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第八十八話『風に消ゆ』

 大陸暦六一六年、大魚の月初旬-

 アリシア合流の翌朝、ニック達は必要な人数の魔法兵を連れて、術式陣の配置を行っていた。

 術式陣は魔晶石などのパワーソースを特定の並びに置く事で発揮され、用途や規模に応じてその数が大きく変化する。コンラッドの眼帯に光を宿し、コリンズが雷を呼び寄せ、ミリアムが汚染された砦の井戸水を浄化し、ニックが屍ゴーレムの大軍を消し飛ばしたのも、全てが術式陣によるものであった。


「魔力強化を多めに、拡散は無くていい。むしろ集束を加えよう」

「術式陣の魔力回路が心許ないわね。もう少し魔晶石を増やせるかしら」


 西門の真正面に展開し、強化された解呪の術式を集束してぶつける、というのがアリシアの案だった。ニックもミリアムも術式陣を用いた経験があるため、飲み込みは早い。渦巻く白銀の霧が織り成す壁の前には、相変わらず銀屍兵が並んでいる。こちらに攻めてくる様子はない。


「気取られていないのか、取るに足らないのか……」


 ニックは怪訝な顔で銀屍兵を眺めた。守るというよりも、時間稼ぎの様相をうかがわせる。しかし、どれだけ時間を稼いでも、ジリボンが有利にはなり得ないはずだった。アリシアによると、北門側は銀屍兵すら出ておらず、一切の備えがなされていないとの事である。


「兄上様、準備が出来ましたわ」

「分かった。必要な魔法兵と魔晶石の準備はビフ殿とコリンズに任せている。ミリアムは姉上と休んでいてくれ、私は将軍達と打ち合わせをしてくる」


 また兄の悪い癖が出た、ミリアムは早々に馬で駆け去ったニックの後ろ姿を見て思った。ホツキネ砦の時も、前の晩から寝ずに準備を進めていたので、朝方に術式で強制的に眠らせた事がある。大一番を前に、必要以上に張り切るのだ。今回も、一睡もしていなかった。

 作戦開始は二刻ほど後の事になった。


 昼前、打ち合わせの通りに配置された魔法兵が、一斉に杖の魔晶石を起動させた。

 それだけなら通常の術式を用いる時と大差ないが、違いはここからだ。術式を行使せず、ひたすら魔力を杖に溜めてその輝きを強めてゆく。魔力強化の陣はこの時の術者や杖の負担を軽減させ、効率を上げる効果がある。溜めた魔力は左右と後方四つの陣から伝導担当の魔法兵を伝い、中央の術式行使者の元へと送られる。


「……オリビア、感じる?」

「はい、西門の前に、凄まじい魔力が集まっています」


 ジリボンを囲う白銀の壁の内側で、オリビアとミランダは離れた尖塔の中枢となりながらも『流れる銀』を伝う魔力で意思の疎通を行っていた。


「伯母様は、あとどれほど掛かりますか?」

「あと半日と言った所ね。そうすれば、もう誰にも止められない……」

「分かりました、防ぎます」


 中央の衆議塔を覆い尽くし、壁からも突き出て天を仰ぐ尖塔の突端からは、絶えず海に向かって光が放たれていた。既に砲艦一隻を損傷させ、輸送船数隻を沈めた。しかし、それでもハーム水軍の艦隊は止まる気配がない。元々の命中精度が悪い上に、煙幕まで張られている。ミランダは焦っていた。


「相手もベクォンの血を引く者……」

「アリシア……私の娘……」


 中央に描かれた陣は、集束の術式陣であった。魔力強化によって得られたエネルギーを一点に集め、術者そのものを射出装置とする陣である。陣の中央にはアリシアとハンスが立っていた。同じ魔法使いの一族でなければ、打ち破る事が出来ない。


「出力よし、伝導率よし、魔力充填よし……ハンス」

「分かっています……」


 アリシアとハンスは杖の先端を西門に向けた。母を、妹を、止めなければならない。その一心で、二人は同時に解呪の術式を行使した。それは未だかつて見た事がないと言われるほどの、魔力の奔流そのものだった。神秘的でありながらも禍々しささえ感じる白銀の壁に突き刺さったのは、無垢そのものと言うべき純白の輝き。射線上にいた銀屍兵は一人残らずかき消えた。


「くっ、なんて魔力……でも、防げないほどでは!」


 オリビアはジリボンを囲う白銀の霧を西門に集中させた。そして、ベクォン家の秘伝の一つである障壁の術式によって、アリシアとハンスの術式に対抗し始めたのだ。


「なんて強力な障壁なの!」

「オリビアは歴代ベクォン家でも指折りの魔法使い、父が言っていました」


 激しいという他に言葉が見当たらないほど、膨大な魔力が衝突している。ニック達はアリシアとハンスを信じ、その様子を見守るしかない。消費している魔晶石の量とハンスの残り時間から、チャンスはこの一度きりだった。


「オリビア、もう止めるんだ……!」


 ハンスは心の奥底で叫び、それは迸る魔力に乗ってオリビアの障壁にぶつかった。


「お兄様…!?」


 突如として彼女の脳裏を過る懐かしい声に、障壁を形作る魔力が止まり掛ける。


「聞こえるか、オリビア。父のしている事は、間違っている」


 白銀に染まる視界の向こうから、声の主の姿が浮かび上がってくる。ハンスだった。実際に相対しているわけではなく、ぶつかり合う魔力の奔流が互いの脳内に作り出した虚像である。その証拠に、オリビアもハンスも一糸纏わぬ全身が蒼白く発光していた。


「ここを開けてくれ、オリビア。皆が、お前を迎えに来た」

「皆……ニック様とミリアム様が?」

「コンラッドとポールも一緒だ。僕もこうしてここまで来た」

「……ここを通すわけにはいきません」


 オリビアは一瞬たじろいだが、すぐに気を入れ直した。声色にも硬質なものが宿る。


「お父様は、お爺様と伯母様の仇を討つと決めました。お兄様も同意されたはずです」

「その仇討ちのため、何人が犠牲になった?そして、その仇はどうなった?」


 ハンスの言葉に、オリビアは再び怯んだ。ルイスの仇討ちによる反逆で生じた死者は、一万に達しようとしていた。そして、その最初の犠牲者が王都の近衛兵であり、ジリボンの自警団であり、ミリアムを連れて逃がしていたウォーレンであった。


「……もう、私の手は血に染まっているのです。今更、引き返す事など!」

「出来るさ。事実、僕はここまで来た。オリビア、お前を止めるためにな」


 兄の顔は、曇りの無い慈愛に満ちた微笑みさえ浮かべていた。恐らく、ニックやミリアムも同様なのだろう。オリビアの障壁の術式が綻んだ。


「だが、僕にはもう時間がない。お前の顔を見れただけでも十分だ」

「待って下さいお兄様!」

「オリビア、生きてくれ」


 ハンスは目を閉じた。微笑みと相まって安らかな表情で、数多の光の粒となって消えた。そして、手を伸ばしたオリビアの視界は、押し寄せる膨大な魔力の激流に塞がれ、押し包まれた。



「霧が晴れるぞ!」

「ジリボンの門が丸見えだ!」

「よし、動ける者はジリボンに総攻撃を掛けよ!」


 兵士から歓声が上がる。ニックはすかさず攻撃命令を下し、多くの兵が突撃した。アリシアの解呪の術式が、オリビアの障壁を打ち破ったのだ。術式陣に参加した魔法兵は一人残らず疲れ、しばらくは動けそうもない。膝をついたアリシアの元へ、ニックが駆け寄った。


「姉上、見事でした」

「私の事はいい……それよりも、これを」


 アリシアが指差した先には、紅い甲冑が崩れ落ちていた。朽ち果てた肉片のようなものが垣間見える。ニックは馬を下り、ハンスだったものを拾い上げようとした。しかし、甲冑もまた朽ち果てており、手に取った途端に錆びた粉のように綻び、風に乗って消えていった。後に残ったのは、剣の柄を自身と繋いでいた、ミスリル銀製の鎖だった。


「持っていけ、って事か」

「ニック、気を付けて。私も少し休んだら追い掛けるわ」

「分かりました。姉上もお気を付けて」


 ニックはハンスの鎖を拾い上げると、再び馬にまたがり軍勢を追い掛けていった。アリシアは、風に溶けた従弟の覚悟にうち震えていた。

ハーム王国とミスリル銀

魔法金属とも称され、高い魔力伝達性を有するが、原料となるミスリル鉱石そのものが希少で、ハーム王国には鉱脈が存在しない。また精錬技術も要求されるため、この時代に広く出回る事はなく、後の時代では需要が失われていた。

ベクォン公爵家の嫡男ハンスが魔法剣を使用するため、刀身の無い剣の柄頭と魔晶石の筒を繋ぐ鎖にミスリル銀を用いていたが、これはヤノミ大陸からの舶来品で非常に高価な物である。ベクォン家の裕福さを示す品の一つとされていた。

   メーシア大陸の歴史『大陸暦六〇〇年代のハーム王国』より

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