攻め入る、と。
隣国が強行手段を取ってでも桓明稀を奪おうとする理由に関しても、この場で共有された。
桓明稀は、奇跡の民と呼ばれた杨雪蘭の子であり、その能力を受け継いでいる可能性が高い。
諸門会盟がここまで大きく荒れるのは、前代未聞であった。
それほどまでに意見は大きく割れ、論争は過激になり、その日のうちに結論は出なかった。
十日後に再度の諸門会盟を開き、採択が取られることが決まった。
そして十日後。
二度目の臨時の諸門会盟にて、玄国は黎国の要求を拒否することを決定した。
重要な切り札である桓明稀を、引き渡すことはできない。
また、霊石は玄国にとって外交の手札になる貴重な資源である。
価値を下げることは決してできない。
そして、玄国は他国に侵攻されることはあっても、その地形からして、国防に関して他国の力を必要としていない。
そうして、戦の準備が進められた。
玄国には独自の国軍が三万の兵を抱えている。
それに加えて各門派で規模ごとに決まった人数の兵を出すこととなった。
巡風門でも、戦争への準備が進められる。
挙兵にあたっては、邪祟への対処のため、門の内部には半数以上を残す体制が取られる。
そのうえで、特に戦闘能力の高い者たち――罗景真、宋霄風をはじめとする長老とその弟子たちは、有力な戦力として、最も早い段階で軍に加わることが決まった。
さらに、玄国による桓明稀の保護が決まった。
巡風門でも能力の高い者から戦場へ行くため、皇帝・玄曜淵とともに盤石な城壁の中で過ごすこととなったのだ。
陶霖は、戦の準備に追われる罗景真、温柔燐、鄭花澈に見送られ、迎えに来た兵とともに玄国の王城・玄陽宮へと向かった。
玄陽宮は、山々に守られるようにして建っていた。
石造の城壁は、いくつもの重なる屋根がひとつのかたちを成し、外からの侵入を拒むように閉じている。
巡風門は開かれた土地に結界が張られていたが、ここは結界に加え、物理的にも堅牢な防壁が築かれているのだ。
門をくぐった瞬間、音が遠のいた気がした。
人の気配はある。兵もいる。
それでも、どこか息を潜めているような静けさがある。
歩くたびに、足音が大きく響いた。
上質な造りの建物の内部は、風が吹くわけでもないのに寒気を感じる。
陶霖は、無意識に空を見上げた。
見えるのは、切り取られたように狭い空だけだった。
陶霖には、広い居室が用意された。
要人の宿泊用として設えられた部屋らしく、家具や置かれた小物の一つひとつに精巧な意匠が施されており、どこにも欠点が見当たらない。
食事をする卓と椅子が置かれた間と、寝台のある奥の間は帳で区切られ、寝台の周囲には緻密な刺繍が全面に施された豪奢な絨毯が敷かれていた。
天井は高く、剥き出しの梁にまで彩色が施され、目の落ち着く場所がない。
香炉では絶えず香が焚かれ、嗅ぎなれないにおいが薄く部屋に満ちていた。
陶霖は室内に入る度に、巡風門のあの空気が恋しくなった。
陶霖に行動制限はあったものの、城内のいくつかの場所は自由に行き来することが許された。
そのうちの一つに巨大な蔵書室もあり、陶霖は自然とその部屋へと毎日通うようになった。
これまではあまり興味のなかった国の成り立ちや歴史、他国との関係性について書を探しては読み耽る日々を過ごしていた。
身体が鈍らないよう修練もしたかったが、陶霖に行くことが許されているのは、陽の光が差し込む、綺麗に造られた中庭のみであった。
食事はいつも、侍女が運んできたものを一人で食べた。
一度だけ、玄曜淵と食卓を共にした。
陶霖にとっては誰かと食事を共にすることは久しくなかったため、その時の食事だけはいつもよりすこしだけ美味しく感じた。
玄曜淵はまた来ると言ったが、この状況で多忙を極めているのだろう、それ以来、陶霖と食事を共にすることはなかった。
居室には数日おきに湯の入った木桶が運び込まれ、沐浴もさせてもらえた。
初めの頃は侍女や衛兵達と会話もなかったが、少しずつ話すようになった。
陶霖に持ち回りで付いている衛兵たちは、この玄陽宮から比較的近い門派や、海岸部にある門派の出身だそうだ。
国軍の兵士は一般兵として各地域から集められた者たちもいるが、玄陽宮に立ち入ることのできる上級兵は殆どが仙門の出身者なのだという。
玄陽宮での生活にも慣れてきた頃、南の国境で黎国との戦争が始まった。
塀の中で守られた陶霖には、侍女や衛兵からの情報しかわからない。
罗景真や温柔燐、鄭花澈、巡風門の者達がどのように戦場に配置されたのか。
皆の無事を祈ることしかできないという事実に、陶霖は日に日に気力を無くしていった。
夜になると、陶霖は寝台に横たわりながら、巡風門のことを思い出した。
養心堂で温安や鄭知と囲んだ食卓。
葉英の笑い声。
術符の研究に夢中になり、夜更けまで師尊の部屋に入り浸っていた日々。
ここには、誰もいない。
広すぎる部屋も、豪奢な調度品も、陶霖の心を満たしてはくれなかった。
母のことを知りたい。
自分が何者なのか知りたい。
けれど、それ以上に、何も知らされないままここで待ち続けることに、耐えられなくなっていた。
「明稀様は、なんというか……良い意味で、凄い人には見えませんね」
来た当初はずっと「公子様」と呼ばれていたが、陶霖には聞き慣れず何度も何度も訂正して、侍女やよく顔を合わせる衛兵にはようやく「明稀様」と呼んでもらうようになった。
茉星は、そうしてこの一月で、ようやく気安く言葉を交わせるようになった侍女だった。
徐々に距離を縮めていたこの侍女はきっと、会話をすることで陶霖に少しでも元気を出してもらおうと考えたのかもしれない。
「凄い人ではないよ。何の手違いか、隣国の皇帝の血族だったというだけだ」
「ええ、それももちろんそうですが」
茉星は言い淀み、陶霖の顔を窺う。
陶霖は首を傾げる。
蘇掌門や玄曜淵の姿がふと脳裏に浮かんだ。
自分は幼い頃から玄国の村で生活し、巡風門の門下生として生きてきた。
今さら身分が変わったところで、あのような凄みや風格が身につくはずもない。
「明稀様が、本当に雨を降らす奇跡の民だなんて」
「……奇跡の民?」
聞き慣れない言葉に、陶霖は訝しげに茉星を見る。
「その……雨を降らせることのできる血族が奇跡の民と呼ばれていますが、まさか」
「ごめん、何の話をしているの?」
茉星は陶霖のその言葉を聞いて、はっと口を噤んだ。
そうして、しばらく考え込むように視線を落とし、それから静かに口を開いた。
「明稀様は、黎の皇帝や杨雪蘭妃について、どこまでのことをご存知で……?」
「どこまでって……俺は現皇帝が今の地位に着く前、政争に巻き込まれないように母親とともに玄国に逃がされたって。この玉佩が、黎の王族の証なんでしょう?」
「……杨雪蘭様が、なぜ正妃とされたかについては?」
「とても美しかったから、皇帝が気に入ったとは聞いているけど……」
「美しさだけが理由ではありません。平民であった杨雪蘭様が妃として認められたのは、血統によるものが大きかったと言われています」
「それが、奇跡の民?」
「そうです」
雨を降らせる血族──。
どこかで聞いたような。
「あっ……」
陶霖は、入門して間もない頃、眠れない夜に葉英が聞かせてくれた話をぼんやりと思い出した。
あの、どこか悲しい昔話を。
その悲しい話を一度聞いてから、なぜか何度も聞きたくなって、しばらくの間、夜寝る前に何度か葉英に話してもらっていたので、内容はなんとなく覚えている。
山の奥地で暮らす民族の中に、先祖返りで能力の出現した人が見つかった。
国の皇子が気に入って妃にしたが、皇子は内戦に巻き込まれ妃は姿を消した。
そんな話だった。
あれは、母の話だったのか。
「……雨を降らせるって、どうやって降らせるの?」
「それは私も存じ上げません……」
侍女は小さく首を振った。
霊力でできることは多岐に及ぶが、天候を操れるほどとなると一体何人分の霊力を使うことになるのか。
そもそも陶霖は天候を操る術の存在を知らない。
そんな噂があれば、遠い国のことでも入ってきそうではあるが。
術符を研究する中で、わかったことがある。
霊力の用途は、対邪祟や対生物のものが殆どだ。
それもそのはず、昔から玄国の脅威といえば、邪祟だった。
周囲の風を操るくらいであれば、霊力の高い者でできる人間もごく僅かながらに存在する。
例えば、巡風門の長老に僅か四名。
踏風符などがその代表例だ。
陶霖も使おうとしたことがある。
葉英は背丈と同じくらいの高さまでほんの数呼吸の間制御できたが、陶霖は少しも姿勢の維持すらできなかった。
それなのに、陶霖に雨を操るほどの力があるとは考えられなかった。
その日から陶霖は、蔵書室に行くと隣国について書かれた書を探して隅々まで読むようになった。
しかし、そのどこにも母・杨雪蘭のことは書かれていなかった。
雨を降らせる血族についても──。
戦況についても、詳細はわからないままだった。
黎国は戦に慣れた国とはいえ、玄国は他国より霊石も邪祟の数も多いと言われている。
そのため、玄国の仙師たちは霊力に長け、邪祟との戦闘に慣れている者は多いのだ。
これまでは、そのことが戦争の抑止力となっていたのだが……。
陶霖はそうして、長く先の見えない生活を続けるうちに、ある考えに終着した。
黎国へ向かおう。
黎国はもとより旱魃の多い国であり、近頃になって陶霖を欲した理由も、この旱魃によるものが大きいと考えられた。
それから、霊石。
玄国の霊石の産出量は、他国と比較しても、群を抜いて多いのだ。
黎国が霊石の輸入にかかる税の減免を求めたのも、この霊石が玄国の力そのものだと見ているからだ。
そして、いずれ玄国から陶霖の返還を求められた時に備えて力を蓄えておきたい、というのが黎国の思惑だろう。
玄国の要人達が黎国を信じきれていないことは、陶霖にもわかる。
しかし、この戦争は桓明稀の引き渡しによって停戦に持ち込める──そんな妙な確信が陶霖にはあった。
それから──。
自分は一体、何者なのだろう。
この問いを解決するには、自分の父親を見て、母を知る人に聞いて、直接自分の目と耳を使って知りたい。
脱走の障害は明確だ。
侍女と衛兵の監視、それから、城外に出たとしても衛兵には霊力探知くらいのことはされるだろう。
だが、この玄陽宮から離れることさえできれば、あとは御剣で飛ばせばどうにでもなる。
その二つさえ突破できれば成功したも同然だ。
陶霖には成功する自信があった。
侍女や衛兵以外との接触が極端に少ないため、万が一誰かに見られたとしても、正体まで気付かれる可能性は低い。
それに、霊力が制限されるような結界等も張られていないため、得意の術符を心置きなく使用することができる。
これまでの研究の成果を存分に発揮できる時が来たのだ。
そう、陶霖は、これも葉英と改良を重ねていた、他者が霊力を感知できなくする効果の結界──乱霊符を八割ほどは完成させていた。
もとより霊力を莫大に使うものだったが、葉英との改良によってこの術符なら、一柱香の間だけではあるが、明火符と同じくらいの霊力の消費量で気軽に使えるものになったのだ。
実行は夜半、侍女が部屋を離れ、陶霖が眠っているはずの時間。
できれば衛兵の服を借りたい。
衛兵を術符で眠らせ、その隙に衣を奪って、闇に紛れて玄陽宮から出ることさえできれば──。
そこまで固まったところで、ふと思考が止まった。
もし見つかれば、責を負って処罰を受けることになるのは衛兵だ。
そのことが、決まりかけていた脱走計画の実行に二の足を踏ませていた。
開戦から十日を過ぎた頃から、徐々に戦況が芳しくないという情報が入りだした。
しかし、陶霖が得られる情報といえば、医務室に出入りしている衛兵から伝え聞きするのみであった。
負傷者が急激に増え出したのは七日を過ぎたあたりからだ。
どうやら玄国と黎国の戦い方が大きく異なることで、互いに大きな損害を与え合っているらしい。
陶霖は再び玄曜淵と夕餉を共にする機会があり、その時に頼み込んで、兵の医務室にも行くことが許可された。
どこに行くにも衛兵が一緒なのが申し訳ない気持ちになるが、医務室まで一緒に行くことができれば衛兵も一緒に手伝うことができる。
医務室に入るようになって数日も経たずにさらに戦況が悪化している状況を目の当たりにした。
玄陽宮は南の国境からは離れた場所にあるため、戦線に戻ることが困難な重症の者が送られてくるのだ。
そうして陶霖は黎国についての書を探して読んだり、医務室にて手伝いをして過ごす中で、玄陽宮を抜け出す機会を探していたが、これ以上待ってはいられないと、実行の機会を伺った。
登場人物
陶霖/桓明稀
【玄国】
皇帝・玄曜淵
茉星……玄陽宮の侍女
【巡風門】
蘇海嶺……掌門
罗景真……長老
宋霄風……長老
罗景真の弟子(名・字)
葉英・葉遠瑶
温安・温柔燐
鄭知・鄭花澈
【黎国】
現皇帝・桓碧雲……陶霖の父親
陶霖の母 杨雪蘭……桓碧雲の正妃
用語解説
霊石……霊力を含む鉱石。術具や修練に用いられる貴重な資源。




