第九十一話『約束』
大陸暦六一六年、大魚の月初旬-
強化した障壁の幾つかが破られ、それを守る弓兵も討ち取られ始めた。
ジリボン中央の衆議塔を覆った半球状の銀の幕は、市内全域の敵味方の位置を察知する能力があり、それは中枢のミランダによって把握されていた。
「姉さん、何が起きている?」
「南から迫る水軍艦隊が港付近を砲撃、火の手が上がったわ。飛竜も多く飛ばされ、弓手の損害も増している。障壁も既に半数が破られているようね」
「……分かった。姉さんはもう船を迎撃しなくていい。魔力の集中に専念してくれ」
「分かったわ。それなら二刻もあれば充分よ」
ミランダの返事を受け、ルイスは意識をオリビアの茨冠から引き離した。金の茨冠の効果は絶大で、オリビアの意識どころか、その膨大な魔力さえ意のままに出来る。この半年あまりでひどく消耗しているが、それでもルイスの魔力を大きく上回っていた。オリビアの意識を介してミランダと連絡を取るなど、わけない事だった。
「素晴らしいぞ、この冠は……オリビアの全てが私の手の内にある」
魔法使いの家系に生まれていながら、魔力に乏しいというコンプレックスは、長い事ルイスを苦しめていた。弟をはじめ親類縁者から蔑まされる事も少なくなかったが、それでも側にいてくれたのがミランダであった。その最愛の姉を奪った国王への憎しみは深く、ジリボンを王都ボートミール以上の商業都市にしたのも、財力で軍備を整えるためのステップに過ぎなかった。
「姉さん、もう少しだ。もう少しで、僕達には究極の力が手に入る。そうなったら、まずはあの忌々しい王都を灰塵にしてしまおう……!」
ルイスは正気を失っていた。『流れる銀』によるものか、深い憎しみによるものか、その区別は誰にも付かなかった。一糸まとわぬ姿に茨冠を被せられて淀んだ眼のオリビアは、混濁した意識の中で、狂気に呑まれる父の高笑いを聞かされ続けていた。
「申し上げます、市街地各所の障壁が、全て消えました!」
「全てをこちらから破ったわけではないな。向こうが消したのか」
「詳細は分かりません。しかし、魔法兵を伴わない騎兵から、目の前で障壁が消えたとの報告が上がっています!」
伝令の言葉に、ニックとキャシックは互いに顔を見合わせ、頷いた。
「分散した兵は、ある程度の集団となって中央を目指すように伝えよ。まだ何が待っているか分からん。警戒を怠らず、着実に進撃せよ!」
「はっ!」
伝令が駆け去り、ニック達も前進を開始する。まだ弓兵が残っている可能性も踏まえ、周囲を警戒しながら並足で進む。少し経って、キャシックはニックの兜から垣間見える口元に、考え事の気配を感じ取った。
「ニック様、まだ何か隠し玉があると思われますか?」
「あぁ、障壁を解除した事で浮いた魔力を、どこかに回す気だろう」
「楽観視は出来ないと言う事ですな。私も、兵に遅れないようにしませんと」
「分かった、気を付けて進んでくれ」
キャシックはニックにお互い様です、と返すと、槍を掲げて銀騎兵を伴って駆け出した。ジリボン中央の衆議塔まではまだ距離がある。ニックは駆け込んで来る伝令に指示を飛ばしながら、少しずつ進んでいった。
「くそっ、またこいつらか!」
「あの術式でまとめて消し飛んだんじゃなかったのか!」
「落ち着け、奴らは『流れる銀』からいくらでも沸いてくる。慌てずに対処せよ、囲まれるな」
ニックが睨んでいた隠し玉の一つ、銀屍兵が街中の各所から沸いて出て来たのだ。ビフ率いる歩兵隊は路地の幅いっぱいに槍兵を展開し、二重の槍襖でもって待ち構えた。無論、上からの矢にも注意を欠かさない。銀屍兵は剣を振りかざし、単純に突っ込んでくるだけだった。程なくして数多の穂先に絡め取られ、倒れては飛散する。
「街の外で戦った奴らとは、まるで違うな。陽動の可能性もある。勢いに任せず進め」
あまりの手応えのなさに、ビフはかえって警戒を強めた。以前にも同様の手口で誘い込まれ、痛手を受けた事がある。しかし、前進しない事に勝利は得られない。戦力の温存に徹するあまり、士気を削いでは意味がない。それから幾度か、何ら脅威でもない銀屍兵を討ち取りながら進んでいた。
「大隊長、これはある種の偽兵なのでは……?」
「それも考えられるな。こちらの警戒心に付け入って、足止めを繰り返しているのかもしれん」
副官の意見に、ビフは敵の動きを訝しんでいた。偽兵による遅滞戦術は、ニバラク侯爵領の解放戦でこちらが使った手だ。時間稼ぎも視野に入れたビフは、兵に進軍を早めるよう指示した。
「それにしても、ここはどの辺りだ?障壁で分断と迂回を強いられたが、いかんせんどこを進んでいるのか分からん」
ビフはジリボンに土地勘がない。ボートミール近郊の農村で育った平民からの叩き上げで、王家直轄領以外を知らなかった。一応、太陽の向きと影で大まかな時と方角を把握しているが、大規模な計画都市として作られたジリボンの建物が織り成す幾何学模様のような路地は、慣れない者の感覚を奪っていた。
「前方に兵、敵と思われます」
「よし、槍兵は構えて前進、敵と確認したら攻撃に移る……いや、待て」
前方に敵と判断したビフは、一瞬の後には考えを改めた。前方は建物が開けている。大通りに行き当たったのだ。そして、敵と思われていた兵は、東門から侵攻していたハーム軍だった。
「どうされた、貴公も迷子か?」
「そんなところだ。東門から攻め込んだのはいいが、障壁でさんざん回り道をさせられた。ここは北門からの大通りのようだな」
ビフに声を掛けられた相手は、金装飾の施された重装歩兵だった。リアブ将軍率いる金甲兵である。
「こちらはニック様の指揮下にあった歩兵三〇〇、そちらは?」
「我々はリアブ将軍指揮下の金甲兵二〇〇、数は多い方が良い。合流してこの通りを一気に南下するのはどうだ?」
「おう、それは良い」
二つの歩兵隊が合流し、五〇〇という数に膨れ上がる。堅牢で名高い金甲兵に、死線を潜り抜けてきた精鋭が加わる事で、その強さはさらなる磨きが掛かっていた。それは、大通りで待ち構えていた銀屍兵四〇〇に真っ向からぶつかり、片手で数えるほどの損害だけで撃滅した事で示された。
数刻が経ち、太陽が西に傾き始めた頃、ニックとミリアムはとある場所に出た。西側の小広場である。かつて、ベクォン家の屋敷から脱出した二人が戦った、あの広場である。ハンスの魔法剣で焼き斬られた石像が、修復も交換もされる事なく残っていた。
「ここから北西に向かえば、ベクォン家の屋敷か」
「そうですわね。公爵の捕縛とオリビアの制止、そのためにも行かねばなりませんわ」
ニックは自ら行かなくてはならない事に気付いていた。しかし、全軍の指揮を疎かにするわけにもいかない。少しの間考え込み、近くにいたコンラッドを呼びつけた。
「どうしたんだよニック。この先がベクォンの屋敷なんだろう、オレも行くぜ」
「いや、コンラッドは残ってくれ。コリンズと共に、ニバラク侯爵領軍の指揮を任せたい」
「何言って……」
コンラッドは言い掛けて、口をつぐんだ。ニックがルイスを打倒しなければならない、その真意をなんとなく感じ取ったからだ。
「……分かったよ。だが、これだけは約束してくれ。必ず戻ってこい、二人でな」
「分かった、約束する。コンラッドも死ぬなよ、ミリアムを今から未亡人にしたくない」
「抜かせ」
口調は荒かったが、勝手知ったる親友の呼吸であった。兜の隙間越しに互いの目を見て、口許を歪めて笑みを浮かべる。僅かな時間の後に顔を引き締めると、ニックは旗手や伝令の兵をコンラッドに引き渡した。指揮権の委譲が終わると、ニックはミリアムを伴って馬で駆け出した。
「行ってこい!ニック!」
コンラッドの言葉を背中に受けて、ニックは一度だけ右手を上げた。行ってくる、という合図である。
かくして、昨年夏の月夜に脱出したベクォン家の屋敷に、今度は白昼堂々と突き進んでいた。
大陸暦六一六年、大魚の月初旬-
銀の塔からの光が止んだ。道を塞ぐ障壁も消えた。弓兵は我々が仕留めていた。ひとつひとつ、状況を有利に引き寄せていくしかない以上、焦りは禁物だった。例え、仲間の死を目の当たりにしても―
ニバラク侯爵領狩猟ギルド員シャーリーンの手記『大魚の月六日』




