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氷の瞳と冷たい雨  作者: 芋洗べに子
第五章 核心
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第二話 出自



その日の夕餉は温安ウェンアンが任務のため不在で、陶霖は鄭知チョンジーと二人で卓を囲んだ。

食事も終わるころ、鄭知が陶霖をまじまじと見て言った。

「陶霖、最近、髪が乱れすぎてないか」

「……」

陶霖は頬を膨らませてそっぽをむいた。

葉英イエインにやってもらってたんだろ?」

こくり、と頷く。

「自分じゃできないもん」

そう言った陶霖に、鄭知は大きなため息を吐いた。

「お前なあ……」

鄭知が手を伸ばし、髪を手で梳かそうとするが、すぐに指が引っかかった。

「……」

ふたりの間に沈黙が流れる。

「師尊」

鄭知の視線の先を見ると、罗景真ルオジンジェンが盆を持ってこちらへ歩いてきていた。

「この時間に来るなんて珍しいですね」

「ああ」

罗景真はそれだけ言うと、腰を下ろして茶を飲む。

「大丈夫、ですか」

鄭知が聞くと、罗景真は再び「ああ」と言って眉間を指で揉んだ。

「近頃は、そなた達が手を貸してくれるからだいぶ楽だ」

罗景真はそう言うと箸を持ち、盆にいっぱいの料理を食べ始めた。

静かになった卓で、鄭知が口を開いた。

「それより師尊、これどう思われますか。陶霖の髪」

「……どうした」

罗景真の眉間に、消えかけたはずの皺が戻ってくる。

「あ、大丈夫です安心してください。陶霖が自分でこうしているだけで」

鄭知が慌てて言うと、罗景真の眉間から皺は消えたものの訝しげな表情で陶霖の絡まった髪を見ている。

陶霖は慌てて手櫛で梳かそうと試みたが、先ほどの鄭知と同じようにすぐに引っかかり、無理に梳かそうとして何本かの毛が抜けた。

「……」

無言の卓。

罗景真の視線。

鄭知を見ると、彼はブフッと吹き出して陶霖から目を逸らした。

「鄭知」

陶霖が鄭知を睨むが、鄭知はツボに入ったのか笑みを浮かべながら身体を震わせている。

ようやく笑いがおさまってきた頃、鄭知が言う。

「師尊、こいつの頭何とかしていただけませんか。ほら、いつも湯浴みのあとに師尊のところで術符の研究とかしていたじゃないですか」

陶霖はぎょっとして罗景真を見たが、彼は箸を持ったまま考えるように鄭知を見ていた。

陶霖は慌てて言う。

「鄭知。大丈夫だって。俺ちゃんと自分でやるから……」

「いや、葉英が時々愚痴ってたぞ。陶霖が髪を濡れたまま梳かしもしないって」

鄭知にそう言われ、陶霖は頬を膨らませて罗景真を一瞥した。

目が合って、陶霖はすぐに逸らしたが、罗景真は言った。

「葉英の代わりにはなれないが、来るといい」

陶霖が鄭知を見ると、鄭知はまた吹き出して笑った。

「よかったなあ」

頭をぽんぽんと叩かれて、陶霖はまた膨れ面になった。

罗景真はご飯をもりもり食べていた。


陶霖は湯浴みを終えると山小屋に向かった。

葉英が亡くなって以来、術符の研究のために罗景真の部屋に集まることはなくなっていた。

研究と言いつつ、その中身は自由なものだった。

蔵書閣から借りてきた書を読んだり、作った術符の改良について話し合ったり、時々行き詰まると師尊に相談したり。

山小屋の外で作った術符を試したら爆音が響いて師尊に怒られ、その後何事かと訪れた長老に罗景真とともに頭を下げたこともあった。

そんなことを思い返しながら、森の細道を歩く。

入門した当初はこの真っ暗な森が怖くて、夜に行く時は葉英や温安に頼んで一緒にきてもらったものだ。

「師尊、入ります」

戸を開けて入ると、罗景真はいつものように文机で書を読んでいた。

陶霖が布を持って入ってきたのを見て、罗景真は立ち上がりながら言った。

「ここに座りなさい」

陶霖はなぜか少し緊張しながら座る。

罗景真は寝台の横にある引き出しから櫛と香油を取り出してくると、陶霖のもってきた布を取り上げた。

後ろから布に包まれ、勝手に体温が上がっていく。

時折香油を垂らした良い匂いがして、櫛が通るようになった。

罗景真が取り出した術符に霊力を込めると、暖かい風が頭を撫でる。

「……師尊にとって私は、何ですか」

声は、風の音にかき消されそうなほど小さかった。

罗景真の手が止まった。

「あ、いえ、なんでもありません」

陶霖は慌ててそう言うと、髪が乾いたのを手で確認してから立ち上がる。

「ありがとうございました」

慌てて山小屋を出て行ったが、森の小径を歩きながら、変に思われただろうな、と反省した。




それからまた数日後。

この日の任務が術符の作成のみであった陶霖と温安は、ふたりでのんびりと朝餉を食べていた。

鄭知は早朝からの任務である。

陶霖は近頃、温安と柳清婉リウチンワンの距離がますます近いことをにやにやとしながら温安に言った。

「ああ、そうだね」

温安は照れる訳でもなく、怒る訳でもなく、ただそういった。

「……つまんない」

陶霖がぼそりと呟くと、温安が笑う。

「今更、周知の仲なのに、陶霖は何を聞きたいんだ」

「うーん」

そう聞かれると、温安に何を期待していたのだろう。

考え込んでしまった陶霖を見て、温安はまたクスりとわらった。

「それより、髪はずっと師尊にお任せしているの?」

「うん……あのさ、やっぱ俺自分で」

陶霖がもごもごと俯きながら話すと、温安はまた笑った。

「そのくらい、いいんじゃない?そもそもあの人、世話好きだし。あと、気づいてなさそうだから言っておくけど、多分あの人、他の人に任せるくらいなら自分が面倒見るよ。

陶霖、君がどんなに『できる』って言ったところで、あの人は信用しないよ。葉英だって、僕だってそうだよ、危なっかしすぎる。世話したい奴がいるなら、大人しく世話されてればいい」

「……俺、そんなに頼りない?」

「うん。多分師尊が世話しなかったら鄭知がなんだかんだ世話するだろうし、鄭知がしなくても方承和ファンチョンフーとか林玉リンユーあたりが面倒見に来てくれるよ」

「……」

「陶霖、やっぱり君、最近あまり眠れてないでしょう」

陶霖は否定も肯定もせず、温安を見た。

温安が手を伸ばし、陶霖の下瞼のあたりを指でなぞる。

「ほら、青白いよ。師尊も心配してるみたいで僕に聞かれた」

そう言うと、肩を竦めて茶を啜った。

「山小屋で寝たらいいのに」

陶霖は飲みかけていたお茶を吹き出した。

「ちょっと……。あのさ、どうせ毎晩湯殿のあとは行ってるんだから、わざわざあんな森の中を通って、門の端と端にある宿舎まで戻って来なくたって、そのまま眠れた方が良いのでは?」

温安は手巾で卓を拭きながら話を続ける。

「寂しいんでしょう」

「温安が同室になってくれたらいいのに」

陶霖がそう言うと、温安は露骨に嫌そうな顔をした。

「嫌だよ」

柳清婉リウチンワンとの時間が減るから?」

「それもそうだけど……」

温柔燐は躊躇いつつも続ける。

「もし君に何かがあったときに、葉英から怒られそうで怖い」

温安の脳裏には、葉英という鉄壁師兄の姿が思い浮かんでいた。


後日、鄭知にも聞いたが、同じことを言われた。

曰く、「陶霖に変な虫でもつけたら、葉師兄が夢の中で鬼の形相で追いかけてきそうで怖い」だそうだ。

さらに、「あんな鉄壁の保護者は、葉英か師尊にしか務まらないだろう。それに大体、陶霖の世話はたまにするくらいがちょうどいいんだ」とまで言われた。

陶霖は頬を膨らませたが、そう言われると何も言い返すことができなかった。




葉英の死から、およそ一月が経過した。

陶霖は突然、スー掌門から呼び出され、罗景真とともに浄務閣へと向かった。

向かう途中、陶霖はふと、昨日の出来事を思い出していた。


務めも終わり養心堂へ向かっていると、声をかけられて振り返った。

「その玉佩」

見覚えのない女門下生だった。

その視線が、自分ではなく腰元に落ちていることに気づく。

「え?」

「突然すみません。その玉佩は、どこかで拾ったのですか」

彼女の視線が上がり、陶霖の顔を見た。

目が合って、目が見開かれた……ように見えた。

「いえ、これは、母の形見の品で」

「そうですか……少し、見せてもらっても?」

陶霖はすこしドキリとして答える。

「えっと、少しなら」

そう言って腰元に付けていた玉佩を外すと、女門下生に差し出す。

「すみません、大事なものだと思いますのでそのままで」

ほんの一呼吸、見ていたかと思うと、彼女は顔を上げて言った。

「ありがとう」

「あ、いえ」

彼女はそれ以上は何も言わず、軽く会釈だけして去っていったのだった。

陶霖はもちろん、大勢いる門下生の全員を知っている訳ではないが、それでも見覚えすらない人物がいたことを不思議に思った。


浄務閣を目の前にして、立ちすくむ。

陶霖は、母親の生い立ちどころか、彼女がどこの出身であるかすら知らなかった。

考えすぎかもしれない。

それとも、江念ジャンニェンのことを聞かれるのだろうか。

一歩先を歩いていた罗景真が扉の前で立ち止まり、陶霖を振り返った。

「どうした」

「なんでも、ないです」

罗景真が陶霖の背中に手を当てた。

大きな手から温かさが伝わってきて、陶霖はなぜか急に顔が熱くなった。

「……済まない」

罗景真はそう言って手を離した。

「いえ」

陶霖は慌てて、先ほどなぜ立ち止まったのかも忘れ、罗景真より先に浄務閣へ入って行った。


以前と同じ、奥へと進むと、会議室の前には数名の見慣れない人たちが立っていた。

まるで──中にいる人を守っているようだ。

会議室へ入ると、そこにいたのは蘇長老と──昨日の門下生、それからもう一人。

罗景真と陶霖は、入ったところで足を止めた。

初めて見るその人物は、会議室の無骨な椅子にゆったりと座っている。

陶霖を見ると僅かばかりに目を見張り、それから懐かしむように微笑んだ。

ただゆったりと椅子に腰掛けているだけなのに、蘇海嶺スーハイリンとはまた違ったただならぬ存在感を感じる。

「来たか」

スー掌門が微笑み、座るよう促す。

陶霖は罗景真に倣い拱手をしてから、椅子に腰掛ける。

昨日の門下生が茶を注ぎ、罗景真と陶霖の前においてから、入り口近くの席に腰掛けた。

「緊張せずとも良い……と言っても、あまり意味はないかもしれないが」

スー掌門はそう言うと、見知らぬ人物を紹介した。

陶明稀タオミンシーは初めてお会いするだろう、我が国・玄の皇帝陛下だ」

玄曜淵シュエンヤオユエンだ」

張っている訳でもないのに、重厚な響きの声が会議室に響いた。

そして昨日の見知らぬ門下生が口を開く。

「昨日は突然、失礼いたしました。私は玄国外交官の裴衡ペイホンと申します」

陶霖は衝撃で固まっていると、隣に座る罗景真が立ち上がり名乗る。

「お初にお目にかかります。巡風門長老、罗景真と申します。これは私の弟子の陶明稀と申します」

見本のような拱手をして、罗景真は言った。

陶霖も慌てて立ち上がり、拱手をする。

「本来であれば罗長老には一言伝えておくべきだったが、事の内容もそう簡単ではなくてな……。陶明稀、先の件があって、実は国が密偵の調査を行っているのだ。今日はその話で」

スー掌門がそう言うと、玄曜淵シュエンヤオユエンが淡々と言った。

「御託はいい。本題に行こう」

陶霖は姿勢を正す。

努めて冷静でいようと会議室の床や壁、古くなった長卓の傷を見ていたが、否応なしに場の空気に引っ張られて心臓が再びどくどくと鳴りはじめた。

「陶明稀といったな」

「はい」

「そなたの母親の名前を聞いてもよいか?」

「……陶雪蘭タオシュエラン、です」

緊張で、陶霖の声が震えた。

蘇掌門の喉がゴクリと鳴ったのが聞こえた。

会議室の中が静かになる。

陶霖はそこでようやく気づいた。

彼らも何らかの理由で多少の緊張があったのだと。

「あの、どういった話なのでしょうか」

罗景真が困惑したように言うと、玄曜淵シュエンヤオユエンが言う。

「先に、確認をしたい。陶明稀、玉佩を見せてもらえぬか」

「はい」

陶霖は不安になり、震えた手で腰元の玉佩を外そうとするが、なかなか外れない。

罗景真の手が横から伸び、玉佩を外して陶霖のつめたい手の上に置いた。

陶霖が恐る恐る差し出すと、玄曜淵シュエンヤオユエンはますます驚きを隠せない様子で玉佩を見て、それから陶霖を見つめた。

「蘇掌門、やはり……」

戸惑う陶霖と罗景真に、ようやく玄曜淵シュエンヤオユエンが口を開いた。

「どこから話せば良いのか……裴衡ペイホン

裴衡は玄曜淵シュエンヤオユエンを一瞥してから話す。

「……雲を裂く龍の意匠、天青の雫。その玉佩は、隣国・れいの王族のみが持つことを許されているものです」

玄曜淵が続ける。

「そなたの母親は、黎の現皇帝の正妃だ」

「……はい?」

「隣国の現皇帝、桓碧雲ファンビーユンの妻・杨雪蘭ヤンシュエランは、現皇帝即位の数年前に失踪しています。政敵に狙われ殺されたのではないかとの噂でしたが」

蘇海嶺スーハイリンが言う。

玄曜淵が少し考えてから、話した。

「おそらく、政敵から逃れるためにこの玄国まで逃げてきたのだろう。その玉佩に、母親そっくりの容姿。そして、一門下生でしかない人間にわざわざ何年も密偵を送り込んできた執念。これが黎国でなければ誰がこんなことを」

再び、室内が静まり返った。

「……何年も?」

罗景真が訝しげに玄曜淵シュエンヤオユエンを見る。

蘇掌門が話す。

「邪神の件の後、巡風門から姿を消した門下生がいる。彼女が密偵だったのではないかと考えている」

「それってもしかして」

陶霖が言うと、蘇掌門が頷いた。

スー長老の弟子であった、江念ジャンニェンという者だ。……やはり、知っていたか」

「知っていたもなにも、彼女とはとても仲良くしていました」

陶霖は俯いた。

「でも……江念は全部知っていたんですね」

「間違いないだろうな。江念は五年前、巡風門へやってきたが、身寄りもおらず、身元がわからなかった。記憶を失っているということだったが、能力が高かったため受け入れたのだ。まさか14歳の少女が密偵などと、誰が疑う」

「それで、どうしろというんですか?」

罗景真の低く冷たい声。

「蘇掌門はご存知でしょう。私は彼の母親に頼まれ、ここまで育てた。保護者としての責任があります」

蘇掌門が頷く。

「罗長老の話はもっともだ。これからの話をしよう。先の邪神の暴走の件も、敵の目的は混乱に乗じて陶明稀を連れ去ることだったのではないかと考えると、これまで通り外へ任務に行くのは危険だ」

「でも、これまで何の接触もなかったのに、どうして今になって」

陶霖は話についていけず、呟くように言う。

「それはわからないが……邪祟じゃすいを活発化させて混乱に乗じてというのは困難だとわかったのだろう。なにせ陶明稀の師は罗長老だ。しかし、別の方法を探っているはず」

「陶明稀の扱いだが、玄国にて保護することもできるが」

わけがわからないまま、陶霖はただ手の中の玉佩を見つめていた。


気づくと、浄務閣の外にいた。

何を話し合っていたのかあまり覚えていない。

巳の刻にここにきていたはずなのに、外はすでに薄暗くなっている。

「師尊」

前を歩く罗景真が振り返る。

「……」

呼んだはいいものの、何と言えばいいのか出てこない。

しばらく言い淀んでいると、罗景真が言った。

「……今日は、私の部屋にくるか?」

「はい」

夕餉にはまだ少し早かったため、陶霖たちは先に湯浴みを済ませることにして塵世殿に向かった。

しかし、陶霖の心臓は湯殿を前に、なぜだかどくどくと音を立てはじめる。

この頃、鄭知も温安も変なことを言ってくるせいで、変に意識をしてしまって師尊の前でぎこちなくなってしまうのだ。

「師尊、先に行っててください」

「わかった」

時間を少しずらすことで、脱衣所では一緒にならないためだ。

こうしてできるだけ裸の師尊とは関わらないように湯浴みを済ませ、そのまま塵世殿で髪を乾かしてもらい、養心堂へ向かった。

いつもならなんてこと無いのに、やけに居心地が悪い。

養心堂に来ると、卓にはすでに温安と鄭知が居たことに、陶霖はほっとした。

料理をのせた盆を持って席につくと、温安と鄭知がそわそわと陶霖を見る。

「蘇掌門の話のことでしょ」

陶霖が言うと、温安と鄭知は顔を見合わせる。

「まだ整理できてないんだ。今度でいいかな」

「うん……」

温安と鄭知の視線は自然と罗景真の方へ向かう。

罗景真は茶を一口飲んでから言った。

「明日には話す、心配するな」

食事が終わり、鄭知や温安が話している内容を、陶霖は上の空で聞いていた。

沈秀恒シェンシウホンの元気がなさ過ぎて遂に危険任務をしばらく外されることになったこと、方承和ファンチョンフー林玉リンユーは相変わらず任務中に喧嘩をし出すので沈秀恒がいなくて困っていること、江念ジャンニェンのことで門下生たちの間でもさまざまな憶測が飛び交っていること……。

食事を終えると、罗景真とともに山小屋へ向かった。


温安や鄭知と別れると、陶霖はまたあれこれと止まらない考えを止めるために、昨日弄っていた術符に手を加えることにした。

「師尊」

「なんだ」

「これ、こことここを一体化させればうまくいくと思うのですが、どうしてもうまく繋がらなくて」

罗景真が術符を見て、別の黄紙に写していく。

写し終わると考え出したので、陶霖もまたうんうん唸りながら術符の修正を試みる。

「ここをこうしてみてはどうだ」

「あ、それならこの部分をこっちに……うーん、崩れるなあ」

二人で罗景真の書いた術符を見ながら話す。

前は、ここにもう一人いて……。

急に返事がなくなった陶霖を、罗景真が見る。

陶霖は静かに泣いていた。

頬を流れた雫は顎を伝って、ぽとり、と彼の書いた試作の術符の上に落ち、墨が滲む。

「陶霖」

「うっ……師尊、すみません」

「構わない」

罗景真は、陶霖が時折嗚咽を漏らしながら泣く中、静かに隣に座っていた。

「悲しくて、苦しくて、私はどうしたらいいのかわからないのです」

「……そうだな」

「師尊はどうやって乗り越えたのですか」

「乗り越えることなどできない。……だが、私はそれをできなくて良いと、悲しみを抱えたままで良いと思った時、楽になった」

陶霖が涙を湛えた目で罗景真を見た。

「そなたの泣き顔は、堪える」

罗景真は陶霖の顔に手を伸ばしかけ、触れる寸前で、下ろした。

「……どうしてもっと触れてくださらないのですか」

陶霖のことばに、罗景真は目を逸らした。

返事はない。

ただ、先ほど伸ばしかけた右手が、行き場を失ったようにゆっくりと握られた。

「いつになったら、私の気持ちに気づいてくださるのですか」

罗景真は僅かばかりに目を見開いたが、陶霖を見ようとはしない。

「……済まない」

長い沈黙のあと、低く掠れた声が落ちる。

胸の奥が、締め付けられるように痛い。

「そなたの好意は、私を師として見る故のものだろう」

「もちろん、誰よりも尊敬しています」

「陶霖」

罗景真は目を瞑り、額を押さえる。

「それ以上、言うな」

初めて聞く声色だった。

「わからないなら、試してみてください」

陶霖が近づくと、罗景真は近づいた分だけ離れていく。

「私に触れるのを躊躇うのは、自分の気持ちを自覚することが怖いからなのではないですか」

罗景真は、ようやく陶霖を見た。

その目は、凍えそうなほど冷たかった。

「温安や鄭知まで。私を追い詰めたいのか」

心の奥に、冷たい風が吹いたような心地がした。

「……いいえ。師尊、私はもうただの門下生ではありません。私は隣国の皇帝の子。責められるのは私です」

室内に、外から聞こえる風の音と互いの呼吸音だけが聞こえる。

「ごめんなさい。師尊を困らせたくない。でも、もうどうしたらいいのかわからない。葉英のことも、江念のことも、隣国のことも……。私にどうしろというのですか。私は一体、何者なのですか」

語気を強くした陶霖に、罗景真は静かに答えた。

「そなたが、私の弟子であることには変わりない」

罗景真は、陶霖を抱きしめた。

互いの顔は見えない。

陶霖は疲れて眠ってしまうまで、その温もりを感じていた。





【登場人物】

陶霖タオリン陶明稀タオミンシー


【玄国】

皇帝・玄曜淵シュエンヤオユエン

裴衡ペイホン……外交官


【巡風門】

蘇海嶺スーハイリン……掌門

罗景真ルオジンジェン……長老

罗景真の弟子(名・字) 

葉英イエイン葉遠瑶イエユエンヤオ

温安ウェンアン温柔燐ウェンロウリン

鄭知チョンジー鄭花澈チョンホワチュウ


宋霄風ソンシャオフォン……長老

宋長老の弟子……沈秀恒シェンシウホン方承和ファンチョンフー林玉リンユー

柳清婉リウチンワン……門下生。


江念ジャンニェン……門下生だったが……。


【黎国】

現皇帝・桓碧雲ファンビーユン

陶霖の母 杨雪蘭ヤンシュエラン


用語解説

山小屋……罗景真の住まい。森の中にある圧倒的に質素な建物のため、門下生たちからそう呼ばれている。

拱手きょうしゅ……両手を胸の前で組んで行う礼。

黄紙……術符を書くために使われる黄色い紙。



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