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第九十三話『公爵に迫る』

 大陸暦六一六年、大魚の月初旬-

 ジリボン衆議塔に潜入するため、ポールとシャスタに連れられたアリシアが向かった先は、路地裏からの下り階段だった。敵が潜伏している可能性を考慮し、サミサ商会とニムネク商業の荒くれ者が先行する。


「お嬢、ベクォンの奴らはここまで兵を回してません」

「分かった。市民が避難してるかもしれない。危害を加えるんじゃないよ」


 堅気には見えない男達に先導され、階段を下り終える。暗がりに響く足音から、決して狭くはない。ふと足元に顔を向けると、流れる水音が規則的な音を立てている。等間隔に置かれた松明の灯りから、単なる地下道ではないと感じていた。


「これは、地下水道ですか?」

「半分当たり、かね。ここはジリボン市街地全域に張り巡らされた、地下下水道さ」

「下水道ですか?」

「あぁ、市街地から出た排水を地下に集めて、浄化の術式陣で濾してから海に流すのさ」


 シャスタの説明に、アリシアは今が戦闘中である事も忘れて感心した。王都ボートミールは市街地と港が南から南東に掛けて発展しており、西側は排水路が整備されているが、地上に露出しているため、浄化の術式陣を用いても臭いなどの問題があったのだ。ジリボンは王国統一以前からベクォン地方の要衝として栄えてきただけに、歴史はボートミールより深い。


「どうしたい、何か考え事かい?」

「えぇ、父が……先王がベクォン家との繋がりを深めようとした理由が気になって」

「ベクォン家は元々、これだけの都市を有する地域を治めてきた豪族さ。今までの王様の中にも、ベクォン家と婚姻関係になった事は少なくない」

「そうですよね、ごめんなさい。こんな時に」


 シャスタと言葉を交わしながらも、アリシアはもう一つの可能性を考えてしまっていた。魔法使いの家系にあって魔力の乏しい当主ルイスをジリボンに残したまま、その姉ミランダを娶り、父セオドアを宮廷魔術師として手元に置いた。そして、二人の不審死とアリシア自身に縁談の類いが一切なかった事-


「父は、ベクォン家の力を削ぐ目的があった……?」


 もし、全てとまでいかずとも、多くの事象が仕組まれていたのだとしたら、アリシアは背筋に冷たいものを感じながら、薄暗い地下下水道を進んでいった。



 ベクォン家の屋敷に着いた二人を待っていたのは、ベクォン夫人ヒルダだった。武器は持っておらず、忍ばせているようにも見えない。ただ粛々と佇んでいた。ニックとミリアムは馬を降り、長い槍と杖を近くの木に立て掛けてから、門に近付いた。


「お久しぶりでございます、ニック様、ミリアム様」

「いえ、我々はもう、ハーム王家の者ではありません。して、貴女はここで何を?」

「私達はオリビアに会いに参りましたの」


 焦燥し切ったヒルダと対照的に、ニックとミリアムは若々しさに精強さを兼ね備えていた。あの夏の時に見た輝きを失っていない兄妹を前に、ヒルダは顔を覆って泣き崩れた。


「私は、私は無力です。夫を止める事も、娘を助ける事も叶わなかった……!」

「ゆえに、我々が参りました。公爵を止め、オリビアを迎えに」


 ニックの顔立ちと声色は柔和で、今この街が合戦の渦中にある事さえ忘れさせるようであった。気持ちを落ち着けたヒルダはゆっくりと立ち上がり、門を開けると二人を手招きした。かつて見た屋敷の庭は、その優雅さも大貴族の威風も、全てを失っていた。一流の庭師が切り揃えていた庭木や生垣は方々に伸び放題で、虫食いも枯れ枝も見られる。


「余裕がなくなっているのですわね」


 ミリアムがぽつりと口にした。ニックは言われて見れば、と庭を見回した。


「恐らく、今の公爵の心境というか、本当の部分はこの庭のようになっているのだろうな」


 大魚から牧羊の月に掛けて咲く花の蕾も見当たらず、荒れるに任せて廃墟同然と化した庭を横目に、二人は玄関に辿り着いた。ヒルダはニックとミリアムを招いている間、一言も発する事無く歩いていた。


「夫と娘は、三階の書斎にいるでしょう……ごめんなさい、私はもう疲れました」


 ヒルダが玄関扉を開け放ち、ニックとミリアムが屋敷へと足を踏み入れる。ふと振り返ると、開け放たれた扉の向こう、荒れ果てた庭と戦禍の空を背景に、光のない目でただ立ち尽くすだけの夫人の姿があった。後から来た者が玄関を通り過ぎる頃には、ヒルダは短剣を手に伏し、事切れていた。


「行こう、ミリアム」

「……分かりましたわ、兄上様」


 玄関ホールからまっすぐ伸びる階段を上る。中二階に飾られた家族の肖像画には、在りし日のベクォン公爵夫妻と二人の子供が描かれていた。絵の中のハンスとオリビアの見た目から、一年ほど前に描かれたものらしかった。それさえ色褪せて見えるほど、屋敷そのものの空気がひどく荒廃していた。


「来たな、忌まわしき王の子らよ」


 三階の奥の書斎、そこはベクォン公爵ルイスの私室だった。踏み込んだニックとミリアムを待っていたのは、書斎の机に肘をつき背中を向けるルイスの姿だった。書斎の中は薄暗く、罠を警戒して歩を進める。二歩三歩を踏み締めたところで、部屋中に置かれていた数多くのランプが一斉に灯った。


「随分と、悪趣味な出迎えだな……」

「兄上様、あれは……」


 ルイスと机を挟んだ向こう側、ランプの光に照らされて初めて確認出来た人物の姿があった。薄紅色の長い髪、瑞々しさは失われつつも若さを保った肌、一糸まとわぬ少女はニックとミリアムがよく知っていた。


「オリビア!」


 ミリアムが叫び声一つと共に踏み出しかけたところを、ニックが手で制する。オリビアの様子がおかしい事はすぐに分かった。目は開かれているが瞳に光はなく、虚ろな眼差しを投げかけている。ヒルダの憔悴とも違う異常、異質さだった。ルイスは椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩いてオリビアの背後に回り込む。


「君達が会いたがっていたオリビアはここだ」


 ルイスはオリビアの肩から手を回し、胸の前で手を結ぶ。ミリアムはその光景に、吐き気を催すほどの不快感に襲われた。そのおぞましい父と娘の姿に、ニックも顔をしかめる。オリビアの頭には、黄金の茨冠が載せられていた。父が娘に贈る物として、これほど最悪の品はない。


「オリビアをどうした」

「このジリボンを覆う銀の壁を破られた時、随分と心と集中が乱れてしまったのでね。私の方で制御させてもらったのだ」

「制御って……それでは、オリビアは操られているも同然ですわ!」

「操るなど、人聞きが悪いな。この子は私に全てを提供してくれたのだよ。稀代の魔法使いたる、膨大な魔力をね」


 ルイスの言葉に、ニックとミリアムは得物を向けた。二人揃って、その目には堪え切れないほどの怒りが渦巻いている。今までに感じた事もないほどの激しい敵意と憎悪で腹の底が煮えくり返りながらも、不気味なほどに思考は冷静だった。冷徹と言って良かった。


「さて、時間だ」

「何……!?」


 ニックが向けた切っ先が揺れる。否、揺れていたのは自分達ではなく屋敷そのものだった。


「衆議塔で魔力を集中させていた姉が、術式を完成させたようでね」

「姉……ミランダ妃ですの!?」

「そうだ。『流れる銀』を用いたゴーレムの究極体だ。このジリボンに集まった敵は一人残らず死に絶える。姉がゴーレムを創り上げ、私がオリビアの魔力を引き出して制御する……そして、私はハーム王家とその王国全てに復讐するのだ……!」


 窓の外が銀の輝きに埋め尽くされる。ルイスから放たれた衝撃波はニックとミリアムを書斎の外へ弾き出すには十分な力を有していた。


「さらばだ、娘の友人達よ。向こうで息子によろしく言っておいてくれ」


 ルイスの高圧的な声が、猛烈な空気の流れの中でニックの耳朶を打つ。恐らく、屋敷を崩落させて自分達を葬るつもりだろう。閉ざされた書斎の扉が『流れる銀』で塞がれる。待て、ニックの叫びは暴風の壁に弾かれるだけだった。

大陸暦六一六年、大魚の月初旬―

公爵様に暇を命じられたのは、去年の秋だったよ。おかげで暮れはひどいもんだったさ。

この地下に潜ってたサミサ商会って奴らの援助がなかったら、とっくに飢えか寒さで死んでたよ。

   長年ベクォン家に雇われていた庭師の言葉

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