第九十八話『迎えと見送り』
大陸暦六一六年、大魚の月初旬-
アリシアはミスリル銀製の鎖を手に取ると、両端を手にふわりと広げた。金属であるとは思えないほど軽やかで、朝日を受けた小波のようにきらめいている。ミランダの手は止まっていた。ハーム王国はおろか、メーシア大陸では産出されないミスリル銀が、目の前にある。魔術に精通する者の一人として、それは半ば伝説を見ているに等しかった。
「ミリアム、あなたには荷が重いかもしれないけど、頼んだわ」
「正直、難しいですわ。でも、ここで私がなんとかしなければなりませんし、泣き言なんて言ってられませんわ」
準備が整うまでの間、一人でミランダの相手をする事となったミリアムが、杖の筒に目をやった。魔晶石の残量は三割近くにまで減っている。予備の筒はあと一つあったが、こちらはもう少し取っておきたかった。
「何をするつもりか分からないけど、隙が大きいわ。凍刃の術式、連弾!」
「受けて立ちますわ!魔光弾の術式……大連弾!」
ミランダが放った氷の刃は連弾で五枚、それに対してミリアムは数十の魔光弾で迎撃した。魔光弾の術式は直撃しても光と衝撃を発するだけで、基本的に殺傷力は低い。ゆえに魔術としての難易度も負荷も低く、多くの魔術士が基礎として使い方を身に付けるのだ。この時ミリアムが行使した魔光弾も例外ではなく、氷の刃一枚に対して四、五発分の衝撃を加えてようやく相殺出来る程度だった。
「大連弾とはいえ、魔光弾で凍刃を破るとはね。でも私の障壁まではどうかしら?」
「いいえ、貴女には当てませんわ!」
ミランダに迫った魔光弾は四発、それらは障壁の目の前で互いに衝突し、相乗効果でより強くなった光を浴びせた。直撃しても通さない障壁でも、その手前で炸裂させる分は打ち消す事が出来ない。以前にもミリアムはオリビアの不完全な障壁を、突風の術式で吹き飛ばした敷石の破片で破っている。純粋な魔法使いに及ばない部分は、工夫で補うのが彼女のやり方だった。
「この光なら、少しの間くらいは稼げますわ!」
「それはどうかしら」
障壁の前で晴れない光を見て、アリシアの準備が整うまでの時間稼ぎを目論んだミリアムの耳に、ミランダの声が粘り付くように響いた。直後、障壁をすり抜けて蔦が迫る。鋭くしなる鞭のような蔦に打ちすえられ、ミリアムの体は大きく吹き飛ばされた。時間の流れが緩やかになる錯覚、しかし受身を取るほど俊敏には動けない。
「甘いわ。私からあなたが見えないなら、あなたからも私が見えない」
背中から落ちたミリアムは叩き付けられた衝撃で、しばらくは息をする事さえ出来なかった。頭を打ったり首を痛めたり、骨が折れていると言う事はない。それが確認出来ると、苦悶の表情のまま立ち上がった。胸当ての右脇腹付近が凹んでいる。狙ったと言うより、見えないので所構わず蔦を突き出していた。当たり所によっては、致命傷にもなり得た―ミリアムはゾッとした。
「そろそろ光も収まるわね。ルイスの為にも、オリビアの為にも、ここで死んで貰うわ」
「……オリビアの、為……?」
「そうよ、あの子は『流れる銀』の毒に囚われたルイスの拠り所よ。あなた達に止めさせるわけにはいかないわ」
「……いいえ、オリビアは私達が助け出しますわ。あんな格好をさせられて、心まで奪われて……あんなもの、拠り所でもなんでもありませんわ……ただの、自分を満たすための道具ですわ!」
オリビアの名を出した事が、ミリアムの琴線に触れた。心の昂ぶりが全身を駆け巡り、四肢の痛みが消え失せる。感情が激しい渦となって周囲の空気を捻じ曲げ、抽出された魔力が彼女の体に集約された。
「この空間を作っている『流れる銀』の魔力を吸収している……!?」
「吸魔の術式……確かに、城の地下書庫の本に記されていたけど、決して簡単なものではないはずよ、増してや……」
アリシアが言い掛けて口をつぐんだ言葉、それは「ミリアムに使えるはずがない」。起動している魔晶石や『流れる銀』から強制的に魔力を吸収する吸魔の術式は、手練れの魔術師でも扱いの難しいものであった。この時、アリシアはシャスタの言葉を思い出した。
歴代のベクォン家の者に、ハーム王家と繋がった者がいる。
「準備はよろしいか?」
「え、えぇ。大丈夫」
うっすらと魔力の膜に包まれたミリアムの声は、どこかくぐもって反響していた。性格まで変わっているような気配さえ窺わせる。原理は不明だが、ある種の覚醒状態にある、アリシアはそう判断した。そして、姉妹の準備はようやく整った。
「炸裂火の術式、大連弾」
ミリアムの広げた腕に呼応するかのように、高熱を帯びた火球が十以上、浮かび上がった。連弾でも行使が難しいとされる、炸裂火が大連弾である。広げた手が前に突き出される。同じような軌道を描いた炸裂火が、狙ったようにミランダの障壁に吸い込まれる。あの夜に放った連弾が検討違いな方向へ飛んでいった事から比べると、まるで別物であった。
「なんて数の……!?」
戸惑いから集中の乱れたミランダは、すんでのところで障壁をわずかに強化する事しか出来なかった。衝撃と高熱が立て続けに襲いかかる。狙いは正確で、十発目の直撃を受けた辺りで障壁が歪み、続いた数発で焼け溶け、最後の一発が障壁を突き抜けて飛び込んできた。
「違う、この魔力は、この子のものではない……!」
「今」
ミリアムに応じるように、アリシアは鎖の先端を放った。炸裂火の直撃を受けたミランダが衝撃と高熱の奔流に身悶えしているところに、障壁の穴を潜り抜けた鎖はその左腕に巻き付いた。ミスリル銀は魔力を伝導する性質がある。つまり、今のアリシアはミランダに接触しているも同然だった。
「母上、せっかくお会い出来たところ申し訳ありませんが、お分かりですね」
「……そうね、あなたに加えてお父様にまで出てこられたら、私に勝ち目なんてないわ」
「お送りします。解呪の術式」
アリシアの魔力が鎖を伝って、ミランダに流し込まれる。目映い純白の輝きが『流れる銀』に染まった心身を溶かし洗い流す。白い光の中、ミランダ手を取ったのは法衣に身を包んだ老人だった。ルイスに重なる面影を浮かべながら、厳かな面持ちに穏やかな視線を投げ掛ける。
「……私の中に、あのお方が降りていましたわ。宮廷魔術師の長にして、オリビアのお祖父様……セオドア様ですわ」
口調も気配も元に戻ったミリアムが、アリシアと共に光を見上げる。その光景を目の当たりにしたキンティとターヴは、目配せして小さく頷くと、剣を納めてニック達に向き直った。
「私どもの役目はここまでです。音に聞くミア家の勇猛さ、見せて頂きました」
「此度の戦、剣を振るう機会などなかったのでな、最後に良い経験になった」
言うだけ言って、二人は満足そうな顔で消えていった。単純な足止めというよりは、腕を振るえずに終わる事への未練から、ひと暴れしたいだけだったようにも感じられた。
「やれやれ、結構な事に付き合わされたな」
「危なかったね。あのままやり合ってたら、流石のあたしでも危なかったよ」
「全くだ……」
あんな言葉を遺しながら、二人は本気で剣筋を走らせていた。ニックの右手は思った以上の威力があったキンティの剣を受けて微かに痺れ、エリスの心臓はターヴの圧倒的な気迫からくるプレッシャーで激しく脈打っていた。
「さて、母上が去り、この心臓部も動きを止めたわ」
「ですが姉上様、オリビア達が見当たりませんわ。私達は頭の方から来ましたが、このような場所もありませんでしたし……」
「……頭部にも心臓部にいない……って事は、後はここしか思い当たらないね」
困惑するアリシアとミリアムを前に、エリスが自分の腹に指を当てる。姉妹は勘づいたようだったが、ニックには今一つピンと来なかった。
「……胃か?」
真顔で答えたニックの脇腹に、ミリアムの肘が入る。その表情は苛立ち千万、アリシアも異様なほどに顔をしかめている。エリスはやれやれ、とばかりに溜め息を吐き出した。
「男には無い場所よ」
半魔法使い
魔法使いという人種は基本的にその血統が強く出る傾向にあり、父親が魔法使いであった場合、生まれてくる子は殆ど魔法使いとして生まれてくる。逆に、母親が魔法使いであった場合はその血統が出る確率が大きく下がる。魔力の含有量と適正は概ね女性の方が高いが、血統の存続には男性が欠かせない。
特定の家系において、複数の世代で魔法使いの女性との交わりがあった場合、半魔法使いという特殊な人間が生まれる事がある。特定の条件下で魔法使いの魔力放出状態に陥り、それが満たされなくなると即座に元に戻る。
ハーム王国においては、統一前からハーム家とベクォン家は数世代置きに娘が嫁ぐ事があり、過去に五名の半魔法使いの存在が確認されている。
―魔法使いの記録『メーシア大陸の名門ベクォン家の盛衰』より




