第九十七話『大魔術戦』
大陸暦六一六年、大魚の月初旬―
銀の巨人の心臓部で待っていたのは、アリシアの母ミランダだった。母娘の外見的な年齢に大差はなく、背丈も顔立ちも近しい事から、向かい合う二人は姉妹にさえ見える。一糸まとわぬ肢体に絡みつく『流れる銀』から発せられる魔力は、衆議塔を埋め尽くしていた銀の膜と同じものだった。
「貴女が母上ですね。肖像画にてお顔を拝見しました」
「……えぇ、私がミランダよ。あなたがアリシアね。オリビアの魔力障壁を破った時から、あなたの気配を感じていたわ」
ことのほか明確な意識で、ミランダは応えた。『流れる銀』に巻かれて魔力を解き放っているとは思えないほど、その表情に曇りも陰りも見えなかったのである。
「横にいるのはマルシアの子供達ね。男の子に女の子、それと……猫?」
「あたしは赤の他人です」
「そう、他にも女を囲ってたのかと思ったわ」
戦場のど真ん中とは思えないほど、その口調はあっけらかんとしていた。何かが抜け落ちているような、妙に軽い調子に違和感を覚えたニックは、一歩踏み込んで尋ねた。
「マルシアの子、ニックです。一つお聞きしたいのですが、このゴーレムの柱を満たす『流れる銀』を制御しているのは貴女ですか?」
「えぇ、そうよ。アリシアの気配を近くに感じたから、大扉を開けるために来て貰ったわ」
「何故、そのような事を?敵対する者をわざわざ招き入れたという事になります」
ニックの問い掛けに、ミランダは口許に笑みを浮かべた。その表情は銀の巨人を制御しているとは思えないほど穏やかで、母としての慈愛に満ちているようにさえ見える。
「一つは、娘の顔を見たかったから。アリシアは肖像画で私の顔を知っていると言うけど、私は時を過ごし年を重ねていく娘の姿を、断片的にしか見る事が出来なかったの」
ミランダの返答に、ミリアムが項垂れる。街道都市ギネッシーオでの戦いで再会するまで、マルシアの記憶は幼い日で止まっていた。恐らく、マルシアもまたハーム軍に接触するため、自ら前線に赴くように立ち回っていた。ミランダが母としての顔を覗かせる中、エリスの目は瞳孔を細め、警戒を解いていなかった。
「もう一つは、ここであなた達を拘束する事よ」
柔らかな温かみのある声が突如として、硬質で冷たいものになった。身を包む『流れる銀』がうっすらと輝き、底冷えするほどの冷気を放つ。渦巻く魔力が植物の蔓の形を成し、隙を突かれたミリアムの体に巻きついた。
「やっぱりね、そういう事だと思ったよ!」
直後、ミリアムに巻きついた銀の蔓が細切れに裂かれる。瞬時に踏み込んだエリスの剣が蔓を断ち割ったのだ。一寸遅れてニックが剣を構え直す。不意を突かれて動転したミリアムを、アリシアが落ち着かせ、共に杖を構えてミランダに向き直った。
「弟を……ルイスを守るのは私の役目よ!」
ミランダの叫びと共に、再び虚空に魔力が渦を巻く。再び蔓を伸ばしてくるかと身構えたニックとエリスが見たものは、おぞましい冷気をそのまま研ぎ澄ませたような刃の連なりだった。
「凍刃の術式……大連弾!」
同じ術式を多重で行使する事を連弾というが、ミランダが用いたのは大連弾だった。これはその名の通り、連弾を連弾で行使する術式技法であり、求められる技量も術者に掛かる負荷も想像を絶する。
ハーム王国軍随一の魔術師であるレッターでさえ、過去に一度だけ使って四半月の療養を余儀なくされたほどだった。
「これは本気だね……!」
「腕か脚の一本は覚悟するか……!」
凍刃の術式は、空気中の水分を凝縮させて凍らせ、鋭い氷にして投げつける、凍牙の術式の上位種である。その鋭さは突き刺さるという域を超え、触れる前から凍て付かせて砕き切るという。その必殺の刃が大連弾によって数十本、文字通り降り注ぐような勢いで迫って来る。ニックとエリスは身震いしながらも腹を括った。その時だった。
「ミリアム、やるわよ」
「はい、姉上様!」
二人の前に、水で作られた大鏡が現れる。ミリアムが過去に用いた、水鏡の術式だ。術者よりも弱い術式であれば跳ね返せるが、ミリアムとミランダでは魔術師としての技量が残酷なほどに離れていた。ここで仮にアリシアが同じ術式を重ね掛けしても、迫る氷の刃を跳ね返すには至らない。
しかし、アリシアが水鏡に重ね掛けしたものは、全く異なる術式だった。
「鏡が凍っても、砕けない……!?」
アリシアが行使したのは障壁の術式だった。物理的、魔術的干渉を防ぐこの術式は、ベクォン家の秘伝とされている。ミリアムの水鏡と組み合わされた障壁は、ミランダの氷の刃をも利用し、氷の壁となる事で後続の刃を受け止めて取り込んだのである。ミランダの目の前には、自身が放った氷の刃を元にした氷塊が浮いている。そして、その氷を砕いて飛び込んで来たのはニックとエリスだった。
「ミランダ様、お覚悟!」
「悪いけど、あたし達は急いでるんだ!」
ミランダに迫る二振りの剣は、それぞれに現れた者によって受け止められた。ニックの剣を止めたのは老獪な猫亜人、エリスの剣を止めたのは屈強な初老の大男だった。
「この巨人はゴーレムの術式と反魂の術式の混成で形成されているわ。つまり、この中なら誰でも死者を呼び出す事が出来る……キンティ、ターヴ、頼んだわ」
「ミア家の子ならば不足はありませんな……」
「傭兵か……いや、それはブバーケの剣。なるほど、噂には聞いていた」
ルイスが頼みとしていたベクォン公爵領軍のキンティとターヴが、ミランダの手によって蘇った。二人とも艦船の扱いが主な役割であったが、白兵戦においても秀でた存在だった。ニック、エリス、アリシアとミリアムに分断され、状況は決して有利とは言えなくなっていた。
「さて、ひとつ剣の腕を披露致しましょう」
猫背に加えて腰の曲がった見た目とは裏腹に、キンティの剣術はハーム軍指折りの剣士も舌を巻くほどであった。加えて、ミア家を説得した際にも見せた、不気味な薄ら笑いを浮かべて変幻自在の軌道で刃を走らせる様は、ニックに二重の恐怖で迫っていた。
「女とて、手加減は出来ん。しかし、いたぶる趣味もない」
ターヴは長身から打ち下ろすように突きを見舞うスタイルで、逞しい肉体は剣を意のままに操るだけの力を有している。突きは懐に潜り込む事で対処される事が多いが、突く以上に速い引きは、付け入る隙を見せなかった。直線的な軌道を読むまでは出来るが、読んでから切っ先が繰り出されるまでの時間は無に等しく、場数を踏んだエリスであっても緊張を隠せなかった。
「兄上様!エリス!」
「ミリアム、余所見をしては駄目よ。母上は本気で私達を止める気だわ」
ミランダから伸びる複数の銀の蔓を、アリシアが火柱の術式で焼き消す。ミリアムが反撃に放った炸裂火は、届く事さえ叶わずに障壁を震わせるだけだった。解呪の術式さえ当たれば、反魂を打ち消す事が出来る。しかし、この術式は対象に触れなければ効果がなく、撃ち出すには術式陣を構築して出力を高めなければならない。
「打つ手なし……いや、そんな事はないはずよ」
「あ、姉上様!」
顔をしかめたアリシアの耳に、ミリアムの叫び声が滑り込む。キンティの剣術に押されたニックが転がって来たのだ。右手の剣は刀身に傷や刃こぼれが目立つ。
「すみません、姉上」
「私達は大丈夫よ……ってニック、それよ」
ニックを立たせたアリシアは、腰の後ろ手に束ねていた物に着目した。紐を解き、手に取る。
「ミリアム、穴を開けるだけでいいから、障壁を破って。ニック達はもう少しだけ、あの二人の相手を」
「どういう事ですか、姉上様」「姉上、一体何を」
「いいから」
アリシアの目に有無を言わせぬ覇気が宿る。その手に握られていたのは、ミスリル銀製の鎖だった。
大陸暦六一六年、大魚の月初旬―
光が止んだのは大きかった。銀屍兵は対処さえ間違えなければ大した相手じゃない。
―ハーム軍と共に戦っていたベクォン軍兵士の言葉




