第八十五話『大戦の前』
大陸暦六一六年、大魚の月初旬-
ニック率いる連合軍三五〇〇は、夜明けと共に進軍を開始した。ジリボンの中央に屹立する『流れる銀』の塔は、常に蒼白い光をうっすらと帯びており、遠目に見てもそのシルエットがはっきりと見て取れる。夕暮れから宵の口に掛けて、何度か閃光が海に向かって放たれる光景が見られたが、夜半を過ぎる頃には静まり返っていた。
「これより、ジリボンの西門に向かう、行くぞ」
ニックの号令に従い、ニバラク侯爵領軍、ハーム王国軍、キトリヤ領傭兵隊が動き出す。朝霧は冷たく、眠気覚ましには丁度よい。現状を楽観視出来る者などいない。しかし、悲観的になりすぎても、緊張しすぎても良い事はない。行軍ゆえ気を引き締めつつも、足取りはどことなく軽やかであった。
進軍開始から四刻、まだ昼には早い十の刻限、ジリボン手前まであと数刻という所でニックは兵を止め、小休止とした。
「兄上様、ここを覚えてますか?」
「あぁ。覚えている。まだ半年と少ししか経っていないはずなのに、昔の事のようだ」
ミリアムがニックの手を引いて連れてきたのは、ハミラ街道に掛かる小さな石橋と、それが跨ぐ小川だった。草の色も水の香りも、夏の瑞々しさとは異なる、春の力強さに満ちている。何かを察したのか、コンラッドとポールもやって来た。
「ポール、ここ見覚えがあるな」
「昨年の夏、皆でジリボンに向かった際、ここで小休止を取った覚えがあります」
「あー、ニックがオリビアちゃんの代わりに川に落ちた所か」
「相変わらず、お前は嫌な事をよく覚えているな」
ニックが口を尖らせ、コンラッドに鋭い視線を向ける。
前年夏、ポールの言うようにこの場所で馬車を止め、休んだ事があった。その時、浅いと思ったミリアムとオリビアが靴を脱いで川に入った所、思わぬ深みに足を取られた。体のバランスを崩したオリビアを駆けつけたニックが押し戻し、代わりに勢い余って頭から水に飛び込んだのである。
「あの時のお前はずいぶん必死だったな」
「当たり前だ。オリビアはまだ十四だぞ?男三人を前に濡れ鼠なんて、させられるわけがない」
コンラッドは相変わらずだな、と軽い調子で流すと、途端に神妙な顔つきになった。
「まだ、あれからたった半年なんだよな」
「……そうだな」
「色々な事が起きすぎましたわ」
ニックとミリアムも合わせて言葉のトーンを落とす。間の悪い沈黙というより、寂寥感のある静寂と言った方が正しかった。ポールはその姿を見て、掛ける言葉を失っていた。
「だから、止めに行くんだろう?」
声を掛けてきたのはハンスだった。いつにも増して顔色が悪い。残された時間が本当に少ないようだった。傍らにはコリンズがおり、杖の先端を光らせている。
「ジリボンの様子がどうなっているか分からないが、オリビアの手をこれ以上に汚させるわけにはいかない。止めなければ……」
言い切らないうちに膝を着く。表情には出さないよう努めているが、既に肉体と魂の結合は限界を超えていた。先日のラリーとの戦闘で、かなり消耗したのだろう。
「ハンス、分かっている。皆でオリビアを迎えに行こう」
「迎えに……か、そうだな」
ニックが肩を貸す。その体は驚くほど軽く、鎧の分を差し引くと、ほとんど骨と皮しか残っていないように感じられた。ハンスからの目配せに、ニックは小さくうなずいて応じた。
「さぁ、小休止は終わりだ。進軍を再開する」
再び連合軍が動き出す。止めるため、終わらせるため、迎えに行くため、それぞれのために。
同日夕刻、ジリボン東門の近くに布陣したパッテン率いるハーム軍の元へ、シャーリーンが訪れた。海岸線に沿って停泊する水軍の艦隊は、その数を大きく減らしている。空中で大きく旋回する事数回、地上から着地を許可する松明が振られた。
「何者だ、所属と名前は」
「ニバラク侯爵領狩猟ギルド所属、シャーリーンです。侯爵領軍司令官のニック様より、伝令で参りました」
「ニック様だと?証明する物は?」
「こちら、連合を組んだハーム王国軍のキャシック将軍の書状です」
シャーリーンに詰め寄った兵達は、書状の封蝋を見て目を見合わせ、付いて来るように指示した。陣営内の空気は決して穏やかなものではなかったが、ひどくささくれていると言うわけでもなかった。大一番の戦を前に、闘志を研ぎ澄ませていると言った方が正しい。
「将軍、ニック様の伝令を名乗る者が現れました。キャシック将軍の書状を持っています」
「どんな者だ。何人で来た?」
「白頭鷲亜人の……女が一人です」
「分かった、通せ」
兵が幕舎に入るよう促す。中にいた三人の将軍は、入ってきたシャーリーンの姿に一瞬たじろいだ。パッテンとマルキヤは元々は小柄な上、通された女はリアブを一回り小さくした程度の体躯で、女という以前に人として大柄であった。
「ニック様の伝令で参りました、シャーリーンと申します」
「お、おう。わしがハーム王国軍の将軍、パッテンだ。そっちの犬亜人はマルキヤ将軍、そこのデカいトカゲがリアブ将軍だ。キャシック将軍の書状もあるとの事だな」
「はい、こちらに」
パッテンはシャーリーンから書状を受け取ると、マルキヤとリアブにも見えるように広げて読み始めた。読み進めるうちに、表情に明るいものが混じる。
「なるほど、ニック様はハーム王家、ミア伯爵家とも袂を分かち、ニバラク侯爵領軍の指揮を執っているのか。ミリアム様に関しても心配いらんようだな」
「連合軍は明朝、九の刻限より攻撃を開始する予定です」
「うむ、ならばこちらもそれに合わせよう」
「それと、ニック様より言伝てが一つ」
シャーリーンが去った後、幕舎にアリシアが呼ばれた。直属と言う事で、フロリナも随伴している。特に何かしたというわけではないが、呼び出しというものは緊張する。増してや、ハーム王国軍の六大将軍の半数が待ち構える幕舎である。ほとんど、肉食獣の小屋に入れられた餌の肉同然だった。
「先程、ニック様より遣わされた使者が来ておりました」
「ニックは無事だったのですね」
「えぇ、ニバラク侯爵領軍を率い、ミリアム様やキャシック将軍とも合流したそうです」
パッテンの言葉を聞いて、アリシアは大きく肩から溜め息を吐き出した。ニックは無事で、死んだと報告を受けていたミリアムも生きている。自身も公には亡き者となった今、腹違いの弟と妹の健在が心の支えとなるのも無理のない話だった。
「……ニックがそれだけで使者を寄越すはずないでしょう、本題は何ですか?」
アリシアは思わず涙ぐみそうになったが、すぐに現状を思い返して将軍達に向き直った。
「ジリボン中央の衆議塔を覆った銀の輝きを生み出したのは、ミランダ様だそうです」
「……ベクォン家の魔力に近いものを感じていました。それも、私のものととてもよく似ている……」
恐らく、気が付いていたのだろうー悲壮感を漂わせつつも腹を括った表情に、パッテンは元よりリアブ、マルキヤ、フロリナまでもが背筋を汗が伝う感触を覚えた。幼少の頃より、心に決めた事がある時の鋭い目付きは父ハロルド三世に似て、漂わせる気配は王者の気風を帯びている。
「私は、叔父を止めます。同時に……母も」
アリシアの目に光が宿る。明くる日の決戦を前に、既に心は決まっていた。
大陸暦六一六年、大魚の月初旬-
これだけの人が集まれば、思うことも色々ある。しかし、今は目の前の敵を倒すのみ。亡き両親に勝利を捧げる、それが今の目標だ。
キヤスキー傭兵隊隊長ゲオルギー・キヤスキーの手記『大魚の月五日』




